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昭和臭さ(前篇)【短編小説風エッセイ】

“大人になりたいと思ったことは無かった。いつも男になりたいと思っていた。”

 47という、じゅうぶんすぎるほど大人なアラフィフで脱サラ。わが城を構えた翌年、昭和が終わって10年の1998年。ピカピカのデスクにポツネンと座り、骨董市でみつけたSONYのポータブルテレビ「Mr.nello」のチャンネルをひねると、「SPEAK LARK」のCM。
 健さんのあの声を耳にし懐かしい匂いの「ラ~ク」の煙をくゆらせていると、学生時代のあの馬場下の情景が、じわりと立ちのぼってきた。

 入学早々、授業料値上反対闘争でバリケードやロックアウト。おちゃらけ授業さえもゼロのキャンパスライフ。札幌・東京と2年も浪人させてもらった親には申し訳ナ~スで、「“泣かしてゴメンな”おっかさん」「もう学生運動とかマジ無理っす」と、ノンポリ路線をまっしぐら。逃げるように「(金稼ぎ)クラブ」に潜り込み、『僕って何』と、ボクの『存在と無』を確かめようとしていた。

 1972年。学部キャンパスと、穴八幡宮やポリボックスがある馬場下交差点の近くに、SEASONという、その界隈にしては異彩を放つ青山風のこじゃれた喫茶食堂があった。まさに『学生街の喫茶店』。銀座にマック一号店がオープンした翌年。当時はまだ珍しい舶来食・ハンバーガーの(いま言う)イートイン。地下鉄・東西線駅の近くで、学部だけでなく本部キャンパスから足をのばす学生で繁盛していた。社員は3人。バイトは、みな学生。50人くらいが授業の合間にローテを組んで働いていた。
 バイトは3度目。最初は札幌で、母の知人の娘さんの家庭教師。2度目は2浪で上京してすぐ、高校同窓の友に誘われた静岡・藤枝での古墳発掘。それ以来。だから“お給金をいただく”のは初めてではない。
 5月末に開店したばかりの店。1週間後、店内の貼り紙を見て応募。7月にはベテラン風情で、お客をご案内するフロアチーフをやっていた。「クラブ(活動)」と呼んでいた。仕事というよりはまさに部活。キャンパスで ”がなっている” アジ演説と、店内の陽水や拓郎のシャウトな歌声が交錯。煙草プカプカ・恋バナポロリの空気が充満していた。まさにザ・青春模様であった。

 ご多分に漏れず、ボクも教育学部のノセキミコと付き合い始めていた。きっかけは、1年の学祭。最終日前日の、11月5日。満月の夜だった。
 と、日にちと満月のことをはっきり記憶しているのにはわけがある。それは、初チューの記念日であり、さらにその3日後、1年上の川口大三郎君虐殺事件が起きたのだ。バイト仲間が学部キャンパス中庭から自治会室に連れ去られる、彼の姿を目撃していた。2日後。大隈銅像の前に自然発生的に約2000人が結集。徹夜も交えた集会が続き、革マル派の委員長らが逮捕された。そんな血の匂いのするカオスな年だった。

 高校までは、“泣く子も黙る鬼軍曹” 安部徹似のオヤジのスパルタ教育。酒・煙草はおろか、女の子の手さえ握ったこともないほどに、オンナには無縁だった。

 が、巣離れしたとたん ——— 酒、煙草、解禁。高校があった田舎町・滝川では想像もつかなかった、ゴーゴー喫茶、ビリヤード場。札幌はまさに、昭和のネオンきらめく別天地。予備校帰りに直行するような日々。しかし、マンボダンスのステップやブックマッチを片手で擦りボーイを呼ぶ仕草を下宿で稽古するも田舎っぺ丸出しでは相手にされず、間もなく足が遠のいた。さすがのボクも真面目に勉強するか……と思いきや、下宿には大学生もいる。自然な流れで麻雀も、見よう見まねで覚えていった。
 半年ほど経ったころ。見かねた同窓の友が、彼の下宿に誘ってくれた ——— のは良かったが、引っ越しのリヤカーを押してくれたのが、北大・恵迪寮にいたこれまた同窓のタカノ。これがまずかった。
 寮は、過激派・革マルの巣・溜まり場。たまたまタカノが、健三郎の出版自粛小説『政治少年死す』を入手。意気投合した二人は、海賊版を発行することに。出版といっても資金ゼロ。和文タイプライターでエッサホイサ。印刷にこぎつけたのが、東京受験のわずか1週間前。世間は、そんなに甘くない『昭和枯れすすき』。母がオヤジに泣いてすがってくれたおかげで、東京での2浪目生活が始まる。

