絶望の高校生活から、フランス料理に生きる意味を見つけた私

高校時代 ― 地元から都会へ飛び出した私

私の高校時代は最悪だった。地元の中学が本当に楽しくて、勉強も楽しくて、全てが順風満帆だった中学時代。
そんな楽しい世界がもっと都会に出れば広がると思っていた私は、地元の公立進学校を蹴って、家から遠い三島にある私立のマンモス学校へと進学した。その学校は特進クラス、普通クラス、スポーツクラスと分かれていて、私は特進クラスに入学した。
特進クラスの先生はドラマに出てくるみたいな熱血教師だった。
「お前ら、下の階には行くなよ!!スポーツクラスと普通クラスとつるむとバカが移るから。」なんて本気で言っちゃうような教師だった。
朝学校に行くと全員机に向かって猛烈に勉強していて、遊んでいるやつなどいなかった。この特進クラスは公立のトップクラスの高校受験に失敗してここにきている人が少なくなかった。だから悔しさで皆次の大学受験に躍起になっていた人も多かったように思う。

勉強の意味を見失った日々」

私は勉強が嫌いではなかった。むしろ中学は学校の授業を聞くだけで面白いくらいに勉強ができたし、自分で参考書なり色々買って机に向かっていたように思う。でも、この頃からなんのために勉強が必要なのかという疑問を持ち始めていた。周りを見回しても明確な答えは見つからなかった。

良い大学に入ればより良い企業に就職できる」
「勉強をとりあえずしていれば潰しが効く
」――こう皆言った。
もしこの時、私の周りにこういう経験があって、どうしても弁護士になりたいとか、お医者様になってこの研究をしたいとか、具体的な将来に明確な夢を持つ友達がいたら変わっていたのかもしれない。

勉強をする意味が分からなかった。

だから私は全ての勉強をボイコットした。

昔から私の性格は0か100だ。

これだと決めたら死ぬ気でやる。でも、気持ちが乗らないものにはほぼ死んでいるような影のうす〜い人間になる。
この時は後者であった。本気で授業を聞かなかった。
学校では朝から最後の授業までほとんど寝た。当然問題児として扱われ、呼び出しを何回も食らった。

この時の私の成績順位は900番代だった。全生徒は1年生だけで1000人以下くらいだったので、特進クラスに入れた私の成績は、始めは100番以内ではなかったろうか。でも高一最後の頃は、スポーツクラスの子より成績は落ちていた。当時の事を母親が言うには、私が高校に入学してものの1ヶ月も経たないうちに毎日こう言っていたそうだ。
「今日で、この高校を卒業するまで1050日だね。」

自己流のサバイバル作戦

流石にこの順位はまずいなと思った私はある作戦に出る。
授業を一切聞かないで頭を真っ白のベースに持っていき、試験前は一週間ユンケルを飲んで寝ないで全てを暗記する。この方法で順位はけっこう上がったと思う。ただこの方法の効能は一時限りで、テストが終われば記憶は飛んでいたので健康に悪いだけの最悪な解決方法だったと言える。

思春期とコンプレックス

この頃思春期真っ只中だった私は、自分の体型のコンプレックスに悩んでいた。ほぼ全ての女子高生が通る悩みかもしれないけれど、私も同じく痩せることに囚われていた。(これは今もかも😛)
当時、私は家の居間にあったランニングマシーンで毎日走りながら汗だくになって、その後ストーブの前でこう言っていたそうだ。

「私は多分20歳まで生きられないと思う。」

とにかく極端であった。
生きる意味が見出せない。
本当にそう思っていた。この時から今に至るまで、私の母親は手取り足取りではないけれど、私の味方になってフォローをし続けてくれた。

