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Episode 18:午後11時半のブルーライト

画面の青白い光が、真央の顔だけを照らしている。

部屋の電気は消えている。

カーテンの隙間から、向かいのマンションの窓明かりがひとつ、またひとつと消えていく。

東京の夜は静かに眠りに就こうとしているのに、真央の右手の親指だけが、止まれずにいる。

スクロール、スクロール、スクロール。ガラスの向こうで加速し続けるタイムラインを、乾いた目で追い続ける。

スマホの画面には、同い年の女性が笑っている。独立して半年でクライアントが20社、という文字。

真央は「いいね」を押した。親指が、反射的に。

「書きかけ」が、3つある。

真央のスマホには、転職サイトのアプリが3つ入っている。

それぞれのプロフィール欄は、中途半端に埋まっている。自己PRの欄は、最初の2行だけが書かれたまま、何週間も前から止まっている。

消すのも惜しくて、でも続きを書く気にもなれなくて、まるで開封したまま飲みきれなかった炭酸水のように、ずっとそこに置いてある。

IT物流系のスタートアップに入って1年半。

マーケティングの部署に配属されて、毎日タスクは回っている。数字も、そこそこ出ている。

でも「そこそこ」という言葉が、夜になると刃になって戻ってくる。

これでいいのか。 もっといい場所があるんじゃないか。 今ここにいる時間が、全部無駄になるんじゃないか。

その問いに答えが出ないまま、また親指が動く。

また誰かのハイライトが流れてくる。

真央は、他人の「完成した物語」と、自分の「進行中の混乱」を、同じ土俵で比べ続ける。

これは残酷な非対称だ。相手が見せているのは映画の予告編で、真央が見ているのは自分の撮影現場のNG集なのに。

スナック「月詠」の、ある金曜日。

ビルの3階、古いエレベーターを降りると、カウンターに黄色い常連たちがいる。

定年を過ぎた元工場長の松さん、元銀行員の吉田さん、40年この街で魚屋をやっている坂口さん、そして一番端でオールドパーを舐めている元大工の富さん。

ママの梶原照子、55歳、この店を28年続けている女。

真央がグラスを傾けながら、こぼした。

「私、もっと成長できる場所があると思うんです。ここじゃない気がして……なんか、今の会社にいても、自分が積み上がってる実感がなくて」

照子ママは、グラスを拭く手を止めなかった。

「あんた、今の仕事で、泥、啜ったことある?」

「え?」

「誰もやりたがらない案件、引き受けたことある? 上司に怒鳴られながら、それでもしがみついてクリアしたことある?」

真央は答えられなかった。

「あんたが探してるのは『成長』じゃないわ」

照子ママが、ようやく顔を上げた。

傷つかずに済む魔法のルートよ。今の場所で泥を啜る勇気がないのを、環境のせいにして逃げ回ってるだけ。転職サイトのアプリ、何個入ってる? 書きかけのプロフィール、何個ある?」

沈黙が落ちた。

富さんが、オールドパーを置かずに言った。

「お嬢ちゃんよ。土を掘ったこともねえ奴に、新しい種なんか蒔けねえよ」

理想と現実の乖離を知ることになるとは…

真央の痛みには、名前がある。相対的な不幸、という名前だ。

絶対的には、何も不足していない。住む場所がある。毎月給料が振り込まれる。友人がいる。でも画面を開くたびに、自分より「先に進んでいる誰か」が現れる。

その瞬間、自分の現在地が、砂の上に書いた文字のように消えていく感覚。

これは20代特有の、ある種の呪いだ。

「何にでもなれる」という自由は、地図のない航海に似ている。

目的地がないから、どこに向かっても「正解ではないかもしれない」という不安が消えない。

選択肢が多いほど、今いる場所が「最適解ではないかもしれない」という疑念が育つ。

転職の広告、副業のすすめ、25歳で起業した同期のインタビュー記事。

それらは親切なふりをして、「今のあなたでは足りない」というメッセージを毎日送り込んでくる。

私は何者かになれるはずだ。 でも今の自分には、何もない。

この二つの間を、真央は毎晩往復する。まるで両端を引っ張られたゴムのように、どちらにも辿り着けないまま、ただ疲弊していく。

選択肢を減らすという決断。

あの夜、真央はスナック「月詠」から帰って、部屋の蛍光灯をつけた。

青白いスマホの光じゃなく、少し黄ばんだ、現実の光の中で、転職サイトのアプリを3つ、全部消した。

一瞬、胸に小さな痛みが走った。

選択肢を手放す痛みは、こんなふうに来るのか、と思った。

翌朝、会社に行った。

誰もやりたがっていた案件があった。

物流の現場と本社の間で半年以上こじれている調整業務。

地味で、泥臭くて、数字にならなくて、マーケターの仕事とは言いにくい、あの案件。

真央は、上司のデスクに行って言った。「私にやらせてください」と。

今ここにある「バグ」を、自分の意志で引き受ける。

それだけだった。劇的な転機でも、美しい覚悟でもない。

ただ、逃げるのを、やめた。

「あるもの」の棚卸し

消したアプリの代わりに、真央はノートに書いた。

今自分の手元にあるものを。

  • 物流の現場担当者と、1年かけて作った信頼関係

  • 数字を読む基礎が、少しずつ染みついてきた感覚

  • 怒鳴られながらも辞めなかった、去年の秋

  • 一緒に深夜まで資料を直してくれた、先輩の背中

  • 転職サイトには書けない、泥臭い実務の1年半

画面の向こうの誰かが持っていないもの、ではない。

真央だけが持っているもの、でもない。

ただ、確かにここにある、「今の自分の土台」だった。

これを捨てて、ゼロから別の場所で積み直すのか。

それとも、これを土台に、ここから掘り進むのか。

答えは、もう出ていた。

午後11時半、今夜の話。

真央の部屋の電気は、今日もついている。

蛍光灯の白い光の下で、ノートパソコンを開いている。画面には物流調整の進捗シートと、現場担当者へのメール下書き。

スマホは、裏返しに置いてある。

親指は、もう動いていない。

タイムラインの誰かの輝きではなく、自分の目の前にある「まだ解けていない問題」を、真央は今夜、初めてちゃんと見ている。

解けるかどうか、わからない。正解かどうかも、まだわからない。

でも、これは自分が選んだ問題だ。

選ばなかった選択肢を殺した瞬間に、今の自分が始まる。

転職サイトに書けなかった「続き」は、今夜のこのシートの中に、少しずつ積み上がっていく。

画面は青白くなく、現場の蛍光灯と同じ、少し黄ばんだ白だ。

真央はそれを、今夜はじめて、悪くないと思った。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

「どこかに正解がある」と探し続けている夜、あなたの手元に今あるものが、誰かの星明かりになりますように。

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