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「漂えるまち」をつくろう!目的から解放された人間が取り戻す、自分と外の世界の間にあるモノ。

僕は、衝動的に「まちに漂い続けていたい」となるときがある。家にはまだ帰りたくない。とにかく「漂っていたい」。それが自分にとって贅沢な時間だということもわかっている。その日も、なんとなく電車に乗らずに、東京のまちとまちの間を漂いはじめたのだった。

そしてふと、「まちに漂う時間とは何だろうか」と考えはじめた。

「漂う」とは、ただ歩くことではない。散歩とも少し違う。どこかに向かっているわけでも、何かを得ようとしているわけでもない。けれど、何も起きていないわけではない。むしろその時間の中で、僕は目の前に広がる世界を受け取り直している。空気や光、人の気配、店先、木陰、ベンチ、路地、声や匂い。そうしたものと、自分との境界が少しだけやわらいでいく。

目的から解放される時間

私たちの毎日は、ほぼ目的でできている。駅へ向かう。会議へ向かう。返信する。納品する。購入する。確認する。都市の多くの空間も、そうした目的を効率よく処理するためにつくられてきた。

けれど、人間は目的だけで生きているわけではない。目的だけで一日が埋め尽くされると、人は少しずつ機械に近づいていく。やるべきことを処理して、次の場所へ移動し、成果を出す。その状態が続くと、自分が世界の中にいるという感覚が薄れ、まちもいつの間にか背景になってしまう。

「漂う時間」は、その逆にある。何かをしようとも、得ようともしていない。けれど、ただ無目的にぼんやりしているだけでもない。歩き、立ち止まり、見て、感じている。自分の内側に閉じこもるのではなく、外側の世界に少しずつ開いていく。

それはリラックスとも違う。リラックスには、「休む」という目的がある。癒されたい、疲れを取りたいという意図がある。けれど、漂う時間には、そうした目的すら薄い。ただ、その場にいる。木漏れ日の変化に気づく。店先で揺れる植物に目が止まる。知らない人の会話がわずかに聞こえる。自分には直接関係ない世界が、確かにそこに流れていることを感じる。

「自分には直接関係ない世界がある」という感覚は、実はとても大切なようだ。家や仕事の中にいると、自分の問題が世界のすべてのように感じられることがある。でもまちに出て漂うと、自分の外側にも時間が流れていることを身体で思い出す。誰かが歩き、笑い、風が吹いていて、いろんなお店が開いている。世界は自分と関係なく動いている。でも、自分もその世界の中にいる。ひとつのピースとして。

「漂う」とは、目的から解放されて、その世界の中に自分をそっと戻していくことなのかもしれない。

探索ではなく、受け取ること

人間は、いつから漂ってきたのだろう。狩猟採集の時代、人類は食べ物を探し、水を探し、安全な場所を探して移動していた。そこには探索行動があった。探索はどの動物にもある。獲物を追い、敵から逃げ、縄張りを確認する。動くこと、探ることは、生き延びるための基本的な行動である。

でも、ここで考えたい「漂う」は、その方向が逆だ。

探索は、何かを得るために世界へ手を伸ばす、能動の行為である。それに対して「漂う」ことは、世界のほうから届くものを受け取る、受動の時間とも言える。得ようとしないからこそ、拾えるものがある。

まちの漂いは、「なんとなく」なのだ。なんとなく歩き、立ち止まり、その場にいる。けれど、その「なんとなく」の中で、自分と他者、自分とまち、自分と空気との輪郭が少しほどけていく。自分だけが切り離された存在ではなく、同じ空気、同じ地面、同じ光の中にいる。安心とも快適とも違う、すべてがニュートラルな状態。自分も、他人も、まちも、空気も、地球も、どこかでゆるやかにつながっているような感覚が、無意識のレベルで心地よい。

漂っているとき、人間はひらかれた感受体になっている。ただし、獲物を探すセンサーではない。光や匂いを拾い、人の気配を読み、面白そうか、居心地がいいかを、五感でただ感じている。何かを狙って探るのではなく、ひらいて待っている。

それは生き物としての感性だ。猫が路地で気配を読み、鳥が枝や風に反応するように、人間も本来、世界に反応しながら存在していた。移動しない草花や樹木でさえ、光に向かい、水を吸い、季節の中で変化している。ある意味では、彼らもまた、その場所に漂っている。