辻調理師専門学校、1日体験、この新聞の中の小さなチラシを見つけたのも母だった。

自分探しの旅 ― 青少年の沖縄プログラム

私は当時ガムシャラに自分探しをしていた。どんな仕事に就けば生きる意味を見出せるんだろう。そんなふうに思っていた。その時、おばあちゃんからの紹介で「青少年の沖縄の旅」なるものに参加した。(悩める思春期真っ只中の青少年達が沖縄の戦争の歴史を知ろう)という、今思えばスーパー暗いコンセプトの旅であった😛
でもこの旅行で自分の中に小さな、とっても小さな希望の穴が空いたような気がする。そしてその穴から本当に一筋の光が入った。
その光こそまさしく辻調理師専門学校1日体験であった。

辻調理師専門学校(辻調)は
どっちの料理ショーという当時人気のある番組に講師陣達が活躍していた。
この後ビストロSMAPが登場し服部栄養専門学校と共に料理人を目指す若者が増えたと思う。

辻調理師専門学校1日体験
私はフランス料理人になる1日体験とパティシエになる体験を両方選んだ。
初日は料理だった。
真新しいコックコート、コック帽を被り調理台に向かった。
教師陣達は料理を、フランス料理を熱く語った。

この時私ははっきりと、たった1日で、自分の将来の10年先くらいまで見えたような気がした。
隣にいた母親もまた同じように思ってくれた。
ゆかちゃん凄い。輝いているよ。

その夜2人でホテルで話したのを覚えている。
私決めたよ。料理人になってフランス行くよ。
辻調理師専門学校にはエコールキュリネール国立と言う東京校の1年と、2年目に同校のフランス校に留学できると言うコースがあったのである。
余談であるがこの時2日目にパティシエになる1日体験コースなるものも受けた。ただその時の授業や講師陣はとても素敵だったけれど女子のキャピキャピ感が凄かった。
生地を絞りながらその上に帽子が落ちてしまったけれど皆で笑っていた。
私は自分の命を賭けるものが欲しかった。なのでこの時のお菓子コースは魅力的に映らなかったと言える。
フランス料理の料理人としてフランスで生きていきたい
十分過ぎるほど命をかけられるものだった。

初めてのフランス旅行

そんな日々と同時期に小学校の頃から通っていた英語の学校で、先生の友達にフランス人がいるということでホームステイをしたらどうかという話が持ち上がった。
縁とはこういうものなのかもしれない。
フランスに行ってフランス料理を勉強したいと思い始めたらいろいろなことが周りで動き始めたのだ。
あれよあれよと二週間のフランス旅行が決まったのだ。

私の初めて降りたフランスはパン屋さえもない、田舎のとても寒いシャンパーニュ地方、バーシュールオーブという場所であった。

ホームステイ先の石造りの家の中はとても素敵で、大きなリビングのダイニングテーブルでご馳走になった料理は忘れることができない。
とてもお腹が空いていて、一番最初に出されたスープが美味しくて3杯もおかわりをしてしまった。
17歳の私はまだフランス料理というものを理解していなかった。
日本人の食卓には、食事が一度に全て並ぶのが普通だ。
前菜、メインなどいう概念のない私はこのスープが今日のお夕飯と信じて疑わなかった。
その後にサラダが出てきた。
もう一品あるんだ。
と1日目の食事だし、作ってくれた彼女を思いサラダも完食した。
しかしそれはただの前菜であった。
その後、煮込みのメインが出てきた時、青ざめたのは言うまでもない。
(すでにスープ三杯、サラダも食べている)
そしてまだまだ終わらないフランス料理。
その後チーズ、チョコレートケーキ、フルーツと続いたのだ。
まさにフランス料理の洗礼を受けたのは言うまでもない。

外気温がとても寒いのでその家には冷蔵庫がなくて、外にチーズや野菜、肉を置いていたり、庭にはたっくさんのブルベリーがなっていてそれをとってブルーベリーのタルトを作ったり。

お風呂場も面白かった。
何故か本がたくさんある図書室みたいなところに大きな絨毯があってそこに猫足のバスタブが置かれている。
とてもインテリアとしては素敵だけれど、お風呂の蒸気で本が濡れないのかな?とか何故お風呂の部屋なのに床がカーペットなのかな?とか謎だらけなのである(🇫🇷シャンパーニュ地方はとても乾燥していて日本ほど湿気がないからであろうか。)

