【27】清酒の成り立ち(4) ―灘五郷における清酒造りの発展・前編―
【24】清酒の成り立ち(1) ではざっくりと日本における酒造りの始まりについて、そして「清酒発祥の地」から史料等に基づいて【25】清酒の成り立ち(2)では平安時代までの酒造り、【26】清酒の成り立ち(3)では室町から江戸時代中期までの酒造りまでを紹介しました。
この記事では、江戸時代から、明治時代に科学的メスが入る(【12】清酒醸造の科学的解明の歴史 の記事)までの期間に「日本一の酒造地帯」となった灘五郷の酒造りについて「灘酒沿革誌(神戸税務監督局 編纂, 1907年(明治40年))」の記述をメインに解説していきます。当初は1つの投稿でまとめようと試みたのですが、2万字を超えるボリュームになりましたので分割投稿します。
タイトル画像は灘五郷酒造組合公式サイトより「灘五郷絵図」です。
灘五郷とは
灘五郷酒造組合によれば「灘五郷は、神戸市・西宮市の沿岸部に栄えた、室町、江戸時代から受け継がれる『日本一の酒どころ』」となっており、地理的表示「灘五郷」においては、「灘五郷は西郷・御影郷・魚崎郷・西宮郷・今津郷の総称であり、北は六甲連峰を背にし、南は大阪湾を望む東西に長い帯状の地域である」と定義されています。上の絵図ではわかりにくいので、灘五郷酒造組合より画像をお借りして以下に貼り付けておきます。

灘目という地名の発生、上灘郷の3組分割、その他成立時期による場所の変遷などありますが、詳細は灘五郷酒造組合WEBサイトにてご確認ください。摂泉十二郷までやりだすときりがないので、下記の紹介に留めておき、ここでは飛ばします。
灘の酒造りの始まり
灘の酒造りがいつから行われていたか、というのは下記の通り、伊丹から流れてきた酒造家(雑喉屋文右衛門)が西宮で酒造りを開始したのがきっかけと考えられています。
灘地方における酒造りの歴史は、西宮での醸造が最初とされますが、伝承的にはさらに古く元弘・建武の昔(1330年頃)より行われていたようです。室町時代にはすでに酒造が始まっていたとの記録があります。その後、寛永年間(1624~43)、伊丹の雑喉屋文右衛門が西宮に移り住み最初の酒造りを始めました 。以後、明暦(1655年~)から享保(~1736年)に至る60余年間に灘地方で創業し今日に至る酒造家が多いことから、灘の酒の勃興期はこの期間だと言えるでしょう。
室町時代後期に一条兼良によって編纂された「尺素往来」における「酒者柳一荷、加之、天野南京之名物、兵庫西宮之旨酒及越州豊原、加州宮腰等」という一文にある太字の箇所が引用文にある「西宮での醸造」に当たる部分と考えられます。
そして「元弘・建武の昔」というのは、菊正宗の嘉納家の姓の由来として、約700年前(下記引用には600年とあるのですが1300年代なので……)、御影・沢の井の水で酒を造り、これを後醍醐天皇に献上したところ、ご嘉納になった(ほめ喜んで受け取った)ので嘉納の姓を賜った、との伝承があるからだとか(なお嘉納家は材木業などを営んでおり、酒造業を生業として創業したのは17世紀になってからです)。
万治二年(1659年)、徳川四代将軍家綱の時代。
材木商として活躍していた嘉納治郎太夫宗徳が、当時、先端の製造業であった酒造業に手を広げ、本宅敷地内に酒蔵を建て、酒造業を本格的に開始。ここに菊正宗360余年の歴史が始まりました。
(中略)
ちなみに、嘉納の姓については、約600年前、御影沢の井の水で酒を造り、これを後醍醐天皇に献上したところ、ご嘉納になったので嘉納の姓を賜ったとのいい伝えがあります。
なお「灘」という地名が文献上で初めて見られたのは1716年(正徳6年)とされており、雑喉屋文右衛門の移住から70年以上後の話です。
灘の酒の台頭
灘地方がどのようにして酒造地域として大きくなっていったのか、神戸市が「灘の酒造業」についてまとめた資料がありまして、引用すると長くなるので、要点を抜粋します。
