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【小説】パン屋 まよなかあひる(5/8)だいすきクリームパン

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第5話 だいすきクリームパン


「パンなんか好きじゃないもん、あたし」
 少女は不満げに、おばあちゃんに駄々をこねている。その様子を、私とリッカさんはさりげなく観察していた。もちろん、見て見ぬふりをしながら。けれど彼女たちに対する私たちの好奇心は、ひょっとすると隠しきれていなかったかもしれない。

 深夜営業の店にとって、子供と老人は言うまでもなく最も遠い存在だ。朝に寝て夜に起きる、この上なく人間らしからぬ生活が許されるのは少なくとも彼女たちではない。
 記憶にある限り、お客の年齢層は成人した若者から中年あたりの年代が多い。しかも今は夜中の2時。少女は小学校高学年くらいには見えるものの、それにしても彼女の年頃には遅すぎる時間だ。かといってパン屋は酒類を提供する店ではないし、保護者(と言っていいはずだ)がいるのであれば深夜でも追い返す必要はないのかもしれない。リッカさんもおそらく同じ考えで、二人を放任しているのだろう。
「そんなこと言わずに。ミカちゃん、パン好きでしょう。どれがいい?」
「パンなんかいいから。帰ろうよおばあちゃん」
 先ほどからこの二人がなんとなく異様な雰囲気を漂わせていることが、どこか引っかかっていた。優しいおばあちゃんに反抗期の孫娘、で片付けばいいのだけれど、深夜という時間帯と幼い孫娘のどことなく鬼気迫る態度、それにおばあちゃんの呑気さが加わりいったい何が正しいのかわからなくなってくる。ただ一つ言えることといえば、彼女たちは本来うちに招かれるべき存在ではないということである。

「お客さま。よろしければご一緒にお選びいたしましょうか」
 我慢ならず動き出したのは私の方だった。リッカさんの方はあえて振り返らない。
「あら、そう? それじゃあおすすめ選んでもらいましょうか」
「いいよおばあちゃん。パンは今度でいいから。ねえ、あたしもう眠たいの。帰ろうよ」
「でもねえ、せっかくお姉さんが、選んでくれるって言うからねえ」
 少女は相変わらず焦った様子でおばあちゃんの裾を引く。ところがおばあちゃんはびくとも動かず、でもねえ、パンは買っていかないと、とトレイを持ったまま店内を進み出した。その独り言のような言葉は、店に入ったからには何か買っていかなければという思いからなのか、それとももっと別の意味があるのかまではわからない。私が声をかけたのが間違いだったのだろうかと逡巡したが、少女は私に大丈夫です、といったような目配せをした。それは遠慮というより諦めに似た、しかし確信に満ちた表情である。私は少女に任せることにした。

 おばあちゃんは店内をああでもないこうでもないと言いながらうろつき、少女はその後を黙ってついていく。しばらくすると、少女がふと動きを止めた。
「おばあちゃん。あたし、これ欲しい」
 それは当店自慢のブリオッシュクリームパンだった。見た目は他の店と変わらない、なんの変哲もないクリームパンだけれど、うちのは隅々までぎっしりとカスタードクリームが詰まっている。普通のパンなら一口かじった程度じゃクリームには辿り着かないが、このクリームパンは一口目からクリームの甘さに到達できる。ふるふるのカスタードクリームも、大きさの割にずっしりとしたパンの重量感も、リッカさんがこだわり抜いた努力の結晶である。お目が高い、と私は内心ほくそ笑んだ。
「そうね。ミカちゃんはクリームパンが好きだものね」
 クリームパンを一つだけトレイに載せ、会計を済ませると二人はすぐに帰っていった。