寝室のベッドメイキングはとても素敵であった。
ベッドの上は何枚ものシーツやベットカバーが重ねられて、枕も3、4個あって、まるでお姫様のベッドみたいに素敵だったのだ。

週末には村の皆が集まって仮装大会をした後に集会所でご飯を食べたこともあった。
子供もたくさんいたのだが、大人の食事をする場所と子供の場所は離れていて大人は皆でワインと食事を楽しみ、大勢の子供達はベビーシッターと共にお行儀良く食事を楽しんでいた。私は大人のフランス語会話に入れるわけもなく、子供達と行動を共にしたのである。

私はフランスという国の魅力に取り憑かれ始めていた。
この国の空気が、自分にしっくりあうのを感じたのを覚えている。しれば知るほど興味が湧いた。
一番の理由はなんだろう。
私は何もないことが素敵だと感じた

日本に比べて生活はとても不便だったと思う。パンさえも車でくる移動パン屋であった。コンビニもない。
仮装行列の時に窓の外からある一軒の家を覗いたら、電気をつけないでキャンドルの下でおじいちゃんとおばあちゃんが食事をしていたのである。

皆とても丁寧な暮らしをしていた。
各々の家はとてもこだわりのあるインテリアで飾られている。
今現在もフランス人を知って思うのであるが、フランス人は多少不便でもセンスの良いインテリアを選ぶ。安いものを使い捨てるのではなく、アンティークの良いものを修理をしながら長く丁寧に使う。

近所の集会の集まりも、音楽の発表会も休憩中にシャンパンを飲んでいた。
ホームステイのマダムは、18歳の娘のパーティードレスを作るのだと布屋に布を買いに行く。
子供の体操服のポーチを作るのとは訳が違う。

フランスは大人の国である。皆の考えがとても成熟していて、歳の女性が敬意を持って扱われ、エレガントなのである。

昔も今も私のフランスへの憧れは変わらない。


辻調理師専門学校との出会い ― 18歳の再出発

18歳になった私は辻調理師専門学校の東京、国立にあるエコールキュリネール国立というフランス料理の専門学校に入った。
この学校の中にはフランス料理だけではなく、日本料理部門、そしてパティシエ部門の三つで当時は構成されていた。
料理学校の中で辻調理師専門学校は料理の東大と言われるほど技術は最新で素晴らしく、設備も整っていた。
真新しい包丁セット、コックコートを持って毎日意気揚々と学校に行った。

多摩川のほど近く、仲間と暮らす寮生活
私は学校のある谷保という駅から南武線で何個か下った所にある中之島という駅にある寮に住んだ。
皆地方から出てきた女の子が集まっていて、料理人志望の子はあまり多くなく、ほとんどがパティシエ希望だったように思う。
近くに多摩川が流れていて自然が沢山あって安心できる街だった。
学校から帰ると皆が食堂に集まっていて、料理の子は買ってきた鯛をおろす練習をしたり、パティシエの子は絞りの練習をしたりして、皆がそれぞれ何かを真剣に頑張っていた。

料理学校の方でも私は超気合いを入れて通っていたので、遅刻は愚か誰よりも早く行き、最前列の席を取って教師陣を睨むように勉強した。

初めのうちはクラスの皆もちょっと引いてみていたのかもしれない。
でも一か月もしないうちに皆が自分に着いてくるようになった。
この学校の生徒達は皆が夢を持ち、同じベクトルを向いていた。
高校の時の周りの人達とは明らかに違った。
誰もが料理人やパティシエになる事を信じて疑わなかった。

0か100の性格。全力で向き合った毎日

去年までの三年間地獄の生活であった。
生きていくことすらも、難しいと思っていたほどだ。
私は自分が目指す道、方向が見つけられたことに感動していた。
水を得た魚のように輝かしい毎日がやってきたように思う。