1660年(万治3年)、幕府は酒造業を把握するため酒屋の調査を行い、それに基づいて「酒造株」を定めます。酒造米高や酒造人の住所・氏名を明記した「酒造株札」を持つものだけが酒造営業が認められました。今の酒類製造免許に通じる制度です。
明暦(1655年~)から享保(~1736年)に至る60余年間に灘地方で創業し今日に至る酒造家が多い、という文章が先ほどの引用にもありましたが、1666年(寛文6年)の第一次酒株改め時の株高はわずか840石であったと記されています。そして1698年(元禄10年)には各地から江戸へ64万樽の酒が送られていますが、まだ灘は江戸積み酒造地域の中に含まれていませんでした(先述の通り、灘一帯を表す地名自体も生まれていません)。
在方である今津や灘(灘目)では、町方である大坂や西宮に比べると、酒造業への参入や製造量の制限が大きかったという背景もあります。
元禄後期から1708年(宝永5年)までは米の不作に伴い、酒の製造が減醸令として抑制されていましたが、1709年(宝永6年)に規制が解除されると徐々に灘地方の酒造量は増加し、1724年(享保9年)の江戸下り酒問屋の調査には、灘・今津の名が江戸積み酒造地として上がるようになります。
そして以後1715年(正徳5年)・1733年(享保18年)の2回を除き、1786年(天明6年)まで長期にわたって減醸が触れられることはなく、1754年(宝暦4年)には「勝手造り令」が発令されました。これは享保期以来の米価の下落を緩和する措置として、酒造家に対して酒造米の買い上げを奨励したもので、酒造株を持たない新規営業者でも届け出れば酒造りが許可されました。この勝手造り令によって、在方の商業などで資本を蓄積した灘の商人や地主が酒造業に資金を投資し、江戸積み酒造業に進出しました。
これが灘酒造業の躍進の契機となり、1806年(文化3年)に再度「勝手造り令」が触れ出されると、全国から年間百万樽を超える量の酒が江戸へと運ばれていた中で、その半数を灘の酒が占めるほどになっていきました。
灘酒発展の要素
灘の酒の優れた旨さを構成する要素について、魚崎の酒造家である岸田忠右衛門が以下のように述べています。
忠右衛門亦頗ル酒品ノ改善ニ志アリ一書ニ灘酒ノ醇美ナル所以ヲ論シ西宮ノ水、攝播ノ米、吉野杉ノ香、丹波杜氏ノ技倆、六甲ノ寒風、攝海ノ温氣、相合シ相凝リテ此ノ特長ヲ化成スルヤ盖シ疑ヲ容レスト云ヘリ
(忠右衛門もまた、酒の品質を改善したいという意欲が大変強く、ある書物の中で、灘の酒が美味しい理由として、西宮の水、摂津・播磨の米、吉野杉の香り、丹波杜氏の技術、六甲の冷たい風、瀬戸内海の温かい気候、これらが組み合わさり一体となってこの特別な良さを生み出していることに、全く疑う余地がないと述べている。)
【※現代語訳はAI翻訳を基に一部編集して掲載しています 以下同様】
ところでこの岸田忠右衛門ですが、岸田「忠左衛門」の誤りとも言われています。「灘酒沿革誌」を引用元とする他の文書は「忠右衛門」として記述されています。そしてこの岸田忠右衛門が「惣花」の醸造元であると「灘酒沿革誌」内にも記されています。
其ノ所謂惣花ハ魚崎村ノ酒家、岸田忠右衞門ノ釀ニシテ弘化·嘉永ノ際一時藉々タリシモノナリ
(その、いわゆる「惣花」は、魚崎村の酒造家である岸田忠右衛門が醸造したもので、弘化・嘉永年間には、一時その名声が非常に高く、世間に広く知れ渡ったものであった)
一方で、「惣花」に関する逸話を紹介する加島屋や日本盛、そして大同生命のコラムのサイトなどを見ると「忠左衛門」になっています。Google Scholar検索で引っ張ってみると、「忠左衛門」で記載された古い文献も出てきました。
嘉永安政の頃、灘魚崎に酒造家岸田忠左衛門なる人あり、「ギリ」酛を發明せり。
(中略)
岸田氏は之れを惣花と命名し、其の名聲一時全國に囂傳したり。
