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ぼくの二十歳(はたち)の原点 【塩見啓一】

CBCアナウンサー 塩見啓一

20歳の春、2年間の浪人生活を経て僕はようやく大学に入学出来ました。

やっと浪人生活から解放された喜びも少しはありましたが、それよりも大学生活になじめるかどうかの不安と、どうして自分は今ここにいるのかという虚しさの方が自分の心を支配していました。
 
そもそも現役で入った人よりも2年年上で、年下の同級生とどう接して良いのか分かりません。彼らに、

「僕はここに来たくて来たんじゃない」

なんて言おうものなら、誰も相手にしてくれないでしょう。

私が入学した同志社大学は関西だけでなく全国的にも名門校であり、ここを目指して入学してきた同級生や先輩も大勢いるはずです。
 
一方で、夢破れてこの大学に来た人も一定数いて、普段は笑顔でも時折見せる暗い表情から私と同じ匂いを感じ取ることが出来ました。ただし、明らかにその人たちの方が私よりも優秀であったことは認めなくてはなりません。
 
一体、どうして私は2年も浪人することになってしまったのか。原因は2つありました。
 
まず一つ目は小学生の時の初恋の人「Mちゃん」の影響です。6年生の時思い切って「好きだ」と告白しましたが、

「あんたのことはクラスで8番目に好き」という答えでした。

ちなみに私のクラスは男子が16人です。今なら「全然気が無い」ということくらい分かりますが、当時の私は、

「頑張れば1番になれるかも。僕の取柄は勉強することだ。勉強して偉い科学者になり、ノーベル賞を取ればきっとMちゃんは僕のことを好きになってくれる。」

と本気で思ったのです。
 
昭和43年に川端康成がノーベル文学賞を取りますが、それ以前にノーベル賞を取ったのは湯川秀樹・朝永振一郎で、ともに物理学賞です。子どもながら確率を計算し、物理学をやればノーベル賞を取る確率が高まると考えました。
 
さすがにノーベル賞が無理なのは高校生くらいになって「偏差値」というものを知り、自分の位置を知るに至って「どうやら難しいらしい」と分かってきましたが、それでも理系を選択しました。ひょっとして自分がこれからとんでもなく優秀になるかも知れないという可能性にかけたのです。
 
ただし、僕の成績は英語が苦手で国語と社会はまあまあ、数学と理科はちょっと出来るくらいだったので、どう考えても文系でした。あの頃の僕は・・・バカでした。
 
二つ目は、高校で好きになった「Mさん」の影響です。Mちゃんとは違います。どちらも同じイニシャルなのでややこしくてすみません。
 
Mさんは合唱部に入っていて、彼女がステージで歌う姿を見、僕はすぐ合唱部に入部しました。同じ目的で入部した同級生は11人いました。

彼女の家はお金持ちで、一度彼女の家に合唱部の同級生が招かれました。ちょっと用事があり、途中で帰ろうとするとMさんのお母さんに呼び止められ、

「あなた京大を受験するの?」

と聞かれました。どうやら他の人と間違えたと分かりましたが、とっさに「ええ、まあ」と答えてしまいました。

自慢ではありませんが、高校の時、先生からは、
 
「頑張れば東大・京大以外ならどこでも行ける」
 
と変な太鼓判を押されていました。
 
高校3年くらいになると「選べばどこかの大学に行ける」くらいでしたが、Mさんのお母さんが好むのは京大か同程度の大学だと分かりましたので、きっと娘もそうに違いない。ならばある程度のところで妥協するわけにはいかない、と思ったのです。
 
結局、理系は諦め、トップクラスの国立大学も諦め、ウケを狙って受験した「同志社大学文学部新聞学専攻」という何の興味もないところと、あとは全く行く気もない大学しか受かりませんでした。20歳(はたち)の僕は美しい同志社のキャンパスに場違いな自分を感じていました。
 
もう全く自分の人生なんて見通すことも出来ませんでしたが、せっかく大学に入ったのだからと同級生とミニコミ誌を作り、プロレス同好会にも入りました。もうひたすら目立ちたくて、カウボーイハットやカツラを被って学校に行ったりもしました。
 
1、2歳年下の同級生はちょっと気を使ってくれました。呼び捨てにするのも申し訳ないので、「長老」というあだ名をつけてくれました。そのうち「おじん」と呼ぶヤツも出てきましたが、どちらも僕のお気に入りになりました。なんとなく僕は人気者のようになっていました。
 
そんな時、友達から、

「塩見、お前面白いから『ラブアタック!』出たら」

と言われたのです。

僕は田舎者なのでテレビは見るものと思っていましたが、出るなんてどうすれば良いのか友人に聞きました。彼の答えは、予選があるから申し込めば良いとのこと。

「絶対受けなよ。通るから。」

大学受験で散々失敗した僕ですが、「ラブアタック!」の2部なら通るのではないかという根拠のない自信がありました。小学生の頃から学芸会ではいつも主役でしたので30秒PRは出来そうですし、歌は・・・一応合唱部出身です。
 