フランス語と料理。どちらも本気

私はメチャクチャ勉強した。
朝起きてNHKのラジオでフランス語を勉強してそれを録音し、そしてまた夜復習をした。
学校で教師陣が話してる事を聞いて覚えたフランス語で書いてその場でまとめていった。家に帰ってノートを整理する時間をまた他の勉強に回した。

かと言ってガリ勉女子だったわけでもない。
勉強も頑張ったけど目一杯遊んだ。

寮の子達は右は北海道、左は九州からなど全国から集まっていて皆と方言を交えて話すのは本当に楽しかった。皆とても純粋な子達ばかりでパティシエの子達からケーキの話を聞いて毎日誰かしらの部屋に集まり盛り上がった。

学校のクラスの仲間達は東京の子が多く洗練されていたように思う。
このメンバーは当然皆同じ授業を受けた仲間。最高に楽しかった。
夏は皆で江ノ島に行ったり家の実家に来てバーベキューしたり。
正に青春の1ページだ。

料理学校時代のノート

フランス料理の基礎から三つ星レベルまで

初めは基本のソースなどを勉強していった。

基本のソース
• マヨネーズ
• ベシャメル(ホワイトソース)
• トマトソース

基本の出汁
• Fond de volaille(鶏)
• Fumet de poisson(魚)
• Fond de veau(子牛)


たまにくる有名レストランの講師の作る難しいフランス料理とか、上記の写真の魚のムースとか、本当に三つ星レストランのメニューを使った授業もあった。

多くの料理人が皆口を揃えて言うことだけど、10年くらい現場で働いて今、もう一回この学校の授業を受けてみたいと思う。
やはり18歳のときはなにも知らなかった。どんなことが現場で求められるのか、あんなこともこんなことももう一回講師陣の腕をよく見て質問を投げかけたいと思う。

揺るがぬ目標 ― フランス校の奨学金制度

私はこの学校に入った時からある目標を抱えていた。
それは2年時に行く同校フランス校の奨学金制度である。

学費全額免除であった。取得できるのは1人か2人。難関であった。
でも私は本気の本気でこれを絶対取ると胸に誓っていた。
フランス料理用語辞典なるものがあって私はAからZまで全部覚えた。

奨学金制度の選考方法は、テスト、授業態度、コンクールなどの点数にあったと思う。
私は無遅刻皆勤、授業も積極的に最前列を取った。残すは最後のテストであった。
私はどんな難問にも答えられるだけのことは勉強した。
実際辞書1冊覚えたし、メチャクチャ勉強した。

今でも覚えている。
テストの一問目だ。
フランスの国旗は右は何色ですか?だった。

分からなかった。どっちが青か赤か迷ったのだ。
灯台下暗し   であった。

結果として私は奨学金を取得した。
でも全額免除ではなく100万円だった。この時のテストが原因だったのではない。
その年度から全額免除の制度がなくなり、その代わり10人(8人かな?)
に100万円に変わったからだ。

そうして辻調理師専門学校フランス料理カレッジの一年を終えた。

辻調理師専門学校フランス校に入学

ミレニアムと呼ばれた2000年の4月、私はフランスに来ていた。学校の他の生徒と共に、フランス・リヨンの郊外のレイリューという村にある辻調理師専門学校フランス校、シャトー・エスコフィエに到着した。

城のような料理学校

学校の敷地はとても広大で、大きな庭の中にさまざまな建物があった。メインの調理場、仕込みを行う地下の第二調理場、授業を行う教室、そして食堂であるサラマンジェ。さらに学生たちが寝泊まりする寮、先生たちの事務室など。どれもフランスの昔のお城を改装したようで、日本の料理学校では見たことのない素敵な場所であった。

始まった実習の日々

フランスに到着してすぐに授業は始まった。時差ボケなど言っていられない。先生たちは毎日声を張り上げて教壇に立っていた。

毎日、調理をするグループ、その料理をお客様に振る舞うサービスマンのグループ、そしてお客様として食事をするグループに分かれた。
昼ごはんと夜ごはんの用意を3グループで交代して行うのである。すなわち、2日に一回はランチかディナーがフランス料理になる仕組みだ。
すべての食事は、前菜・メイン・デザートから2〜3種類選べるプリフィクス形式になっていた。
サービスはフランス語でしなければならず、お客様役もまたフランス語で返す。フランス料理用語の高度な知識を求められた。

