君の座る場所から見えるのは
朝、湯を沸かす。
小さく立ちのぼる湯気を眺めながら、コーヒー豆を挽く。
ゴリゴリと規則正しい音が、まだ静かな部屋にやわらかく響く。
窓の外は、少しだけ白んだ空。
庭先の木々の葉が、朝の光を受けてかすかにきらめいている。
お湯をゆっくりと注ぐ。
ふくらむコーヒーの粉。
その奥で、今日も一日がはじまっていく。
ふと視線を上げると、いつもの場所。
ダイニングテーブルの、窓側の奥。
君が座る、その席。
——
息子が小学生になった時、日々の勉強のために学習机の購入を考えていた。
でも、妻のあるひと言で結局買わないことにしたんだ。
「勉強してるトコロ、目の前で見ていたいな。」
その言葉には、心配や期待、いろんな感情が入り交じっていたと思う。
でもきっと、もっとずっと先の未来を見据えていたのかもしれない、って今は感じる。
あれから6年。
息子は今も、家族4人で囲むダイニングテーブルで勉強をしている。
学校から帰ると、床にボンッとランドセルを放り投げて、ガシャガシャと教科書を取り出してテーブルに並べる。
——が、そこから先に進まない。
今日もまた、教科書は開かれているだけで、内容はあまり進んでいない。
最初の一問にたどり着くまでに、軽く小旅行くらいの時間がかかる。
気づけば鉛筆は転がり、消しゴムは分解され、なぜか冷蔵庫の扉が開く。
その集中力、ほんの少しだけでもいいから国語に分けてほしい。
ゲーム機のスイッチに伸びる手。
ギラリと睨む妻の視線。
一触即発の日々。
始めるまでが、本当に大変なんだ。
1年半通った塾も、結局辞めてしまった。
「行きたくない」とその都度暴れる息子に、妻は耐えられなくなったんだ。
息子は発達障害(ADHD, ASD)の特性を持っている。
小学3年生くらいまでは、教室でじっとしていることができなかった。
席を立ち、ふらふらと歩き回り、廊下に出ることもあれば、校庭に飛び出して校長先生と追いかけっこ。
そのまま校長室で、一緒に折り紙を折っていたりもしたっけ。
思い出すと、なんだか少し笑ってしまう。
そして同時に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
たくさんの人たちが、君を見守ってくれていた。
本当に、助けられてきたんだ。
——
そのおかげもあってか、君はとても落ち着いたと感じる。
中学校にも、ちゃんと通っている。
小学校低学年の時以来、久しぶりに同じクラスになった子がいる。
学校公開のときに話したんだ。
「うちの息子、全然テスト勉強しなかったよ。」
そう言ったら、その子は少し驚いた顔でこう言った。
「えー、でも◯◯くん、ちゃんと教室にいるよ。」
その一言で、肩の力がすっと抜けた。
ああ、そうか。
うちの子は、教室にいられるだけでいいんだなって。
生きてるだけで丸儲け。
そんな言葉が、ふっと頭に浮かんだ。
——
息子のいいところを、伸ばしてあげたい。
君はとても純真だ。
子どもっぽいと言えば、その通りかもしれない。
でもそのまっすぐさは、たぶん簡単には真似できない。
なにか問題が起きても、大変な時でも、
いつも誰かが君の味方でいてくれる。
それは、君が持っている力なんだと思う。
もちろん、そこには妻の積み重ねがある。
目の前で見守り続けてきた時間がある。
——
ダイニングテーブル。
同じ場所。
同じ景色。
僕はコーヒーを飲みながら、君の姿を眺めている。
目の前で教科書を覗き込む君。
相変わらず、なかなか進まないページ。
でも気がつけば、
“やらない”から“やろうとしてる風”には進化している。
それで、十分な気がしている。
最近は毎朝、君が母のためにコーヒーを淹れている。
まだぎこちない手つきで、それでも一生懸命に。
やがて、親離れ子離れする時が来るだろう。
その日まで、
このコーヒーの時間が、家族をつないでくれている気がするんだ。
息子と母をつなぐ、コーヒーの時間。
そのうち君は、自分のためにコーヒーを淹れるようになるのだろう。
自分の時間を持つために。
——
そんな未来を思いながら、
新しい机を買おうかと考えている。
あのとき、買わなかった机。
君のための机。
そこに置かれるものは、きっと教科書だけじゃない。
君が選んだ、君の宝物たちだ。
そしてその机から見える景色は、
今とは少し違っているのかもしれない。
でもきっと、どこかでつながっている。
あのダイニングテーブルと、
この場所と、
君と。
——
勉強の話しをするはずだったのに、
気がつけば、宝物の話しになっていたかも。
君の宝物、そして僕の大切な。
そんな由無し事を想いながら、
また一口、コーヒーを嗜んだ。
甘酸っぱくて、ほろ苦さのあるそれを。
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