戦国時代尼子氏 私的歴史考察 ⑨

吉田郡山城合戦
尼子晴久公が宗家を継承し、播州遠征の直後に行った大規模遠征
「吉田郡山城の戦い」
天文九年(1540年)から翌年にかけて
安芸国高田郡吉田、現在の広島県安芸高田市を舞台に繰り広げられた
この戦いは、この時代の西国全域の政治構造を激変させた
歴史的な分水嶺として位置付け良いと考えます。
出雲を拠点に他国へ大規模遠征を実行する実力を得た尼子氏
周防・長門を基盤とする西国の雄・大内氏
そして安芸国人領主から戦国大名への脱皮を模索する毛利氏。
これら三つの異なる政治権力が交錯したこの激突は
軍記物語『陰徳太平記』などが描くような
「尼子晴久の若気による無謀な遠征」とか
「稀代の智将・毛利元就による奇跡的な勝利」
という単純な英雄史観的図式のみでは
到底語り尽くせぬ深層的な戦略の衝突を含んでいました。
今回はこの「吉田郡山城合戦」を中心とした事項をご紹介します。
一次史料である『毛利家文書』『毛利元就郡山籠城日記』
という資料がこの合戦の実情を詳細に記録しています。
天文六年(1537年)
稀代の英傑祖父・経久公から家督を譲り受けた晴久公(当時は詮久)
が直面したのは典型的な「創業権力からの継承の危機」でした。
とりわけ、天文九年前後の安芸国の情勢は
尼子氏にとって看過できない危機的状況を呈していました。
その中心にあったのが
安芸国における「反大内・反毛利」の要、安芸武田氏の動向です。
安芸武田氏は、有名な甲州武田氏(信玄など)とルーツを同じくする
鎌倉時代以来の安芸守護の家系であり
佐東銀山城(金山城 現広島市)を拠点とする
「安芸半国守護」としての権威を有する名族でした。
彼らが大内氏の勢力伸長に対抗し
明確に尼子方として旗幟を鮮明にしたことは
尼子氏にとって安芸介入への「大義名分」と
安芸南部へ至る「橋頭堡」を得ることを意味し
当時の同地における尼子氏の影響力を高める要因となっていました。
しかし、この体制は大きく揺らぎます。
天文九年六月九日、武田氏当主・光和が急死してしまいます。
当時、武田氏はすでに大内方の主力や
新興勢力である毛利元就の激しい圧迫を受け
滅亡の淵に立たされていました。
光和の死は、銀山城の指揮系統を麻痺させ
安芸における反大内連合の崩壊を招きかねない事態でした。
これを受けた晴久公の安芸遠征は
崩壊に瀕した同盟国・武田氏を救済するための
「必然性を帯びた決戦」という側面が浮かび上がります。
当初、晴久公は播磨遠征を行っていましたが
安芸の拠点が消滅する危機を前に
播磨からの撤兵と安芸への転進という重大な決断を余儀なくされました。
これは、大内氏との緩衝帯の最前線である吉田郡山城を攻略し
武田氏への圧力を排除した上で、敵主力を撃滅するという
極めて合理的かつ切迫した地政学的要請に基づいた
「決戦」の選択であったと解釈できます。
侵攻にあたり、尼子勢は当初
地理的に最短である備後路(甲立方面)からの侵入を試みました。
しかし、この経路は五龍城(現・安芸高田市甲田町)を拠点とする
宍戸氏の抵抗により実現しませんでした。
宍戸元源・隆家父子は、かつて毛利氏と激しく対立していたものの
この時期には毛利元就の娘(五龍局)を正室に迎えることで
強固な姻戚関係を結んでいました。
宍戸氏が尼子勢の備後路侵入を物理的に阻止したため
晴久公は石見国を経由して赤名峠を越える
「石見路」への迂回を余儀なくされます。
この経路変更は、兵站線の長大化を招きました。
また、晴久公は備後北部の有力国人である山内氏(山内直通)を
尼子勢の先兵として組み込んでいます。
軍記物では尼子勢は「3万騎」と称されますが
当時の出雲・石見・備後の石高と動員兵力限界
および山岳地帯での行軍可能な規模を考慮すれば
実数は1万から1万数千程度であったと推測されます。
山内氏ら現地国人の動員は、兵力の増強には寄与したものの
彼らは必ずしも高い忠誠心を持っておらず
長期戦における兵站消費の増大と
戦況悪化時の離反リスクを内包する「諸刃の剣」でした。
安芸に入った尼子勢は、吉田郡山城を眼前に収める青山・光井山に進出します。
吉田郡山城を見下ろす位置に構築された「青山・光井山尼子陣所」は
近年の発掘調査により、その特異な性格が明らかになっています。
青山城跡(標高370m)と光井山城跡(標高367m)は
深い空堀や土塁、整然と配置された郭群を持ち
単なる野戦陣地を超えた恒久的な城郭構造を有していました。
これは、尼子氏が郡山城攻略後の安芸統治を見据え