どうやって応募したのか、どうやって朝日放送まで行ったのか今となっては全く思い出せません。おそらく、今は島田商事の社長となった島田晋宏君にあれこれ世話をしてもらったと思うのですが、田舎者な上、方向音痴なので当時福島駅の近くにあった朝日放送にたどり着くまで一苦労。さらに予選会場に行くまでも色々な人に聞きながら探し当てました。
 
さあ行こうと思った瞬間、この世のものとは思えない若い美女が大勢私の前を通りました。もう腰を抜かしそうになりました。あとから聞いた話では、かぐや姫のオーディションだったそうです。顔といいスタイルといい抜群の女性ばかりで、これだけでも今日来た甲斐があったと思いました。
 
気分が高揚し、アタッカーの予選会場に入りました。難しい顔をした審査員の人たちが並んでいました。ただ、根拠の無い自信を持っていた僕はPRもしっかりやることが出来、予選を難なく通過しました。もう大得意です。すぐにもテレビに出て人気者になれると思っていました。この時は。
 
ひょろっと背の高い、切れ長の目の人が、

「もう1回来てくれるか?」

と僕に言いました。

え、すぐに出られるのではないの? 何かが僕には欠けているらしいのですが、そんなことは学生の私には分かりません。これが松本修さんと僕の出会いでした。1980年、季節は春から夏。
 
松本さんいわく、「合格なので予選をするわけではないが、もうちょっと君の良さを出したい。」とのこと。
 
3年に及ぶ大学受験がようやく終わった私には、これは補欠合格としか思えませんでした。予選に行くことは大学の友人たちに伝えてあります。彼らはすぐにでも僕がテレビに出るものだと思っていたので、もう一度朝日放送に行くと言うと、「落ちたの?」と僕が最も聞きたくないことを平気で言います。

そして、この「落ちたの?」はこの後、何度も聞くことになりました。一体それから何度朝日放送に通ったことでしょう。何回もネタのダメ出しをされ、そのたびに寂しい気持ちで福島の駅から梅田へ。そして梅田から京都へと戻りました。
 
季節はもう夏も過ぎていました。僕は秋には21歳になります。何とも情けない気持ちで虫の音を聞くことになってしまいました。もうどうしたらええんやろ。松本さんが私に求めているのが何なのか分かりません。それでも、

「一体いつになったらテレビに出られるんや」

と聞いてくる周囲を黙らせるには松本さんのOKをもらわなければなりません。
 
やけになった僕は自分のこれまでの情けない経験を言うことにしました。大学受験で失敗を重ね、2年遅れて大学に入り、周りから、

「おじん、長老、能無し」

と呼ばれていること。恥も外聞も捨てて、松本さんの前でPRしました。
 
「それやがな!」と松本さん。

「え?」

何のことか分かりませんでしたが、受けたようです。それまでの僕は、どこか自分のプライドを保とうとしていました。すべてを捨てて自分を出した時、ようやく松本さんの思う、

「同志社のおじん」が誕生したのです。

ディテールは忘れてしまいましたが、大学受験で4勝17敗だったことと、
 
「みんなは僕のことをおじん、長老、能無しと言ってバカにします」
 
というフレーズだけは覚えています。とにかく出た瞬間から、みじめ。

いよいよ本番という日、松本さんが司会の上岡龍太郎さんと和田アキ子さんのところに私を連れて行ってくれました。これが普通かと思っていましたが、ちょっと特別待遇だったかも知れません。和田アキ子さんはもうめちゃくちゃきれいな人だなと思いましたが、
 
「なんやこの子、気持ちわる~」
 
と嫌がられてしまいました。ちょっと悲しかったですが、これは松本さん的には上手くいくという確信に変わった瞬間かも知れません。

いざ本番、カメラが何台も並んでいましたがそれほど緊張せず、タリーランプが付いたカメラが自分を撮っているということまで分かりました。
 
自己PRをした最後にズボンがストンと落ちました。これは松本さんのアイデアでした。上岡さんの、

「何をしとんのや、君は!」

という突っ込みもきれいに決まり、僕は得意になって裏声で「ジェニーはご機嫌ななめ」を歌いました。

「同志社のおじん」の愛称で、『ラブアタック!』のスターに。

僕の心配はもうかぐや姫が間違って僕を奈落の底に突き落とさないという、つまらない選択をしないことだけ願っていました。僕の目標は「みじめアタッカー」になることでしたので、ひたすら落ちることを祈りました。祈りが通じて奈落の底に落ちた時は、本当にホッとしました。
 