 今度はさすがに猛省したようで、予備校とアパートの往復の日々。夜は旺文社のラヂオ講座。日が変われば『ジェットストリーム』の城達也の癒しのバリトン。エンディングに差しかかる1時前まぶたが落ちかかる。そこで『セイ!ヤング』のオープニング曲。土居まさる、みのもんた、落合恵子、はしだのりひこ、野末陳平、谷村新司……深夜にしては濃すぎるキャラの豪華ラインナップに励まされ、“四当五落”の4時間睡眠。ヘッドスライディングで、ギリチョンの合格だった。

 2年間の冬の時代が終わり、ようやく味わう解放感。休講が続いているのをいいことに、「部活」中心の生活が始まった。と同時に、札幌時代に封印していた“ちょいワルシール”も、ペリリと剥がされることになる。

 大学の近くには、「雀の荘」が連なっていた。あの大橋巨泉も通ったという名物雀荘「文明堂」(誘い文句は「カステラを喰いに行こう」)を筆頭に、ざっと30軒はあったらしい。バイト中心の生活ゆえ、さすがに雀荘には通わなかったが、土曜になるとキャンパス周辺3〜10分圏内のバイト仲間の下宿やボクのアパートで、パイを買い込んでポン・チー・ロン・ガラガラと打っていた。
 ——— しかし、幸か不幸か。「クラブ」の隣が、ビリヤード場だった。
 当時は、(トム・クルーズではなく)ポール・ニューマンの『ハスラー』から続く第2次ビリヤードブームの最中。高田馬場駅前の稲門ビル2階ワンフロアは「山水ビリヤード」。ビックボックスにも、ボクが3年のときに(5階だったか?)オープンしたと記憶している。そして、なんといっても——— 大学正門近くの、1954年創業「イナホビリヤード」。授業の合間にキュー(球を撞く棒)を握る学生も多く、ここだけは、今も残っている。

 ノセキミコは、国立大附属高の出身。父親は大手銀行のお偉いさん。かたやボクは、道立高を出た、しがない木っ端役人の息子。どこからどう見ても田舎っぺ。『東京だョおっ母さん』とばかりに、東京のあちこちに連れまわされた。できれば『神田川』な同棲っぽいことに憧れたが、それは叶わなかった。というのも、「6時」という厳しすぎる門限があった。ノセは、ほとんどの遊びを高校までに経験済みで、“門限”を条件に、共学の大学に入学を許されたらしい。だからボクは、毎日5時半までに目黒の自宅まで送り届ける『荒野の用心棒』でもあった。

 特別な行事でもない限り、そのあとはチョンガータイム。男の時間のはじまりになる。それが「玉突き」だった。ナウでヤングな男たちの社交場。ラシャ布のグリーンに魂を燃やす毎日だった。
 男の社交場の名は、「高島ビリヤード」。もともとは、タバコ屋を併設した民家だった。父親はサラリーマンで、3人家族。だが、白血病で急逝。1階を改築して店を開いた。4台が並ぶ、ボクたちには都合の良いこじんまりとした空間だった。SEASONと喫茶「ジャルダン」に挟まれ3軒が並んでいた。現在「みずほ銀行」になっている。
 店を切り盛りしていたのは、5つほど年上の、娘・ミッチャン。身長は、ボクと同じくらいの170cm。プロに手ほどきを受けた師範級で、店内には大会トロフィーがズラリ。ボーリングもアベが200越えする腕前。大きな盾や、投球フォームが美しいミッチャンの写真も、額に入れられ壁に飾られていた。当時絶頂期だった“さわやか律子さん”に似ていて、スポーツ万能ながら文学少女っぽい青白さもある。まるでタカラジェンヌっぽい乙女だった。とくにミニスカやパンタロンを颯爽とはきこなし、台に腰かけてキューを立てて打つ「マッセ」の姿に、みんな見惚れた。
 ビリヤードといえば一般的には「四つ玉」だが、バイト仲間はミッチャンの指導で「三つ玉」、スリークッションをやっていた。名の通り、4辺の壁に3回以上クッションさせてから当てなければ得点にならない。しかもボールは三つ。四つ玉よりも小さく、幾何学的な高度な思考力と緻密さが要求される。