そう考えると、人間だけが特別に漂うのではない。生き物は本来的に世界の中に漂い続けてきた。人間は脳を持ち、言葉を持ち、目的を持ったことで、その漂いから切り離されやすくなった。だからこそ、まちの中で漂う時間が必要になる。それは新しい行為ではなく、失われかけた生物としてのベースを取り戻す行為なのだ。

漂える「まち」、漂えない「まち」

都市が生まれてからも、人はずっと漂ってきたのだろうか。市場へ、水場へ、門前へ行く。人を待ち、路地で人に会う。店先で立ち話をする。用事と用事のあいだに、人はきっと立ち止まり、眺め、聞き、出会い、待っていた。

都市は、単なる機能の集合ではない。人間の目的が重なり合う場所であると同時に、目的からこぼれ落ちた時間が積もる場所でもある。よいまちには、この「こぼれ落ちた時間」を受け止める余地がある。急がなくてもいい。買わなくてもいられる。誰かと話さなくても、誰かの気配を感じられる。自分が何者であるかに関わらず、ただそこにいられる。そういう場所が、そこかしこにある。

一方で、現代の都市は、しばしば漂う時間を失わせる。移動は速くなり、空間は用途ごとに分けられ、滞在は消費と結びつき、店先の余白はルールに回収されていく。便利で、安全で、効率的ではあるけども、なんとなくいられる場所は減っていく。人は多いのに世界とつながっている感じがせず、便利なのに居場所がない。都市が人間を受け止めるのではなく、人間を目的ごとに処理していくようになる。

だからこそ、漂うことを取り戻す必要がある。これを懐古だと言うひとはいるだろうか。いや、これは昔のまちに戻ろうという話でもない。現代の都市の中に、人間が生き物として世界と接続できる条件を、これからどうつくるかという話なのだ。

ここで、「生物的インフラ」という言葉を思いついた。

まちの1階、建物と道路のあいだのエッジゾーン、軒先、ベンチ、木陰、縁側、にじみ出し。これらは単なる都市の設備ではなく、にぎわいをつくる装置でも、滞在時間を伸ばすマーケティング手法でもない。むしろ、目的に回収されきらない時間を許すためにある。人が何者かにならなくても、何かを達成しなくても、ただまちの中に存在できる状態を支えるためにある。

グランドレベルがデザインしてきたものは、「にぎわいをつくる」こととは、意図的に距離を置いてきた。私たちは、人間がまちの中で生き物に戻れる条件をつくってきたということができる。1階とは、建物の下階のことではなく、人間が地面の上で、他者と、世界と、もう一度出会うための器なのだ。私たちはずっと、その漂うための器を、デザインしてきたのだ。

まちづくりは、漂える条件をつくれるか

漂うことは、何もしないことではない。何かを生産していないように見える時間の中で、人は世界からたくさんのものを受け取っている。光の変化、場所の空気、人々の表情、関係性の気配。そうしたものは、目的を持っているときには、ほぼ見えなくなる。

漂っているとき、人は自分でも気づかないうちに、まちを読んでいる。ここは居心地がいい。ここは緊張する。ここには誰かの手入れがある。ここにはまだ余白がある。そうした感覚は、数値にはしにくいが、まちをつくるうえで極めて重要な知性である。

人間の生産性というものも、本来はそこから生まれるのではないか。ずっと目的に縛られている人は、短期的にはよく動けるかもしれない。けれど、発想は硬くなり、感じる力は鈍り、人への想像力は減っていく。一方で、漂える人は、世界から多くを受け取れる。受け取れる人は、よい問いを立てられる。よい問いを立てられる人は、よい場所を、社会をつくることができる。つまり、漂うことは、生産性や創造性と対立しない。むしろ、それらの根っこにある。

だから、これからの「まち」や「施設」をつくる人には、「どう人が、目的から解放されていられるか」。「どのように人が、もう一度、生き物としてそこに存在できるか」をじっくりと考えてほしい。そのためのデザインには、どのような可能性があるのかを考えてほしい。

「漂うこと」を取り戻すこと。それは、まちを取り戻すことでもあり、人間を取り戻すこと。「まちに漂う時間」は、未来の都市に残された、最も根源的な豊かさなのだ。

グランドレベルは、これからも漂える「まち」をつくっていく。

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大西正紀/建築設計・まちづくり 多くの人に少しでもアクティブに生きるきっかけを与えることができればと続けています。サポートのお気持ちをいただけたら大変嬉しいです。いただいた分は、国内外のさまざまなまちを訪ねる経費に。そこでの体験を記事にしていく。そんな循環をここでみなさんと一緒に実現したいと思います!