【ショートショート】『日本人形』
【ショートショート】『日本人形』
「この日本人形を、見ていただきたいんです」
雨の降る夕方だった。
山門を閉めようとしていた住職の前に、一本の黒い傘を差した夫婦が立っていた。
夫は五十代ほど。
妻は、その少し後ろに隠れるように立っている。
夫の腕には、細長い桐箱が抱えられていた。
「供養のご相談ですか」
住職が尋ねると、夫婦は顔を見合わせた。
「供養というより……まず、見ていただければ」
通された座敷で、夫は桐箱を畳の上に置いた。
古びてはいるが、傷ひとつない箱だった。
蓋には、赤い紐が幾重にも巻かれている。
住職は紐を見つめた。
「これは、どなたが?」
「妻です」
夫が答えた。
しかし妻は、すぐに首を振った。
「私ではありません」
座敷に、雨音だけが残った。
夫は困ったように笑った。
「こういう調子なんです。最近、妻は少し疲れていまして」
「違います」
妻は夫を見ずに言った。
「あの子が、自分で結んだんです」
夫の笑みが消えた。
住職は、もう一度箱に目を落とした。
赤い紐の結び目は、箱の下側にあった。
誰かが蓋を開けないように巻いたのではない。
中から蓋を押さえるような結び方だった。
「この人形は、どちらから?」
住職が尋ねる。
夫は答えなかった。
代わりに妻が、小さな声で言った。
「娘のものです」
「お嬢さんは、おいくつですか」
妻の唇が震えた。
「七歳です」
夫が深く息を吐いた。
「住職さん。私たちに娘はいません」
妻は、ゆっくり夫の方を向いた。
その顔には怒りも悲しみもなかった。
ただ、本当に不思議そうだった。
「あなた、何を言っているの」
そして桐箱の中から、
こつん。
小さな音がした。
夫婦は動かなかった。
住職だけが、箱を見ていた。
こつん。
もう一度。
今度は蓋のすぐ裏側から聞こえた。
妻が微笑んだ。
「ほら」
赤い紐が、わずかに緩んだ。
「この子も、住職さまにお話ししたいそうです」
住職は息を整えた。
「……失礼します」
赤い紐を一本ずつ解いていく。
最後の一本が畳に落ちた。
蓋を開ける。
中には、一体の市松人形が座っていた。

白い肌。
黒髪のおかっぱ。
赤い着物。
どこにでもある日本人形だった。
住職は小さく息をつく。
「……普通の人形ですね。」
夫は首を振った。
「最初は、そうだったんです。」
住職は眉をひそめた。
「最初?」
「毎日、少しずつ顔が変わるんです。」
「誰に?」
夫は答えなかった。
住職は数珠を取り、静かに読経を始めた。
座敷には雨音と読経だけが響く。
そのときだった。
かたり。
人形の首が、ほんのわずかに傾いた。
住職は読経を続ける。
夫婦は息をのむ。
線香の煙が人形を包む。
住職は視線を落とした。
「……?」
さっきまで真っ直ぐだった眉が、
ほんの少しだけ下がっている。
読経を続ける。
口元が、わずかに変わる。
頬の輪郭も、ほんの少し。
住職は経を止めた。
座敷が静まり返る。
夫が恐る恐る聞く。
「……どうですか。」
住職は人形をじっと見つめた。
ゆっくり眼鏡を外し、
袖でレンズを拭き、
もう一度かけ直す。
そして、静かに言った。
「……間違いありません。」
夫婦は顔を見合わせた。
住職は深刻な表情のまま、
人形を指さした。
「少しだけ……
ゆにばーすのはらさんに似てきています。」


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