魚崎の人ならば、と国会図書館デジタルライブラリで参照できた「魚崎町誌」でも確認したのですが、酒に関する部分は灘酒沿革誌を引用し「忠右衛門」とあり、村(町)の役員などの名簿には「忠左衛門」とあります。そこは頑張ってきちんと揃えて欲しかった……。
以上のことから、基本的には「忠左衛門」の可能性が高そうなのですが、記事内では灘酒沿革誌に準じて「忠右衛門」にて揃えます。
右か左かはさておき、本題に戻ります。この言葉に至る前段として、少し長いですが以下の一節があるのです。
鴻池氏淸酒發明以還、年ヲ經ル二百餘年、其ノ間、幾多ノ改善ヲ加ヘ天保ノ初ニ至リテハ盖シ旣ニ其ノ美ヲ致セリ然モ一書ニ天保の初の頃の酒は少しく赤く恰も下等なる水飴の如き色相を備へ且幾分の念著力を有せしものなりト見エ末タ今日ノ品然澄澈、醇ノ醇アルニ及ハス盖シ灘酒ノ聲價、隆々興起、一時海内ヲ風靡シ丹醸ヲシテ顔色ナキニ至ラシメタルモノハ實ニ原料米ノ精白ヲ極メ、製麴ニ精米ヲ用ヰ、仕込水ヲ西宮ニ取ルニ淵源セリ、而シテ其ノ發明ノ功ハ之ヲ山邑太郎左衞門ニ歸セサルヘカラサルカ如シ、太郎左衞門ハ攝州武庫郡魚崎村ノ人ニシテ方今銘酒ヲ以テ著名ナル櫻正宗本舗ノ祖先ナリ、少ウシテ村ノ雀部市郎右衞門ノ爲ニ釀造ノ業ヲ管掌シ、後遂ニ魚崎及西宮ニ酒藏、即チ釀造場ヲ購入シ盛ニ業ヲ營ミ一意改善ヲ企圖シ天保ノ末年ニ至リ遂ニ能ク之ヲ大成セリ
(鴻池氏が清酒を発明してから、200年以上の年月が経過し、その間に何度も改善が加えられ、天保の初め頃には、すでにその美味しさが一定の域に達していたと言える。しかしながら、ある書物には「天保の初め頃の酒は少し赤みがかっており、まるで低品質の水飴のような色合いで、さらにいくらかの粘り気もあった」と記されており、まだ今日の製品のように澄み切って、まろやかさの中にさらに深いまろやかさがあるという品質には及んでいなかった。そもそも、灘の酒の評判が隆々と高まり、一時は全国を席巻した伊丹の酒造り(丹醸)が影を潜めるほどになったのは、他ならぬ原料米の精白を極限まで進め、麴造りにも精米を使用し、そして仕込み水を西宮から取るという工夫に源を発しており、その発明の功績は、山邑太郎左衞門に帰さないわけにはいかない。太郎左衞門は摂州武庫郡魚崎村(現在の神戸市東灘区魚崎)の人で、現在、銘酒として名高い櫻正宗本舗の祖先にあたる。彼は若い頃、村の雀部市郎右衞門のために酒造りの仕事を管理し、後に魚崎および西宮に酒蔵、すなわち醸造場を購入して、盛んに事業を営み、そしてひたすら品質の改善を企図し、天保の末年に至ってついにこれを立派に完成させたのだ。)
宮水の発見については既に紹介した通り、櫻正宗の後の六代目当主・山邑太左衛門(喜太郎)によるものとして広く知られていますが、それ以外にも太左衛門(喜太郎)の功績として、高精白米仕込(とその米による製麴)が挙げられており、この2つこそが灘酒が伊丹(丹醸)を超える要因であったと記述されています。
まずその2つについて紹介し、岸田忠右衛門の挙げた残りの要素については後編【28】で触れていきます。
宮水の発見
【23】清酒と水 において、宮水の発見について既に紹介していますが、その発見者について、山邑太左衛門の他、先の引用にも登場する雀部(「くさかんむり」に「雀」とも)市右衛門の名前が挙げられることがあります。

発見者について
しかし、宮水が酒造用水として比類のない霊水であることが知られるようになったのは、天保8年(1837)に雀部市右衛門が西宮で鱗井戸を発見して、この井戸水を用いて造った酒を江戸に出荷したところ好評であったこともあるが、何よりも山邑太左衛門の功績によるところが大きい。山邑家はその当時(江戸時代末期)西宮郷と魚崎郷で酒を造っていたが、常に西宮郷の酒が優れていることに気づき、酒造米を同一にしたり、蔵人を交代させたりしたが効果がなかった。そこで西宮郷、梅の木蔵の井水を魚崎郷で用いたところ、西宮の酒同様、良酒が醸出された。このことから断然意を決して、天保11年(1840)より西宮郷の梅の木蔵の梅の木井戸の井水を魚崎に輸送し仕込水に用いるようになり、優秀な酒が造られ江戸の市場でも大好評であった。以後灘はもとより、他地方の酒造家も競って西宮の井水を求め、使用するに至ったという。この梅の木井戸が宮水発祥の井戸となり、山邑太左衛門が発見者とされている。