 「部活」が終われば、隣にたむろするのが日課だった。仲間たちは、皆「持ち(専用)キュー」を置くほどに上達していった。
 「高島“玉突き”愛好会」には、バイト仲間のほか、「クラブ」の常連客もいた。なかでも目立っていたのが、いつも夕方になるとカウンターに現れるブラックコーヒーだけの三人組。
 ひとりは、180cm超のモデル体型でマドロスハットをかぶったニノサン。フェリー旅行クラブの学生起業家。もうひとりは、石津健介ばりのアイビールックで決めたイイダサン。ボクと同じくらいの背丈。T百貨店創業家の親族という噂があったのだが、その通りにTに就職した。三人目が、中肉中背で私よりやや小柄なボンチャン。みな法学部で、鹿児島ラサールの同級生。1つ上級だった。
 玉突きに来ていたのは、ニノサンとボンチャン。さすがは中高一貫の遊び人。キャリアが違った。煙草もすでに“洋モク”だった。ボクはまだハイライトだったけれど、彼らは「LARK」。もちろんミッチャンの店では売っていなかった。海外旅行の土産や、デパートなど限られた場所でしか手に入らず、ちょっと背伸びした煙草というイメージがあった。やはり、ラサールのボンボンたちは、銘柄にもこだわっていた。とくにボンチャンは、鹿児島で医者をやっている父親の所有するマンションに住んでいた。3年になると、なんと、いすゞ117クーペに乗っていた。
 その「LARK」、ノセも吸っていた。父親は外国為替銀行、T銀行の重役で、海外出張が多かったらしく、家の“置き在庫”から拝借していたようだ。とはいえ、吸うといってもポーズでくゆらせる程度だったが。

 母には、ノセのことを手紙で伝えていた。
 けれど、2年生の暮れ、50歳で急逝。ノセが母のためにと、たまたま編んでいたショールを、棺に入れてあげた。親父と息子2人の男家族。女ひとりの母は、娘を欲しがっていた。だからショールが届くと、「お嫁さんになるかもしれない人が送ってくれたんだ」と、喜んでくれたらしいから…。
 「神田川」とはいかなかったが、ご両親に何度も食事に誘われるほどには、順調だった。と、ボクは思っていた ———。

 いっぽう「社交場」では、3年の夏休みが近づいたころから、ミッチャンのママが店に出ることが多くなった。「ミツコ、旅行に出てるの」と言うが、それにしてはあまりにも頻繁だった。確かに、福島に旅行に行っていたときもあり、お土産を買ってきてくれたことがあった。赤べこの小さな置物だった。オヤジのほうのボクのルーツが会津であることをミッチャンに話したことがある。覚えていてくれたのだ。ただ、その数日後、ボンチャンからも会津の銘菓、伊勢屋の「元祖椿餅」をもらったのだが・・・。
 が、それだけではなかった ―――。
【後篇に続く】
 

エッセイとは、エセー、「試み」と、師匠に教わった。なので、こんなパターンもありだろうと、つれづれなるままに短編小説風のエッセイを書いてみました。
小説的要素が加味されているので、創りごとが1割ほどあります。ただ、全体に漂う「昭和臭さ」だけは、当時のままです。昭和に生きた方なら、わかってくれるかな、と期待して。さて後篇、どう締めましょうか。うまくまとまらなかった暁には、“怖いお姉さま”「斎藤美奈子」のコラムの紹介で逃げるかもしれません。(◎_◎;)笑
あ、そして思わせぶりに前後編にわけたわけではありません。no+eをスマホの画面で読むとき、4000字くらいが限度と、考えたからです。


(ふろく)
80年代には、こんなCMも。昭和が終りに近づきバブルが浮かび始めた1987年。ビリヤード場のジェームズ・コバーンの「Speak LARK」の声が若者のハートを震わせた。


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