終わってから松本さんに褒められたのを覚えています。僕はもう、
 
「これで人気者や。町歩いていても声かけられるんとちゃうか~」
 
なんて考えていました。すでに僕の中にはノーベル賞も失恋も受験の失敗も消え、

「同志社のおじん」

となった喜びで満たされていました。
 
息子が二浪して苦しかったのは両親も一緒でしたが、両親ともに「息子がテレビに出る」というので大喜びして周囲の人に伝えていました。

そこで見たものは、みじめな「同志社のおじん」でした。父親はショックを受けていました。母親は意外に平気でしたが、僕が実家のある福知山に帰省した時、よく知っている近所の女の子が、

「ズボン落とした恥ずかしいお兄ちゃんには会いたくない」

と言っていたと結構こちらが傷つくことを口にしました。ひょっとしたら怒っていたのかも知れません。
 
それでも21歳からの僕は順調でした。2回生からは喜劇研究会にも入り、生瀬勝久君とも芝居が出来ましたし、その時生瀬君に、

「なまっている」

と注意され、1年上の熊田さんから、

「生田教室というアナウンス学校に行こうと思うので、付いてきてくれる?」

と言われアクセントの勉強になるかなと思って生田教室訪ねていったら熊田さんは来ず、結局僕だけが生田教室に入ることとなり、厳しい授業に耐え、名古屋のCBCにアナウンサーとして入社出来ました。
 
それは良かったのですが、残念だったのは卒業生大会には、

「系列が違うから」

という理由で人事に出場を止められたことです。

私としては初出場の後、みじめアタッカー大会に出た時にイマイチで松本さんに叱られ、しかしそのあと1部と2部の間の「キャンパス・レポート」では大うけを取り、神戸のポートピアでやったコントはイマイチで・・・自分の中では受ける確率50%程度という感じでしたから、卒業生大会はきっちりやりたかったです。
 
気が付けば20歳の春から46年経ちました。同志社大学に行ったことと、松本さんに出会ったことでアナウンサーになり、2年ほど他部署の部長になって離れた以外はずっとアナウンサーをしてきました。65歳の再雇用期間も終了し、今は業務委託の形にはなりましたが、CBCアナウンサーを続けております。
 
お笑いの道には行けませんでしたが、スポーツアナとして野球やボクシングで全国ネット放送での実況もやりました。僕の「ラブアタック!」初登場でズボンを落として恥ずかしい思いをした父親もすでに亡くなりましたが、全国ネットでのボクシングのテレビ中継を見せることは出来ました。
 
でも、後輩のアナウンサーたちにはアナウンサーになってからの自慢話はしません。自慢するのは「『ラブアタック!』で活躍した僕」なのです。

なぜなら松本さん著作の『探偵!ナイトスクープ アホの遺伝子』には僕のことが「天才」と書かれているからです。「天才」なんて素敵な響き。そこで僕は気づいたのです。
 
「天才になる夢が叶った・・・」
 
僕の人生はかしこい人から見たらアホですが、アホでも「天才」なんです。「アホの天才」とでも申しましょうか。上手なアナウンサーは山ほどいますが、「アホの天才」アナウンサーは僕だけなのです。
 
20歳の夏、ずっと僕が羽化するのを待ってくださった松本さんには感謝してもしきれません。

現在のダンディーな塩見啓一アナウンサー

松本からの質問と、塩見氏からの回答
 
松本 文中、「僕の『ラブアタック!』初登場でズボンを落として恥ずかしい思いをした父親もすでに亡くなりましたが、全国ネットでのボクシングのテレビ中継を見せることは出来ました。」とありますが、あなたのボクシング中継の白眉は、なんといっても辰吉の試合だったと思います。ボクシングのテレビ中継史に残るような、非常に見事なアナウンスぶりでした。

あのアホの「同志社のおじん」塩見クンが、こんなこともできるようになったのか!と、深い感銘を受けて嬉しかったものです。福知山のお父さんもどんなに誇らしかったことでしょう。

みじめアタッカーの先輩スターで、人の評価に厳しかった百田クン(百田尚樹氏)も、この中継を見ていて、「あいつのラジオの野球中継は、ちょっとうるさいんやけど」とけなしながらも、辰吉の試合に関しては、「実に見事なもんやった。ようやりよったな!」と絶賛していました。

あれは、どういう選手権の試合でしたか?
 
塩見 ボクシングは1994年12月4日に行われた「WBC世界バンタム級王座統一戦 薬師寺保栄対辰吉丈一郎」です。私が35歳の時です。全国の平均視聴率が40%を超えたのですが、それより選手入場の際、画が落ちてしまって、中継スタッフ一同パニックになりかけた時、私が、
「場内暗転!もの凄い盛り上がり‼️」
とかなんとか言ってつないだら、とっても褒められました ^_^
 
褒められたのは、「ラブアタック!」以来の出来事でした。
 
 


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