WEB版では割愛されていましたが、書籍の「改訂 灘の酒 用語集」の「宮水」の項において、雀部市右衛門の名前も出てきています。宮水の発見者として雀部市右衛門の名を挙げる説(天保8年で山邑太左衛門より先という考え方)もありますが、先述の通り、元々山邑太左衛門は雀部家の酒造を管理していたため、水に関する情報共有があったとも考えられます。
そして「宮水物語―灘五郷の歴史」(読売新聞阪神支局・編、1966年)において、以下の話が記載されていました。
宮水の発見
(中略)
だんなというのは魚崎の酒造屋、山邑(むら)太郎左衛門。天保五、六年ごろ(一八三四、五)のことである。山邑家では魚崎と西宮に酒蔵を持っていた。ところが毎年、西宮の酒の方がノドこしがよい。しかも夏をこしても腐りそうな気配がないばかりか、ますます美味となる。
(中略)
古来、銘酒に良水はつきもの。だが魚崎と西宮は、同じ六甲山系から落ちてくる水を使っている。距離もそうへだたってはいない。水質に変わりがあるとは、だれも想像していなかった。太郎左衛門は「もし水が関係しているのなら、西宮の水を魚崎の蔵で使ってみると証明できるはず」と考えた。そして翌年、さっそく西宮蔵の井戸水を魚崎に移し、試みに醸造してみた。予測は見事に当たった。両方の蔵の酒はまったく同じだったのである。だが太郎左衛門は慎重だった。「偶然ということがある。三、四年同じ結果だったら、西宮の水が良酒の原因と断定してもよかろう」。そのごも西宮の水による試験醸造をつづけた。結果は毎年同じだった。「もうだいじょうぶ。これでわが年来の疑問がとけた」……。以後、太郎左衛門の睡眠不足はなくなった。
(※一部表記のおかしい箇所がありますが原文ママです)
つまり、雀部氏の鱗蔵の酒が評判になる前から、既に山邑喜太郎は水の違いに着目し、試験醸造にて成果を出していたということになるのですが、その話が何に基づいているのかの出典の記載がありませんでした。新聞社が連載したモノなので、取材など基づいて書かれていると思いますが、実際これ以外に今のところ天保5年・6年の話は出てこないのです。
とはいえ、「灘酒沿革誌」ほか、「西宮町誌」など複数の書物でも、雀部氏について言及はするものの、宮水の発見については山邑太左衛門の功績として述べていることが確認されましたし、西宮市が宮水発祥の地を定めるに際し、以下のような経緯があったとされているので、通説としては山邑太左衛門によるものとして差支えないと考えられます。
その第二は、宮水保存調査会の記念事業として、宮水発祥之地の記念碑を造立したことについてである。宮水の発見については、従前、二説が行われていた。その何れもが伝説といわれていたのであるが、たまたま一方の山邑家の過去帳に関係の記載があることを聞き、切に乞うて披見し、史料として疑問の余地がないことを知り、現在の建碑の位置が決定されたのである。
そもそも「発見」というものの、西宮の一部地域の水の性質はそれより前から変わっておらず、科学的検証をしてその優位性を明らかにした、というのが功績と考えると、やはり山邑太左衛門ということになると考えます。
雀部市右衛門
以下は余談となります。
魚崎の酒造家であり、西宮の鱗蔵で醸した酒が評判になった、という雀部市右衛門(赤穂屋)ですが、それから25年後の1862年(文久2年)には、鱗蔵は他者の手に渡っており(なお、買い取ったのが白鷹の創業者である初代・辰馬悦蔵です)、酒屋としては明治期に入っても存続していたものの、やがて廃業に至った模様です。
