見出し画像

おじいちゃんのベルト

母方の祖父のもので、唯一持っているものがある。祖父が国鉄とJRで働いていた頃に支給されていた、制服のベルトだ。ベルトの内側にも、こんな文字が並んでいる。

CENTRAL JAPAN RAILWAY COMPANY
Designed by YOHJI YAMAMOTO (!!!)

大学の入学式のときにベルトを持っておらず、母から譲り受けた(と言うと聞こえはいいけれど、たまたま家にあったものをもらった)ものだった。それからは主にパンツスーツを履く吹奏楽の本番で、私はいつも祖父のベルトを着けていた。男物なのでもちろん大きいのだけれど、もともと祖父が細身だったのもあり着けられないことはなかった。

大事なコンクールの当日は、祖父が健在であるにもかかわらず「頼んだおじいちゃん!」とベルトの存在を頼りにしていたところがある。地区大会でも、全国大会でも一緒だった。緊張感が高まってきても、「おじいちゃんの国鉄のベルト着けてるから大丈夫や」と勝手に祖父に責任を押しつけ、自分を落ち着かせることができた。

そのベルトが今となっては、祖父の形見となってしまった。祖父がこの世を去ってから、もう2ヶ月が経つ。


2歳になる頃まで、私は祖父に毎日お風呂に入れてもらっていた。ちなみに同居はしていない。母が毎日、片道20分運転して実家に私を連れていっていた。
おじいちゃんと一緒に湯船に浸かっていた当時の記憶が私にはある。私の祖父との最初の記憶がそれだ。
私はそこで数字の数え方も、歌も、きつねの手遊びも教えてもらった。私と祖父が密にかかわった思い出といえば、それくらいかもしれない。もう、20年以上も前のことだ。

もっと若い頃の話を聞いておけばよかった、と思ったのは葬儀を終えてからのことだった。母が子供の頃は、祖父は半分単身赴任状態でほとんど家にはおらず、休みの日でも台風などでダイヤが乱れれば職場に飛んでいき、ダイヤ改正の時期にはそれこそ家に帰ってこなくなったという。私が生まれた頃には引退していたので、バリバリ働いていた時代の祖父を私は知らない。この話だって、私は母づてにしか聞いたことがなかった。

仕事の話だけではない、祖父と話しておきたかったことは、他にもいくらでもあった。だけどそんなことを話す機会も、時間もないままだった。中学以降は私の学校生活が忙しくなり、お盆と正月の年2回会うのが精一杯だった。だけど片道20分の距離なら、もっと会いに行けないことはなかったはずだ。


今年の年明け、病院の面会時間ぎりぎりにお見舞いに行ったのが最後だった(余談だけれど、猫が亡くなったのはその翌日だった)。誰もがこんなに早く逝ってしまうとは思っていなかった。退院したらいよいよ介護生活が始まると、家でも準備が進められていた矢先のことだった。

あのとき会いに行っておかなければ今ごろもっと後悔していたかもしれない、そうやって私は何度も自分を慰め、納得させようとしている。

うちの猫の場合、病気が発覚してからはしてやれることをなんでもしてきた。後悔のないように、と行動することができていた。そういう意味では、猫との別れはほとんど悔いの残らないものだったように思う。祖父の場合は、失って初めて気づくことがあまりにも多すぎた。

祖父がもっと活発だった頃、何か冗談を言ってわははと笑っていた顔を思い出す。面白いことを言うのが好きで、見かけによらず甘党で、腰も曲がらずしゃんとしていて、通院時ですらジャケットを着て髭を剃って出かけるくらいおしゃれな人だった。もっと祖父のことを知りたかった。人づてではなく、祖父の口から祖父の話を聞いておきたかった。

だけどもう、その願いは一生叶わない。私の手に残されたのは、祖父のベルト一本だけだ。
今私にできることは、今この世を生きている人たちと接することだけだ。今度こそ後悔のないように、未練が残らないように。死んでしまったら、それっきりなのだ。

祖父が煙になったあと、朝からの曇天がそのとき限りの晴れ間を見せた。冬の日差しがあたたかく、そこここに降り注いでいた。「機嫌よく昇ってかはったんかな」と母が言った。祖父は正真正銘、別の世界のひとになった。
せめて待っていてはくれないだろうか、私がそっちに行くまでは。



地中海性気候さまの #あれがそうだったのか に参加させていただきます。
ありがちな死別ネタで申し訳ないのですが……今の私に書けるのはこれくらいでした。最初と最後の話です。



いいなと思ったら応援しよう!

皐月まう 本作り、お勉強としての読書、猫たちのおやつに使わせていただきます。お気持ちしかと受け止めます🦔🫶🏻