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【只管遊生】と【純粋利他】

答えより、問い。只管遊生と純粋利他

2026年4月14日、ゼレンスキー大統領が言葉を放った。「我が方の歩兵投入も、人命損失もなく、作戦が遂行された。ロシア軍は降伏した」。AIが標的を識別し、判断し、引き金を引いた。人間の兵士は、一人も前線に立たなかった。
戦争の形が、変わった…
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人が死なない戦争。自国民の犠牲がゼロに近づくほど、為政者が戦争を始めやすくなる。誰が殺したのか・・・ロボットが殺した、AIが判断した。責任の所在が霧の中に消えていく。そして問いが浮かぶ。我が子であれば命をかけて守る人間が、なぜ遠く離れた国の子どもは守らないのか。
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支配欲は、主客が分離しているときに生まれる。自律兵器は、この分離を極限まで推し進めた存在だ。操作する人間と殺される人間の間に、機械とアルゴリズムが幾重にも挟まる。距離が遠くなるほど、共感回路は眠る。

利他があれば支配にはならない、と思いたい。

しかし、「あなたのために」という言葉の中に、すでに「してあげる私」と「してもらうあなた」という分離が宿っている

モースの贈与論が示すように、与えることは返礼の義務を生む。贈与は知らぬ間に相手を負債の中に置く。

一遍「捨聖」と呼ばれたのは、与えた後に去ったからだ。利他でありながら、主客の固定を解体する。
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「純粋利他」とは、目撃者のいない贈与かもしれない。自分自身さえも、与えたことを知らない。
意図する前に手が動いている。西田幾多郎純粋経験・・・主客が分離する以前の、見ている私と見られている対象がまだひとつになっている瞬間。一遍が「念仏は計らいを超えて溢れる」と言ったのと、構造が似ている。純粋利他は、目指すものではない。気づいたらそうだった、という性質のもの。
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毎日、他人の子どもたちと森の中にいる。なぜ深く心を注いでいるのか、と問われると答えに詰まる。本当のところは、注がずにいられないのだと思う。たぶん…
子どもが虫を見つめている。その眼差しに、何かが勝手に動く。存在が存在に触れる、ただそれだけのこと。
「只管遊生」の場に長く居続けることで、境界が溶けて、注ぐという行為自体が消える。純粋利他も、注いでいる私がいないから、純粋に注がれている、そういう逆説的な状態ではないだろうか。
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その対極に、AIの引き金がある。身体がリアリティの中に置かれているとき、人は自然と純粋利他に近づく。只管遊生の場とは、純粋利他が溢れ出る条件を、そっと整えることなのかもしれない。

答えより、問い。純粋利他に「なれる」のではなく、純粋利他が「起きる」場に、共にいる。それが只管遊生の、最も深いところにあるものだと、思っている。​​​​​​​​​​​​​​​​

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