 あの二人はなんだったのだろうと思う間もなく、彼女たちは翌日もやってきた。この日も深夜1時、よい子は寝る時間のはずだ。そして昨夜と同じような押し問答を繰り返した末に、またクリームパンを一つだけ買っていった。そんな日々が3日ほど続いた。
 ところがそのまた次の日、ドアベルを鳴らしたのは少女一人きりだった。
「おばあちゃん、来てませんか」
 少女の息は上がっている。今日もそろそろ来るだろうか、と考えていた頃だったので気をつけてはいたはずだけれど、おばあちゃんの姿は見かけていない。首を振ると、少女は見るからにしょげた顔をした。
「ミカちゃん、でしたっけ」
 確か少女はそう呼ばれていたはずだ。すると少女はふっと表情を曇らせた。
「……それ、お母さんの名前。おばあちゃん、あたしのこと子供の頃のお母さんだと思ってるの」
 そこでようやく合点がいった。深夜の老人、間違えられた名前、行方不明。そうとなれば事態はそこそこ深刻だ。
「私も一緒に探します。おばあちゃんのいそうな場所、他に心当たりはある?」
 店のエプロンをしたまま、私は外へ飛び出した。


 しん、と嘘みたいに静まり返った街を、うみと名乗った少女と歩く。木下海未うみ。それがこの子の名前だ。おばあちゃんはタミさんといって、認知症がずいぶん進んでおり、うみちゃんのことも自分の娘、つまりうみちゃんの母親ミカさんだと思い込んでいる。
「たぶん、おばあちゃんの記憶は、お母さんがあたしぐらいの歳の頃で止まってるんだと思う。クリームパンが好きなのも、うちのお母さん」
 母親の離婚と母方のおじいちゃんが亡くなったことが重なり、うみちゃんは去年の春から母親と二人でおばあちゃんの住むこの街へやってきた。おばあちゃんの認知症は、おじいちゃんが亡くなってからどんどん進行しているらしい。
 私たちはおばあちゃんの馴染みの公園や海辺のベンチ、駅前の広場などを一通り回ってみたものの、どこも不発に終わっていた。

「今じゃ朝と夜の区別もつかなくなっちゃって、だからあたし、たまにああやって深夜徘徊するおばあちゃんについていってるの。お母さんは夜も仕事で忙しくて面倒見てあげられないから、私しかいない」
 妙に大人びた目だと思ったのだ。うみちゃんは年不相応なほどに、家族の抱える問題に向き合っている。しかも大人と同等の責任まで背負おうとしている。そのことが彼女の目を、達観したものにさせていたのだろう。
「なのに今日は……宿題の途中で寝ちゃって。目が覚めたらもう夜中で、おばあちゃんはいないし、いつも行くところに行ってみても見当たらないし。そしたら猫に会って、ついていってみたらまよなかあひるにたどり着いたんです」
「猫?」
「そう、黒猫。なんだか、おばあちゃんの居場所を知ってるような気がしたから。でも確かにまよなかあひるに来たら、この人たちならなんとかしてくれるかもって、思ったんです」
 彼女の言う黒猫とは、あの黒猫なのだろうか。そんな考えが胸を過ぎったとき、私はふと思い立った。
「うみちゃん、おばあちゃんが行きそうな場所、まだ見てないところは他にある?」
「ううん、もう見るところは見たと思うけど……」
「一つ、行ってみたい場所があるんだけどさ。少し歩くけどいい?」
 期待からか私の勢いに飲まれてかはわからないけれど、うみちゃんはすぐに頷いてくれた。

 深夜の山登りなんか、するもんじゃない。いくら階段があるとはいえ、灯りも多いわけではないから相当危険だ。こんなところへ幼い女の子を連れてきてしまったことは後悔したけれど、私には説明しようのない自信があった。黙々と地面を踏みしめていく私に、うみちゃんも息を弾ませながらしっかりとついてくる。性格だけでなく、彼女は体力まで大人びているのだろうか。
 階段沿いには古びた家々が所狭しと並んでいて、夜中でも生活の匂いがした。海沿いとはいえ、この街の生活圏はほとんど坂道の上にある。よくもまあこんな傾斜に家を建てようと思ったな、と感心するのだけれど、平地が少ないからそうするしかなかったのだろう。
 後ろを振り返ると、いつの間にかずいぶん高いところまで登っていた。街の灯りが、海の黒々しさがいっぺんに見下ろせる。人工の階段が土となり、くねくねと縫うような山道を抜けると、突然開けた場所に出た。
 この間もそうだった、と思い返す。そこは愛貴くんと訪れた、山の上の展望台だった。