直接の関係性は掴めませんでしたが、バンドー化学の社長であった雀部昌之介の人物紹介(一般財団法人 神商同窓会のWEBサイト)において、「神戸の造り酒屋の一人息子としてうまれたが、少年時代、経営不振から家は倒産、 薬屋に転業、大邸宅から長屋に移り住んだ。」と記述されており、時期は一致するように思われました。
高精白米による酒造り
エピソードとして高精白米による酒造りを語る前に、まず灘地方における水車精米の話が必要となります。
水車の利用
これまで精米(搗精)は人力による足踏み式で行われていましたが、灘地方では18世紀後半には水車精米が導入され、精白や歩留まり、そして処理量が飛躍的に向上しました。
六甲山麓で水車が精米・製粉・製油・製糸などのための動力源として利用され始めたのは江戸時代、元禄末から宝永年間(1688~1711年)とされています。水車が盛んに用いられた背景には、六甲山系からの水量豊富で流れの速い河川を利用できたことが挙げられます。
当初は菜種の油搾りを目的として、六甲山麓からの水系に多くの水車が設置されたのですが、灘の製油業が発展して大坂の製油業を脅かすに至り、それを保護しようとした大坂問屋組合からの圧迫を受け、灘の製油業は衰退してしまい、余剰となった水車が米搗きなど酒造業用へも転向されたのです。
次に、水車が動力用として利用されはじめたのはいつであろうか。動力用として新たに精米・製粉・製油・製糸などのための動力源として、六甲山麓では、元禄末から宝永年間(1688~1711)にはじまる。
(中略)
この六甲山麓の動力源としての水車は、油絞りを目的として大規模化したのである。近世、都市の発達にともない灯火用の油は必須の生活用品として需要が増大したからである。
なお、灘地方では水車を用いた製粉から素麵の生産まで行われていたようで、明治期には「灘目素麺」として一大産地となっていたものの、後に播州素麺の発展により産業としては消滅してしまいます(下記引用にある、灘目素麺が播州素麺の基になった、というのは諸説あるようです)。
魚崎村の素麵業
兵庫県内の素麵といえば、現在では「播州素麵」として全国的にも奈良県の「三輪素麵」とともに有名である。この播州素麵は、「魚崎町誌」によれば魚崎や横屋に出稼ぎに来ていた人々が技術習得の後帰郷し、揖保郡内で生産するようになったといわれている。そして明治三十年代には揖保郡内の生産額が、兵庫県下の総生産額の七〇%台にまで達している。このため、魚崎・横屋の素麵業は衰退してしまった。
ところが近世においては、西摂の今津・鳴尾から兵庫にかけての六甲山の南麓一帯が一大生産地で、「灘目素麵」「上方素麵」として江戸にまで廻送されたという。原料の小麦粉は、同地域の水車によって生産されていた。
天保十五年刊の大蔵永常の「日本国産考」に、「そうめんは摂州莵原郡灘にて製する物、江戸へ廻し商う事おびただし、国々にては夏のみ製し、秋冬製する事なし、是を灘、三輪のごとく、年中製せば産物ともなるべし」とあり、素麵の生産地として大和の三輪と並び称されているように、莵原郡灘地方が一大生産地として成立し、江戸市場へも大量に廻送されていたことがわかる。
高精白米のきっかけ
さて、水車精米が行われ、足踏み式(精米歩合92~95%)よりも磨かれたとはいえ、当時水車精米で一晩かけて精米歩合はおよそ85%前後(諸説あり)と言われており、現在に比べるとそれほど磨かれた米ではありませんでした。そこに変革を起こしたのが山邑太左衛門でした。少し長いですが、灘酒沿革誌に記載されているエピソードがこちらです。
