”優しさ”とはなにか?
高校生のとき、私はサッカー部に所属していた。
優しい思い出
3年生の夏、最後の試合。
私はレギュラーメンバーとしてピッチに立つことができた。
ポジションは右サイドバック。
相手はたしか、早稲田実業だったと思う。
都大会の1回戦だった。
試合開始直後、繋がらないパス、誰が守備で、誰が攻撃で、相手チームの誰を誰が対応するのかもまるでわからないような状況だった。
私の身体と心はバラバラで、何が起きているのかもわからず浮足立っていた。
気づいたときには、相手チームが蹴ったボールが私たちのチームのゴールネットを揺らしていた。ガッツポーズをする相手チームの人を見て、我にかえる。それくらい私の心は、ここにあらず、どこかに行っていた。
試合が始まって5分も経っていないのに「あぁ、もうダメだ」と思っていた。
束の間、審判はオフサイドの判定を下し、得点は1対0から0対0に戻る。
それ以降のことはよく覚えていない。
よく覚えていないが、試合開始後5分間の私と、その後の私は、明らかに別人だったと確信している。
いま思い返すと、ここにいる意味・目的を思い出し、心と身体が完全に一致している状態で、疲れも苦しみも喜びも楽しいもなにもなかった。
ボールと、グラウンドと、チームと、相手と、一体化しているかのような感覚だったのかもしれない。
集中している対象すらわからないくらい集中していた。
ひとつ明確に覚えていることがある。
それは、急に時間の流れがゆっくりになったような感覚だった。
誰がどこにいて、次にボールがどこに飛んでいって、それはチームの守りの要である背の高いあいつがヘディングしてはじくから大丈夫だな、というように、目の前の出来事がスローモーションに見えた瞬間だった。
ぜんぶつながっている
ぜんぶだいじょうぶ
そんな感覚を味わった瞬間だけは、いまも鮮明に覚えている。
開始5分以内に1点取られて絶望したあと、オフサイド判定で振り出しに戻ったときから、チームはバラバラの個ではなくひとつになった。
奇跡のノーカウントから、0対0のまま延長戦に突入。
延長戦でも決着はつかず、PK戦へともつれこんだ。
自分にもPKを蹴る番が回ってきた。
思い返すと、いつもの自分なら緊張して頭が真っ白になってしまうような状況で、不思議と心が落ち着いていた。自分が蹴ったボールは必ずゴールに入ることがわかっていたような。
なんの迷いもなく、得意な左隅を狙って思い切って蹴った。
ボールはネットを揺らした。嬉しかったか、ホッとしたのか、感情的な記憶はあまりない。
その後も両チームはずっとPKを決め続け、10人くらい続いただろうか?延長戦に入ってKMくんに変わって入ってきたKYくんが蹴ったボールはゴールを外れていった。
高校サッカー最後の試合は、終わった。
そのときは仕方ないとも、残念とも、何にも思わなかった。むしろ清々しかったような気がする。
いつものように試合の振り返りをするために、試合会場の裏側、どこかの学校の校舎の影にみんなで集まった。
顧問の先生が話しているときだったか。
どの言葉で何を思ってそのようになったのかは記憶がないが、なぜだか急に泣けてきた。
みんなの前で声を出して号泣していた。
終わってしまったことを残念に思っていたわけではない。
やり切ったと思っていた。
後悔もしていない。寂しいとも悔しいとも悲しいとも思っていなかった。
もちろん、KYくんを恨んでなんかもまったくない。
でも、なぜだか急に何かがこみ上げてきて、胸がいっぱいになり、涙が止まらなくなった。
あれは、なんだったのだろうか?
”優しさ”とはなにか?
あれから25年以上が経った。
私はいま「他者に背中をあずけることができる人」は「優しい人」だと思っている。
高校サッカー最後の試合。
あのとき、胸がいっぱいになったのは、他者に背中をあずけることができたからだと思う。
あずけようと思ってあずけたのではない。
結果的に、自分を信頼し、自立し、他者に依存するのではなく他者を信頼し「背中をあずける」という状況が勝手に生まれていた。
私にもチームメイトにも自我や作為はなく、同じ目的を共有しようと思ったわけでもなく同じ目的を共有するに至っていた。
依存は”優しさ”ではない
依存心は自分の弱さから生まれる。
自分に自信がないと、つまり自分が自分を信頼していないと、知らないうちに他者に寄りかかってしまう。それが当たり前になると依存になる。
それは「背中をあずける」とは程遠い。
依存は優しさではないと、私ははっきり言う。
依存するのも、させるのも、優しさではない。
「背中をあずける」というのは、依存しないところから始まる。
また、依存と協力は違う。
依存しないということは、自分を信頼しているということ。
孤独である自分を受け入れ、孤独を手放さずに他者と関係を築くこと。

人は孤独を手放すことはできない
私たちには、どうしても共有できないモノ・共有できない感覚がある。
私たちは、分かり合いたいと強く思いながら、それぞれがそれぞれに絶対に分かり合うことのできない領域を抱えて生きている。
一遍上人が
生ぜしもひとりなり
死するもひとりなり
されば人と共に住するも独りなり
そいはつべき人なき故なり
と言ったように。
孤独に耐えることは苦しいことだけれど、究極的には、人は生まれるときも、死ぬときも、大好きな人と一緒にいるときでさえ、孤独なのだ。
孤独を手放すことはできない。孤独を手放さずに、大切な人と一緒に生きていくこと、他者との関係を築いて生きていくことを生まれながらに求められている。
そして、自分への信頼がなければ、孤独を手放さずに他者と関係を築くことはできない。

他者に背中をあずける
映画『THE FIRST SLAMDUNK』の流川と桜木がハイタッチした瞬間。
あのシーンはいつ観ても何度観ても、胸がいっぱいになる。
思い出すだけで目頭が熱くなる。
あの瞬間、2人には自我がなかった。
孤独を受け入れ、自分を信頼し、自分にできることに目を向け、全神経を対象に集中する。
その流れの中で、自然と他者と出会い、他者と関わり、他者との関係が築かれてゆく。
孤独を受け入れ、自分を信頼し、自分にできることに目を向け、全神経を対象に集中することで、自然と、他者に背中をあずけてしまっている。
あずけようと思ってあずけるものではない。
他者への信頼は、自分への信頼から生まれるもの。
自分を信頼し、目の前のいまこの瞬間に集中した結果、振り返ったときにはじめてわかるもの。

「背中をあずける」は、何かがこみ上げてきて胸がいっぱいになって涙があふれてくる経験のなかにある。
そしてそれは、私にとって「優しさ」を想起させる経験だった。
胸がいっぱいになる体験には
優しさ
が隠れている。