 白い階段をぐるぐると上がったところに人がいる、と気づいたときにはすでに、うみちゃんは駆け出していた。
「おばあちゃん!!」
 手すりにもたれかかり、おばあちゃんはぼんやりとしていた。しばらくうみちゃんを見つめた後ぽつんと、「ミカちゃん」と呟く。
「なんでこんなところにいるの。今何時だと思ってるの。どうやって……こんなところまで登ってきたのよーっ」
 急にひゃらひゃらと高らかに笑いはじめたうみちゃんに、私もおばあちゃんも唖然とする。だけどうみちゃんの言う通りだ。こんな時間にロープウェイなんか動いているはずがないから、どう考えてもおばあちゃんは自力でここまで登ってきたことになる。
「あら私……いつの間にこんなところにいたのかねえ」
 口調ははっきりとしているが、その目はどこか虚ろで、まるで何かに取り憑かれているかのように曇っている。そこで改めて、ああ、彼女はやはりそうなのだ、と納得する。

 うみちゃんの手に、店から持ち出してきたパンを一つ握らせた。はっとした顔で私を見上げた彼女に、あげるよ、という意味を込めて頷く。うみちゃんはおばあちゃんを振り返り、そのパンを手渡した。
「おばあちゃん、お腹空いてるでしょ。これ食べたら帰ろう」
 するとおばあちゃんの目が、ふっと光を帯びたように見えた。おばあちゃんの目尻にふんわりと皺が寄る。
「ああ、うみちゃん、これ好きだもんねえ」
「えっ」
 見ると、おばあちゃんの少女のように澄んだ瞳はしっかりとうみちゃんのことを捉えていた。丸くなっていたうみちゃんの目が、ちょうどこの星空みたいにきらきらとしたまま細められる。おばあちゃんは確かに、うみちゃん、と呼んだ。
 この街の人たちにとっての大切な場所。愛貴くんが言った通りだと、私は頷いた。


「で、家まで送り届けて帰ってきたわけだね」
「はい。まあ、おばあちゃんはその後またうみちゃんのことを忘れちゃったんですけど」
 閉店後、店内の掃除をしながらリッカさんに一部始終を報告した。
「まあ、そんなもんさ。奇跡なんか簡単に起こりゃしない」
「そう、ですよね」
 認知症は、治療をしてもせいぜい進行を遅らせる程度のことしかできないと聞いたことがある。おばあちゃんはうみちゃんを完全に思い出すことこそない上に、今よりもさらに多くのことを忘れていく可能性はあるのだ。だけど間違った名前で呼ばれていても、ゆくゆくは忘れられていくとしても、私はうみちゃんが羨ましかった。家に送り届けたとき、帰ってきていたお母さんは泣いていた。彼女は真正面から愛されていた。

「あの……勝手に店を出てきてしまって、すみませんでした」
 頭を下げると、なんだそんなこと、とリッカさんはなんでもないように微笑んだ。
「あんたが正しいと思って行動したんなら、それが正しいよ」
「え、いいんですか、私何しでかすかもわからないのに」
「それも含めてさ。もし失敗しても、あんた自身の責任だろ」
「うーん……それもそうですね」
 優しさなのか厳しさなのかはよくわからなかったけれど、朝日に照らされたリッカさんの横顔は今日も綺麗で、それならいい意味に捉えておこうと思った。

 ずっと、こんな日々が続くのだろうと思っていた。多少の波乱はあれど、穏やかで、パンと店のことだけ考えていればいい日々。ところが私の安寧の地まよなかあひるにも、ついに危機が訪れた。
「そろそろ、店を畳もうと思う」
 リッカさんに告げられたのは、寒々しい日差しの降り注ぐ、冬の終わりのことであった。


第6話へつづく


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皐月まう 本作り、お勉強としての読書、猫たちのおやつに使わせていただきます。お気持ちしかと受け止めます🦔🫶🏻