イメージは本人の不在時に作られる?
どうも、まさたかです。
人のイメージって、いつ作られると思いますか?
本人と話しているときでしょうか。
仕事ぶりを見ているときでしょうか。
もちろん、それもありますよね!
でも私は、人のイメージというものは、意外なほど「本人がいないところ」で作られているのではないかと思っています。
たとえば、飲食店。
お店の看板に、
「有名店で修業したシェフが監修!」
「素材に徹底的にこだわっています!」
と書いてあったとしても、それだけで「絶対に美味しい」と信じる人は、それほど多くないでしょう。
ところが、仲のいい友人から、
「昨日行った店、本当に美味しかったよ」
と言われると、少し行ってみたくなります。
もっと極端に言えば、お店がどれほど素晴らしい経歴を掲げていても、口コミ欄に「期待していたほどではなかった」という投稿が並んでいれば、そちらに引っ張られることさえあります。
人の味覚や好みなんて、本来かなり違うのにです。
第三者から発信された情報が、当事者自身の発信よりも信頼されやすくなる現象は、日本のマーケティングなどでは「ウィンザー効果」と呼ばれることがあります。
この呼び名自体は学術心理学の厳密な効果名として扱うより、口コミや第三者評価の力を説明する言葉として捉えたほうがよいかもしれません。
一方で、「誰が言った情報なのか」が受け手の判断に影響することや、口コミの信頼性が購買意向などに関係すること自体は、情報源の信頼性やeWOMなどの電子的口コミの研究でも繰り返し確認されているようです。
そして私は、これが商品や飲食店だけの話ではないところが、とても興味深いところなのです。
たとえば、初対面の人から、
「私って、本当に優しいんです」
「私、仕事はかなりできるほうなんです」
と言われたら、どうでしょう。
もちろん、本当にそうなのかもしれません。
でも、ほんの少しだけ身構えませんか。
ところが、気のおける友人や信頼している同僚から、
「あの人、一人でいくつものプロジェクトを成功させたらしいよ」
「表には出さないけど、あの人は20代で事業責任者を任されて組織をまとめてたんだよね」
と聞かされたら、同じ情報でも受け取り方はかなり変わります。
まだ会ってすらいないのに、
「へえ、どんな人なんだろう」
と興味が湧いてくる。
ここで面白いのは、この場面の主役は、褒められている「あの人」ではありません。
実は、
「あの人、○○らしいよ」
と話している第三者なんです。
「本人のいない場所」で価値を上げる人がいる
考えてみると、ものすごい力です。
ある人が部屋から出たあと、
「いやあ、あの人すごいんですよ」
「この前も、誰も見ていないところでこんなことをしていて」
と、その人がいないところで価値を上げてくれる人がいるわけです。
本人はまだ何も意識していません。
自己PRもしていません。
名刺も配っていません。
それでも、評判だけが先に歩いていきます。
研究の世界でも、本人を直接知らない人が、第三者から伝わる評判情報をもとに「この人は信頼できそうか」「一緒に行動する相手としてどうか」を判断することは、人間社会における重要な情報伝達の一つとして研究されています。
だから企業が口コミを欲しがるのも当然です。
ただし、あまりにも強いからこそ、ここには境界線があります。
企業が依頼や報酬などによって第三者の投稿に関与し、実質的には事業者による広告であるにもかかわらず、それを消費者が広告だと判別しにくい形で見せれば、日本ではステルスマーケティングとして景品表示法上の問題になり得ます。2023年10月から、こうした表示は正式に規制対象となっています。
それくらい、「第三者が言っている」という外形には力があるわけです。
でも、人間関係には広告とはまったく違う世界があります。
頼まれているわけでもない。
報酬をもらっているわけでもない。
それでも普段から、
「あの人のこういうところ、本当にすごいんですよ」
「実はこんなことまでやってくれていて」
と、人の良いところを自然に見つけて、本人のいない場所でも言葉にできる人がいます。
私は、こういう人はものすごく貴重だと思っています。
なぜなら、その人が一人いるだけで、人と人との間に流れる情報の質が変わるからです。
人の評判を運ぶ人は、自分の評判も運んでいる
もちろん、ここで「愚痴や悪い話は一切してはいけない」と言いたいわけではありません。
人間ですから、不満だってあります。
誰かの問題行動について第三者と共有することが必要な場面もあります。
実際、本人不在時について語る「ゴシップ」にも、単なる悪口だけではなく、情報収集、関係構築、危険な相手の把握、集団内の協力を支えるような機能があることが研究されています。
だから問題は、「悪いことを言ったか」だけではありません。
私がもっと重要だと思うのは、
その人が、普段からどちら向きに他人の印象を動かしている人なのか。
ということです。
誰かがいなくなるたびに、
「あの人ってさ……」
と負の情報を持ち出し、それによって場の関心を集めることが習慣になっていれば、その場ではみんなが頷いてくれるかもしれません。
けれど、聞いている側の頭には、もう一つの情報も残ります。
「この人は、本人がいないところではこういう話をする人なんだ」
という情報です。
そして早々に、
「ということは、私がいないときには、私のこともこうやって話しているんだろうな」
という推測につながります。
反対に、本人のいないところで人の良さを伝える人にも、同じことが起こります。
「あの人は、人がいないところでも人をちゃんと評価する人なんだ」
という、その人自身への評価が少しずつ積み上がっていく。
ここが、この話の一番面白いところだと思うんです。
第三者として誰かの評判を作っているつもりが、同時に自分自身の評判まで作っている。
人の評価を運ぶ言葉は、どうやら一方通行ではないようですね。
もちろん、第三者から聞いた情報がすべて正しいわけではありません。
噂は間違いますし、人には好き嫌いもあります。
一人の「あの人はこういう人らしい」を、その人自身の真実だと決めつけるのも危険でしょう。
それでも、まだ本人をよく知らないとき、人間は手元にある情報からその人を推測するしかありません。
だからこそ、
私たちのイメージは、自分がいる場所だけで作られているわけではない。
むしろ自分が席を立ったあと、その部屋でどんな言葉が交わされるかによって、少しずつ形を与えられているのかもしれません。
そして同時に。
誰かが席を立ったあと、自分がその人について何を語るのか。
そこで作られているのは、その人のイメージだけではありません。
あなた自身が、どんな人なのかというイメージもまた、あなたの言葉を聞いている人たちの中で静かに作られているのです。
まさたかでした。
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