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扁平足


「足の外側に力が集中する癖がありますね」

昨年から続けているピラティスのインストラクターに何気なく言われた一言で、幼少期の思い出が蘇ってきた。

その通り。僕は扁平足。
立っている時、走っている時、足を使うときは、外側に力がいく。
母指球と小指球を同じ力でバランスよくというのが理想だ。


小学校でサッカーを始めて、最初は全然面白くなかったサッカーがだんだん上達と共に面白くなって、中学校でもサッカーを続け、自分のポジションが確立しかけてきた時だった。

サイドバックというポジションを任され、走れることが前提のこのポジションに自分がピッチに立っている意味を見出せたタイミングだったと思う。

痛い。足の裏がとても痛いのだ。
たくさん走った時ほど、とても痛い。

病院に行き、言われたのは、扁平足で、土踏まずが全然ないから、足に負担がかかりやすく、疲れやすいんだよって。

だから、当時は扁平足だということにアドバンテージを抱いていた。
なんでこのタイミングで?なんで俺が? 

しかも無意識にそうなってるのだから、また大変だった。


そんな思い出を、インストラクターさんの言葉と共に思い返す。

「ああ、僕昔から扁平足なんです。だから無意識に足の外側に力がかかるんですよね」


「なるほど。もしかしたら足の外側に力がかかりやすいから扁平足になってしまったのかもしれませんね。でも大丈夫です。意識すれば治りますよ!」

扁平足だから足の外側に力がかかりやすいからではなく、足の外側に力がかかりやすいから扁平足になった可能性もあるのか。

ご覧になっている方には分かりにくいかもしれないが、この気づきは僕にとってかなり大きな気づきでございまして。 

因果関係が真逆だったということになるわけじゃないですかこれって。

そんな幼少期の思い出に耽っていると、サッカーを通して抱いていた勝敗をつける違和感について言語化したくなってきたんです。

サッカーに限らず、勝者と敗者がいることに昔から違和感があって。

大人になった今でも、誰かに勝ったとか、優れているとか、そういう類の話にどうも違和感を感じてしまうというか。
そこだけで判断されることにどうしても納得がいかないというか。

good winnerよりも、good loserに目がいってしまうんですよね。

生きていれば、比較されるし、誰かの決めたルールの中で戦っていかなきゃいけないですし、それ自体を否定するつもりはもちろんなくて。

でも、それが全てじゃないとも思うんです。


それまで生き抜いてきたプロセスは、結果だけを見た人は分からないですし、果たして一番になった人は一番頑張ったプロセスだったのかと言われると、そうじゃないと思うんですよね。


そういった誰かと戦うことが好きで、常に一番になりたい人はそうすればいいと思います。そこには何の否定もない。

でも、何かと競ったり、比較されたりするたびに、心がなんだかごっちゃになるというか、渋滞してしまうんですよね。

それでも生きている以上何かしらのOSの中で生きていかなきゃいけない。

自分がそう思えば思うほど、息苦しくて、時として偶然勝ってしまう時もあって、ただ継続して勝ち続けるのは難しくて。

結果自分はそんなに強くないんだ。
自信がないから弱いんだと片付けてしまう時もあったんですよね。

扁平足だった自分の因果関係を問いただした時に浮かんだのは、

俺はみんなと違う土俵にいるんだと思えば良いんだって捉えられたんです。
同じ世界に無理して生きようと思ってるから、しんどいんだって思ったんですよね。

こういうと自分は特別だって聞こえるかもしれないけど、そうじゃなくて、自分がどう在れば良いのか?だけを問えばいいんだってことなんですよね。

比較する人達より偉いとか、上から見下ろしているとか、少し距離を置いて見てるとか、上下の話じゃなくて。

あくまでも座標軸の話なんだと。
自分に自信がないわけじゃなかったんだと。

自分がしっくりくる座標軸を、生きている中で探り当てていくイメージです。

自分がどうありたいかを常に問えれば、誰かに期待したり、執着することもありません。
見返りを求めることもないでしょう。


自分は自分の人生を進む。進んでいく中で、隣に寄り添えたり、並走できる人が見つかればそれで良いんだと思うんです。

距離感が近い人ほど、自分が行ってきたことを評価して欲しくなったり、見返りが欲しくなるもんです。
それは人間であれば誰でも持っている感覚だと思います。

僕だってもちろん自分がこだわっているもの、心血注いできたものを競うような環境や言い方をされたら、そう感じると思います。 

ただ、その誘いには乗らない。
自分の心の内側で留めておく。
そして
答えを外に求めない。

今はそう生きていたいと思います。

昔から音楽だったり、アートだったり、最近だったら哲学だったり、一番を決めないものが好きなのはきっと僕の座標軸がそうだからなんだと思います。

自分がいいと思えれば、それでいい。誰がなんと言おうと、社会がなんと言おうと、自分の好きを大切にしたい。

わがままになるってことじゃなくて、合わせるってことでもなくて。

生きてんな俺って感覚を増やしていきたい。

40手前にして、大きな気づきを頂けた気がしています。

だから今は、扁平足で、土踏まずがあまりなくてのぺっとしたビジュアルの僕の足に感謝しています。

みなさんはどうありたいですか?
みなさんの生き方って誰が決めていますか?
社会でも誰かじゃなくて、決めるのは自分自身でいいんだと思います。
どんなに辛くたって悲しくたって孤独だって、そう思えるなら幸せに近づいている合図だと思います。


風の時代、そんな社会になっていったらいいですね。

いつもありがとうございます。

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