ここを新たな安芸計略の拠点として機能させる意図を持っていたことを
示唆しています。
しかし、この包囲戦略は完全には機能しませんでした。
その要因の一つが、安芸武田氏の旧被官であり
高松城(現・広島市安佐北区)を拠点とする熊谷信直の動向です。
熊谷氏は、かつて主家・武田氏との対立から毛利方に転じていました。
尼子氏は旧主・武田氏の権威を利用して熊谷氏の再引き込みを図りましたが
信直はこれを拒絶し、毛利方として固着しました。
宍戸氏に続き熊谷氏の切り崩しにも失敗したことは、尼子勢にとって
背後(五龍城)と側面(高松城)に敵対勢力を残したままの
作戦展開を強いることとなり
包囲網の完成を阻害する決定的要因となったのです。

戦況が膠着する中、勝敗の鍵は兵站に移りました。
尼子勢は「宮崎長尾」に物資集積拠点を設けていましたが
毛利元就はゲリラ的な出撃を繰り返し、この補給線を脅かしました。
『毛利元就郡山籠城日記』等の記述によれば
天文九年十二月から翌年一月にかけて
宮崎長尾周辺で激しい戦闘が行われています。
なお軍記物では「豪雪による自滅」が強調されますが
一次資料から読み取れる実態は
毛利軍と、遅れて到着した大内氏援軍(陶隆房率いる1万とされる)
による計画的な補給拠点破壊作戦でした。
兵站を断たれた尼子軍は
厳冬期の寒さも相まって急速に継戦能力を喪失していったのです。
そして迎えた天文十年(1541年)一月十三日
大内・毛利連合軍による総攻撃が行われました。
この戦闘で、尼子一門の長老格であり中枢を担っていた
尼子久幸公(経久公弟)が討死します。
軍記物では「臆病野州」と自嘲しながら華々しく散った英雄として描かれますが
一次史料においても久幸公の死は事実として記録されており
これが尼子勢全体の指揮系統崩壊と兵線崩落の直接的な引き金と考えられます。
晴久公は全軍撤退を決断します。
しかし、敵地深く浸透した1万を超える軍勢を
追撃を受けながら、かつ雪深い山岳地帯を通して帰還させることは
攻撃以上に困難な軍事作戦でした。
ここで注目すべきなのが
敗走する尼子勢の「撤退戦」における兵站運用です。
尼子勢が選択した撤退路は
吉田から北上し、多治比・口羽を経て
石見国の大河「江の川(ごうのかわ)」を渡河する経路でした。
この経路上の最大の難所である江の川渡河地点
現在の島根県邑智郡美郷町(旧大和村)には
「尼子陣所跡(遺跡番号:大和60)」
と呼ばれる巨大な遺構が現存しています。
美郷町都賀西の江の川左岸尾根上に位置するこの遺跡は
全長約900メートルに及び
尾根筋を削平した多数の郭(曲輪)と土段が連続する
特異な構造を持っています。
1990年代の発掘調査では、柱穴や生活痕(礫、古銭、鉄片)が出土しており
その構造的特徴から、以下の機能を持った施設であったと推定されます。
第一に、「大軍の収容・再編拠点」としての機能です。
一般的な山城に見られる防御重視の堀切が少なく
居住性を重視した削平地が広がる構造は
敗走して統制が乱れた各部隊を一時的に収容し
再編成するための基地として機能したと考えられます。
第二に、「渡河作戦の橋頭堡」としての機能です。
陣所は江の川の渡河点を見下ろす位置にあります。
撤退時、ここで殿軍(しんがり)が防御陣形を敷き
追撃する毛利・大内軍を牽制している間に
主力部隊が眼下の江の川を舟橋や徴発した舟で渡河するという
高度な渡河支援機能を担っていたのでしょう。
この大規模な撤退作戦を支えたのは
江の川流域を支配する石見小笠原氏(温湯城主・小笠原長隆)と
出雲国境を守る赤穴氏(瀬戸山城主・赤穴光清)でした。
特に小笠原長隆は、本戦役で嫡子・長晴を失うという犠牲を払いながらも
江の川の水運機能を提供し、尼子勢の渡河を支援しました。
また、対岸の仙岩寺山城などが監視拠点として機能したことで
尼子勢は最も脆弱な渡河の瞬間における安全を確保できたのです。
渡河後、尼子勢は赤穴氏が守る赤名峠を越え、出雲国へと帰還しました。
赤穴瀬戸山城は、追撃軍に対する最終防衛線として機能し
尼子勢の帰還を支援しました。
撤退は成功したものの、安芸国における政治的損失は壊滅的でした。
尼子勢の撤退により、孤立無援となった佐東銀山城の武田氏は
同年三月に毛利元就によって攻略され
鎌倉以来の名門・安芸武田氏はここに滅亡します。
これは、尼子氏が安芸国への介入拠点を失ったことを意味し
安芸・備後の国人衆は一斉に大内・毛利陣営へと靡くこととなりました。

