傷ついた犬と弥勒菩薩の話〜灌頂の時に思い出したこと〜
北鎌倉の浄智寺で、
チベット仏教の弥勒菩薩の結縁灌頂を受けた。
弥勒菩薩は、慈悲心の仏。
人々を救うために、現在進行形で修行中の仏だ。
わたしにとっては、慈悲という言葉より
リンポチェの英語のcompassion(コンパッション)がすんなりと理解しやすい。
思いやりとか、相手に対するやさしさ、共感
何かしてあげたい気持ち。
結縁灌頂のあと、チベット仏教ではよく語られる
傷ついた犬と弥勒菩薩の話をしてくれた。
その昔、
ある僧侶が、弥勒菩薩を感得したいと思って
洞窟に3年籠る修行をした。
でも、弥勒菩薩を感得出来ず、更に3年、
更にもう3年…と12年洞窟に籠る修行をする。
12年目にして、「ああ、もう無理だ 弥勒菩薩を感得するかことはできない。いないのかもしれない」とついに諦めて、洞窟を出る。
と、傷ついた犬を発見する。
その犬は傷のところに蛆虫が沸き、そのお坊さんは慌てて蛆虫を傷口から吸い出し、助けようとするが、犬は死んでしまう。
何も出来なかったお坊さんが嘆き悲しむと、
その犬は弥勒菩薩に姿を変える。
お坊さんは
「なぜ修行していた12年間姿を現さなかったのに、今姿を現すのか?」と尋ねると
弥勒菩薩は
「わたしは、お前がわたしを感得したいと願い、洞窟に入った時からすでに傍にいたよ。ただ、お前には見えなかったのだ。
お前が、犬に対してコンパッションの気持ちを持ったから、わたしの姿が見えたのだ」と言う。
そして、「さあ、これから町に出て、わたしは弥勒菩薩を感得したと叫ぶが良い」と言う。
僧侶は、「わたしは弥勒菩薩を感得した!」と叫んだが、皆にはただの狂人にしか見えなかった。
少し、エネルギーが見える女には、彼が傷を負った犬を手にぶら下げているのが見えた。
彼は12年の修行をしたと思っていたが、
その時間は人の世では50年、
弥勒菩薩の世界ではたったの朝の2時間。
まるで浦島太郎のように、彼1人が50年前の若々しい姿だった、という話でした。
大事なのは、難しい修行じゃなくて、
目の前の相手にコンパッションを持つこと。
やさしさと思いやりを持つこと。
時として、それは醜く、
薄汚れた姿や形で現れるかも知れない。
嫌な相手かもしれない。
たいていの人には、見えなかったり、
見えたとしても、その人の理解の範疇で
傷を負った薄汚い犬にしか見えないこともある。
次元の層で、時間も、姿も大きく違う。
昔、もう10年以上も前
南インドのSchool of Ancient Wisdomで
笑いヨガのセミナーを受けていた時、
わたしの部屋のベッドに
疫病で血だらけの犬が寝そべっていたことがある。
二階の部屋だった。
思わず大声で叫んだら、犬は出ていったが
服もベッドも血だらけ。
すごい臭いで、部屋を移ることになった。
その頃、わたしは不思議と
施設の穏やかな犬たちに懐かれて、
わたしが歩くと
部屋の前まで何頭も犬がご機嫌に尻尾を振りながら付いてきて、
ハーメルンの笛吹きみたいと言われていた。
当時の私は怖かった。
疫病の犬がベッドに横たわるなんて、
何の罰だろうとさえ思っていました。
でも、その時、
笑いヨガの創始者のDr.カタリアは、
「マサミさん、あの犬は仏かもしれないよ」
と言いました。
当時は意味がわかりませんでした。
けれど、弥勒菩薩と犬の話を聞きながら、
あっ!
ドクターが言ったのはこの話だったのか?と
思いました。
あの犬が本当に仏だったのかは分かりません。
でも、人は目の前にあるものを、
自分が理解できる形でしか見ていないのかもしれない。
そして、コンパッションの心を持った時にだけ、
見えてくるものがあるのかもしれない。
弥勒菩薩は、結縁灌頂の日ではなく
ずっと前からわたしの傍にいてくれたのかもしれない。
そしてきっと、
誰の傍にもいてくれるのだと思うのです。