コアールシェフの声が響く調理場

調理場のほうでは毎日、フランス人のコアールシェフが声を張り上げていた。「Il faut vérifier, goûter s’il vous plaît.(必ず味を確かめろ、味見をしろ)」という意味だ。「Vite vite!(急げ急げ!)」

調理場はチームごとに分かれて前菜とメインを作る。
1チームはだいたい3人くらいだった。下拵えをして火入れをし、肉を焼いていく。お客様からの注文は選択制だったので、魚が入るか肉が入るかわからない。
注文が入ってから用意する様子は、まさにレストランの現場そのものであった。

私は背が低いので、サラマンドルのお皿が見えない。(サラマンドルとは、お皿の表面のみを焼いたり温めたりするオーブンのようなものだ。)
私は大きな鍋を持ってきて、それをひっくり返し、その上に乗っても良いとされた。(これがフランス式である。日本では鍋の上に乗ることは許されない気がするけれど。)

フランス語への情熱

私は東京校の時から、料理だけでなくフランス語を熱心に勉強してきた。言葉は他の生徒より群を抜いていたように思う。

フランスとフランス人が大好きだった私は、フランス語が話したくて仕方がなかった。
この学校に常駐していた主なフランス人は、料理部門のコアール先生、パティシエ部門のキャメル先生、そしてサービス部門のクトン先生だった。
私は毎日のように授業が終わるとクトン先生の事務室に行った。
前の晩に話す内容を予測して勉強済みだ。
そうやって会話をしていくうちに、メキメキと私のフランス語は上達していった。

私がフランス語を喋れるので、友達に週末行くレストランの予約の電話を頼まれたりもした。これもとても勉強になった。

フランスの春から夏にかけては、驚くほど日が沈むのが遅い。夜の20時になってもまだ明るい庭に皆集まって、各々学校の予習復習をした。

リヨンで過ごす自由な週末

週末は学校の外に出かけても良いことになっていた。
皆それぞれグループを作り、リヨンの街に出かけていった。
私もよくリヨンの街や美術館を観光したり、ブラッスリーと呼ばれるレストランでご飯を食べたりした。

甘い誘惑と体重増加

週末は食べ歩き、学校では2日に1回フレンチのフルコースを食べる。
そして朝はパティシエの作るヴィエノワズリー(クロワッサン、パン・オ・ショコラ、りんごのパイ、レーズンデニッシュなどの総称)が食べ放題であった。
太らないわけはない。
この学校に来た1年で、私の両隣の友達は2人とも「10キロ増えた」と言っていた。(私は3キロほどであった。)

半年の学び、そして卒業へ

この学校でもまた大いに勉強し、そして大いに遊んだ。
ここでの授業は6ヶ月のみ。残りの半年は、各々振り分けられた研修先で現場に入っていく。
学校卒業の答辞もフランス語にて代表して読んだ。フランス人の先生と一生懸命練習したのでメモは使わずに読めた。

運命のレストランとの出会い

辻調理師専門学校フランス校の研修先として、私が初めて働くことになったレストランが「アラン・シャペル」。フランス・リヨンの郊外にあるこのレストランは、“料理界のダ・ヴィンチ”と呼ばれたアラン・シャペル師が創設した三つ星レストランだった。

アラン・シャペルは 1990 年、53 歳という若さで亡くなっていて、その後も愛弟子たちとマダム・シャペルによって二つ星を守り続けてきた、伝統と格式のある最高峰のレストランだった。

