居合道歌七選〜二段第1首 六本目〜道を歩む者達の御伽話
居合道歌――
「抜は切れ 抜すハ切るな 此刀たた切る事に大事こそあれ」
《詠唱:抜かれざる春刀(しゅんとう)の詞》
――おお、未来を歩む子らよ。
鉄を恐れるな。
されど、鉄に心を預けるな。
刃とは、ただ肉を裂くものにあらず。
迷いを断ち、濁りを払い、
己が内なる闇に名を与える、
静かな月光である。
抜くべき時は来る。
世界が涙に沈み、
沈黙が弱き者を呑み込む時、
その時こそ、ためらうな。
過去を呪うな。
未来を諦めるな。
ただ、“今”という一太刀に、
己の命をまっすぐ込めよ。
されど、
怒りのままに刃を走らせるな。
言葉は矢となり、
知識は炎となり、
富は国を傾け、
正義の名は時に人を裂く。
ゆえに、
真に強き者は、
抜ける刃をなお鞘に納め、
嵐の中で静かに立つ者。
見よ。
刀とは、殺めるための牙ではない。
それは、
滅びゆく河を繋ぐ橋であり、
飢えた子へ運ばれる麦であり、
争いの地に植えられる若木であり、
暗き海を渡る舟の舵である。
技術もまた刀。
科学もまた刀。
芸術も、言葉も、富も、また刀。
ゆえに問われる。
その刃は、何処へ向くのか――と。
おお、春風の子らよ。
桜の散る音を聞け。
花は散りながら、なお次の季節を守っている。
真なる居合とは、
斬る速さにあらず。
抜かぬ覚悟を抱えながら、
なお、人を守る道を選ぶことである。
ならば歩め。
世界の痛みを知りながら、
なお優しくあるために。
ならば研げ。
誰かを倒すためではなく、
誰かの明日を守るために。
――抜は切れ。
――抜すハ切るな。
――此刀たた切る事に大事こそあれ。
その言葉は、
遠き古の剣士の声にあらず。
いまを生き、
未来を繋ぐ、
汝自身の魂の詠唱なり。
《寓話:春鍋(はるなべ)と鞘鳴りの峰》
春だった。
大阪駅から電車を乗り継ぎ、三人は山へ向かっていた。
窓の外では、桜が風に吹かれ、川沿いに薄桃色の霞をつくっている。
「うわぁー、Spring vibesやん!めっちゃエモいわぁ!」
登山リュックを抱えたのぞみが、窓ガラスに額をつけながら笑った。
「のぞみはしゃぎすぎだに」
向かい側で、保冷バッグを抱えたゆめが呆れたように言う。
中には手作りの煮しめと、出雲風の炊き込みご飯のおにぎりが入っていた。
「いやでも山ってテンション上がるやろ? 空気うまいし、cloud closeやし!」
「まあ、わかるけどねぇ」
かなえが海色のイヤリングを揺らしながら笑う。
「でもあたしはやっぱ海派かなぁ。山って“登る”感じだけど、海って“受け止める”感じするじゃん」
「うわ、それpoeticやん」
「でしょ?」
三人は大学時代からの友人だった。
ゆめは料理研究サークル。
のぞみは登山部。
かなえはヨット部。
卒業後も、ときどきこうして旅をしていた。
山道へ入るころには、風が変わった。
土の匂い。
杉の葉擦れ。
沢の音。
のぞみは先頭を歩きながら言った。
「山ってな、“今どこで足出すか”やと思うねん」
「足?」
「せや。変なタイミングで踏み込んだら滑る。けど、行く時にビビったら逆に危ない」
ゆめは、その言葉にふと祖父の居合道場を思い出した。
幼いころ、祖父はよく言っていた。
「抜は切れ。抜すハ切るな」
その意味を、ゆめは最近になって少しずつ理解し始めていた。
料理も同じだった。
包丁を入れる瞬間、迷えば魚の身が崩れる。
だが、怒りや焦りで刃を走らせれば、味そのものが荒れる。
「料理もおんなじだに」
ゆめはぽつりと言った。
「火を入れるタイミングとか、塩を入れる瞬間とか、“行く時”は迷ったらいけん。でも、腹立っとる時に料理すると、味が濁るだに」
「うわ、それdeepやん」
かなえが感心したように笑う。
「海もそうだし。波って逆らうと転覆すんの。読まなきゃいけないんよ」
三人は尾根へ出た。
風が一気に吹き抜ける。
桜の花びらが舞い上がり、空へ散っていった。
そこで昼食を広げる。
ゆめの煮しめ。
かなえのシーフードマリネ。
のぞみのスパイススープ。
「いただきまーす!」
湯気が空へ昇る。
すると突然、のぞみがニヤニヤしながら言った。
「で、ゆめは結局どうなん? 商店街のパン屋の兄ちゃん」
「な、なんでそこでその話になるだに!」
「顔赤いやん!」
かなえも笑う。
「この前、“あの人の焼くパン、春の匂いする”とか言ってたじゃん」
「言っとらん!」
「言ってた言ってた」
ゆめは慌てておにぎりを頬張った。
「でもさ」
かなえが海を眺めるような目で言った。
「恋も居合みたいなもんじゃない?」
「なんやそれ」
「抜く時はちゃんと言わなきゃダメ。でも、寂しいからって相手を傷つける言葉を振り回したらダメってこと」
風が静かに鳴った。
のぞみが珍しく黙る。
「…あー、それ、ちょっとわかる」
「のぞみ?」
「うちな、前の彼氏に“なんでわかってくれへんねん”って怒鳴ってもうてん。ほんまは不安やっただけやのに」
かなえは小さく笑った。
「言葉も刀だもんね」
ゆめは空を見上げた。
桜が散っていた。
けれど、その散り方は終わりではなく、次の季節を守るように静かだった。
その時、祖父の言葉が胸の奥で響いた。
「此刀たた切る事に大事こそあれ」
刀は、斬るためだけにあるのではない。
山道を守る杖にもなる。
魚を捌き、人を満たす包丁にもなる。
舟を進める舵にもなる。
誰かへ想いを伝える言葉にもなる。
夕暮れ。
三人は山頂から海を見た。
遠く光る水面。
町へ続く川。
煙を上げる家々。
のぞみが笑う。
「なあ、うちらって結構differentやんな」
「だねぇ」
「でも、だから面白いだに」
風が吹いた。
その風は、鞘鳴りのようだった。
抜かれぬまま、静かに在る刀の音。
誰かを斬るためではなく、
誰かの明日を守るために研がれる、春の音だった。