一書ニ其ノ事蹟ヲ叙シテ彼が酒蔵は或年其原料米として例年よりも多くの仕入れをなせしか酒蔵の者共より其剰餘米を如何に處分すへきかと質したるに太郎左衞門は最早餘りたる米なれは我か思ふまゝに醸造の試驗に用ゆへしとて出來得るたけ精白に搗き上けて造り見よと命したりしかは、三日三夜の間、水車にかけて全く糠の脱するまてに搗きに搗きて醸せしに、其の酒は色薄く粘氣なく香味もまた以前のものと大に異なれり、されと長く従來の酒質に馴れたる口には何となく物足らぬ心地せられ且つ外見すら餘り好ましく思はれす、痛く我が好奇心を悔ひ憖に變りたることして可惜、米を損せりとて一時は失望せしか不思議に日足、長く保ちけれは兎も角、一度江戸に送りて需用地の品評を試みはやと思ひ直し、便船に托して其見本を新川の市場に上せぬ、時經て江戸より仕切状の來るを見れは此の酒の價、最も高く記しあり太郎左衞門大に喜ひ勇み、その翌年より精白を極めて造りなしけるに、江戸市中の評判いと高く山村(注:原文ママ)の此の酒こそ酒の中の酒なれとれ、只管もて囃せしかは灘の酒造家は追々これに傚ひて茲に淸酒の品質は一變したるか、そは遙に後日のことなりかくて太郎左衛門は更に麴をも精米によりて作らはやと思ひけれと當時は皆半白米を使用し未た其の術を知るものなし偶々西宮に精米をもて麴を造る杜氏ありと聞き切に請ひて其杜氏を雇ひしか此れより愈々益々高名とはなりぬと云ヘリ
(ある年、原料米として例年よりも多く米を仕入れて余ったので、太左衛門は「余った米なので試しにできるだけ精白して酒を造ってみよ」と命じた。
三日三晩水車にかけて精白した米で酒を造ったところ、その酒は色が薄く、粘り気がなく、香りや味もまた以前のものとは大きく異なった。太左衛門は「変わったことをして、せっかくの米を無駄にしてしまった」と一時は失望したものの、一度江戸に送って、需要地での品評を試みてみようと思い直し、その酒を江戸の市場に送ってみた。するとこの酒が最も高く値付けされていた。太左衛門は翌年からは精白を極めて酒を造るようにすると、江戸市中の評判は大変高く、山邑の酒がもてはやされたため、灘の酒造家は次第にこれに倣うようになり、清酒の品質が一変した。
また太郎左衛門は麹も精米によって作ろうと考えたが、当時は皆、半分ほどしか精白していない米(半白米)を使っており、まだその技術を知る者はいなかった。たまたま西宮に精米で麹を造る杜氏がいると聞き、熱心に頼み込んでその杜氏を雇ったところ、これによりますます名声が高まった。)
米が余ったので徹底的に搗精したらどうなるかと試したところ、精米歩合にするとおよそ75%程度まで磨かれていたようです。現在では普通酒クラスの白米に相当する精白度ですが、当時からすればかなり高精白の米になったのでないでしょうか。
この精米により、それまでの「少し赤みがかっており、まるで低品質の水飴のような色合いで、さらにいくらかの粘り気もあった」酒とは大いに異なる酒を生み出すことに成功しています。
これは宮水が中硬水であったため、米の外側にある栄養分が搗精で除かれても、水由来のミネラル等で補われて、酵母の活性が失われず発酵が進んだためではないか、と推察しました(軟水地域では磨いた米では発酵が進まず、灘と同じ造りをしようとして失敗した三浦仙三郎の話にも繋がります)。
また同時期に、灘の酒造りでは他所で汲水が米10に対し水6(六水)であったものが、米10:水10(十水)までのばすことができたとも言われており(これは宮水の効能とは別に、酒に使える米の量を減らされた際に、できるだけ多くの酒を造るための技術改善だったとも言われています)、宮水の発見や高精白仕込みが重なったこの天保年間が、それまでの酒造りとの大きな変化点になっています。
麴についてもしれっと書いてあるように、「諸白」と言いながらも麴米はさほど磨いていない「半白米」が用いられていたとあります。これも麴菌の発育に米の表層部にある栄養分が関係するためと推察されます(現在でも種麴の製造には玄米を使用します)。
白米で米麴を造ることは現在では確立されていますが、当時はかなり技術のいることだったのではないでしょうか。その道に長けた技術者を招聘して課題解決を進め、山邑の酒がさらに評判になったことから、他所も追随して白米麴が浸透していったのではないか?と想像します。
「宮水の発見」と「高精白米による酒造り」については以上ですが、他に岸田忠右衛門が挙げた5つの要素について、後編【28】へ続きます。
これで1万字強ですが、後編はもう少し長くなります……。