到着早々の試練

レストランは学校から車で 20 分ほどの場所にあった。先生にスーツケース一つとともに店の前へ下ろされ、私はひとりになった。ちょうど昼頃だったと思う。

「もうすぐお客様が入るから、宿舎に連れて行く時間がない。君もすぐ調理場に入ってくれ。」

そう言われ、到着と同時にコックコートに着替えて厨房へ。私は魚のポジションに配属され、ポジションシェフのヤンと付け合わせ担当のローランの仕事を手伝うことが任務となった。

“学んだ1年半”は通用しない現場

東京の料理学校とフランス校で一年半、真剣に勉強してきたつもりだった。成績も優秀だったはずだ。しかし、現場はまったく違った。
正直、私は使いものにならなかった。

言い訳ではないけれど、20 歳の私にとって初めての本格的なフランス人社会、しかも最高峰のレストラン。尋常ではない緊張感に完全に飲まれていた。
自分の力など半分も出せなかった。

 ミリ単位の世界で震える手

ある時、根セロリのカットを頼まれました。
「一本 4cm、太さは 2cm。」
二つ星レストランでは、指定されたらミリ単位のズレも許されない。

一皿に 3 本。30 人前なら 90 本。
当然定規など一つ一つ使ってられない。丁寧さとスピードを両立させなければならないのに、当時の私はこうした作業が苦手で、手が震えて仕方がなかった。。

 “洗ってはいけない鍋”と忘れられない賄い

こんなこともあった。ローランが賄い用に作ったローストポークの鍋があり、下っ端の私は気を利かせて後片付けをし、その鍋を洗ってしまったのだ。

しかし、その焼き汁でソースを作る予定だった…。
ローランは青ざめて「鍋はどこ?」と私に尋ねた。

賄いの時間は迫る。私は泣きながら、マヨネーズさえまともに作れなかった。(ソースがないので代わりにマヨネーズを作れと言われたのだが。)
「彼女が鍋を洗っちゃったから。」
10 人ほどの大男たちが冷たい目で私を見る、忘れられない賄いだった。

 厳しくも温かい仲間とシェフ

しかし、レストランの皆はとても優しく仲が良かった。シェフ・フィリップ・ジュスは温厚で、調理場で怒号を聞いたことがない。
いつもどこかのエキップのフォローをしたり、洗い場に入っている時もあった。

休みの日には皆でブレスの鶏の飼育を見に行き、セルドンのスパークリングワインの醸造見学に行った。
三つ星レストランに従業員 10 人ほどで食事に行ったこともあった。(レストランの経費で!)。

シャペルの料理は、地域の旬の素材――野菜、きのこ、魚、ジビエなど――を大切にし、素材の自然な味わいを引き立てる構成。
休みの日も皆で食材と向き合い、その哲学が隅々まで息づいていたように思う。


 山の天辺の修道院での生活

レストランはとても田舎にあり、私の宿舎はさらに田舎。牛小屋のある山の頂上にある修道院の部屋で寝泊まりした。
毎朝、シェフ・フィリップ・ジュスが迎えに来てくれるのだけれど、その 15 分の車内で何を話せばいいのか毎回緊張したのを覚えている。

 1ユーロの重みと、閉まっていた日本食レストラン

ある日曜日、リヨンの街へ出るバスに乗りたかったのだが、手持ちの現金がなかった。ATMはバスに乗らないと行けない場所にある。

仕方なく、寄宿舎の修道女のおばさんに「1 ユーロ貸してほしい」と頼むと、「その前にお祈りをしましょう」と言われ、30 分ほど教会で祈ることに。

ようやく借りた 1 ユーロを握りしめてバスに揺られ、楽しみにしていた日本食レストランへ。
しかし――定休日だった。

当時はネットカフェでしかインターネットが使えない時代。
今の子は想像もしないでしょう。

 

この 4 ヶ月間は、私にとって宝物のような時間だった。体感では一年ほどにも感じられるほど濃密な日々。
その後の長いフランス生活で苦しんでは立ち上がる日々を何度も経験したけれど、
「またフランスに来たい」と思え続けたのは、アラン・シャペルの存在があったから。

私の 25 年のフランスを支え続けた、原点とも言える場所での思い出だ。








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