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鶴澤奏リサイタル~内なる必然性と幻想曲

10月10日は五反田文化センターで《さすらいと記憶 ~ 幻想曲の形》と題された鶴澤奏さんのソロリサイタルへ足を運びました。

プログラムは、
■ルイス・デ・ミラン/「エル・マエストロ」からファンタジア8番
■バッハ/カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」
■ブラームス/「4つの小品」作品119
■マッケンジー/「回想」
■メンデルスゾーン/「幻想曲(スコットランド・ソナタ)」
■シューベルト/「アレグレット」
■シューベルト/「さすらい人幻想曲」

いつもであれば演奏会の感想は小一時間程で書き終えてしまう事が多いのですが、今回は書いたり消したりしながら、いくらか考え込んでいます。

プログラムを見た時に、流石に奏者に負荷の高い曲を盛り込みすぎじゃないかと思ったことや、幻想曲は器楽が機能ではない─ダンスやBGMでは無くただ弾かれるものとしての─最古の形であるなんて蘊蓄から始めるのも良いのですが、ちょっとしっくりきていません。ですから、ここはリサイタルのタイトルとテーマの幻想曲に倣って、思いつくままに書き留めてゆくことにします。オチが着くかわかりませんが。

1曲目のルイス・デ・ミランのファンタジア(最古の器楽のための楽譜集のひとつであり、最古の幻想曲集でもあります)の鶴澤さんの弾き姿を、どこか練習室の風景っぽいな、とぼんやりと感じていました。集中力を高め、常にベストを探り続けるような、密度の高い音。なぜそう思ったのか自分でも少し戸惑ったのですが、それは誰かの求めに応じた結果ではないからであることに気づきました。

必要だからそう弾く─内なる必然性と向き合い、外からの介入を拒むある種の気高さ、アドルノの言葉を借りるなら、芸術の自律性そのもの─本来シリアスミュージックとしての演奏とはそうあるべきとも思えますが、演奏会に足を運ぶ方ならそう簡単ではないことをご存知じだと思います。

ブラームスのOp.119の1曲目のインテルメッツォ、晩年の傑作であり、私が最も好きな曲のひとつです。一聴すると簡素なアルペジオが続く曲ですが、幾つかの動機とメロディーが交錯し、それらが交代しながら姿を表し、再び統合され、消えてゆく。幻想曲の極限であり、クラシック音楽の一つの到達点であるこの姿を充分に描き出した演奏家は、私の知る限りでは録音でも数えるほどしかありません。ライブでは1人もいませんでしたが、今日初めて目の当たりにする事ができました。

そして、メンデルスゾーンのスコットランド・ファンタジー、シューベルトのさすらい人幻想曲。いずれも形式としてはソナタなのですが、常に完璧で、形式の中で自由に振る舞うメンデルスゾーンには珍しく、行き過ぎたまま戻りきらない様子や、ソナタとは到底言えない相変わらず行ったきりになってしまい、やっぱり戻って来られないままフーガに突入して程なくフーガではなくなってしまうシューベルト、いずれも幻想曲と言って差し支え無い作品です。

全ては瞬間と前後の音と音の関係性の中に潜んでいて、演奏家はそれを映し出し、我々は目で何かを見て理解するのではなく、また曲と演奏を取り巻く物語を言葉として受け取るのではなく、耳でそれを追い続けるしかありません。私はそれこそがただ“聴く”ことであり、聴衆が音楽に参加する唯一の方法だと信じています。そのためには、今日の鶴澤さんのような演奏が必要です。

私にとって理想的な演奏会でした。それでも少し辛い事を言うのであれば、ブラームスがややポリフォニックな表現に寄っていて、少しばかりクリーン過ぎる響きだったことがひとつ。逆にバッハでは響きがやや勝っていたかもしれません。いずれも、何かを損なった訳ではありませんが。

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