【E1】名神高速道路 ― 日本初の高速が切り拓いた時代
シリーズ:高速道路で読む日本史 第4回 E1 名神高速道路

「高速道路」という言葉が、まだ一般の暮らしに広く浸透していなかった昭和30年代。戦後復興の流れの中で、都市間を結び、物流を支え、地域を活性化する“もう一本の大動脈”が求められていました。名神高速道路は、まさにその役割を担うために生まれた道です。
■ 第1章 戦後の日本、高速道路という挑戦
戦後、経済復興・産業振興・大量輸送時代の到来という背景がありました。都市部・工業地帯・港湾をつなぐネットワークが必要になったのです。そこで構想されたのが、東京-名古屋-大阪を高速で結ぶ幹線。
名神高速道路(以降、名神)は、1950年代後半からの道路整備五か年計画の一環として、国・民間の協力で整備が進み、1963年7月に栗東(滋賀県)―尼崎(兵庫県)間で暫定開通(国内初の開通区間)、1965年に全線開通を迎えました。
この時代は「高速道路を整備する」という制度的・技術的・資金的ハードルを、一つずつ越えていった時期でもあります。構造物設計、用地買収、施工管理、料金制度など、“日本初”の経験が次々と積み重なりました。
【💡補足情報💡】膨大な建設費用の調達
・当時の日本政府は世界銀行に費用を借り入れた(長期間・低金利)
・世界銀行が名神の実現可能性調査の為「ワトキンス調査団」を日本へ派遣
・調査の結果「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。」と痛烈な批判をしたが、採算性があると判断し、借款(建設資金の貸し付け)した

■ 第2章 ルートと地形の選定、そして用地買収の壁
名神は中央道と同様、かつての五街道である中山道(なかせんどう)に概ね沿う形で整備されています。
名神のルートは、当初から阪神・京阪神地域と中京圏、そして東京方面を視野に、“東名高速とは異なるもう一本の軸”として構想されました。ルート選定では、地形・土地所有・周辺都市との調整など多くの検討がなされました。
そのルート設計として、先ほどの「世界銀行」が派遣した設計コンサルタントである「ドルシュ(ドイツ)」氏の教えが大きな影響を与えました。
欧州のアウトバーンの設計技師も務めたドルシュ氏は、高速道路の線形設計において、周囲の地形に調和するようにクロソイド曲線(人間が無理なくハンドルを切れる様なカーブ)を採用したり、それまで設計済みであったインターチェンジ計画を大規模な様式にするなど、それまで高速道路設計の経験が無かった日本の手法を大きく変えさせました。

大阪‐名古屋‐東京を結ぶネットワークの中で、名神は大阪~名古屋間が中心軸です。平坦な区間も多かったものの、それゆえに都市近郊における用地取得、既存道路・鉄道との交差、高速交通専用設計という点で苦労がありました。
例えば、甲賀・湖南地域、湖東平野などでは農地転用・集落回避・環境景観配慮といったテーマが持ち上がりました。
また、関西大学の千里山キャンパスにおいては、当初の開通ルートが敷地内を横断する計画となっており、日本道路公団(現NEXCO)と大学は激しく対立しました。結果、一部をトンネル(片側開き構造)とすることで合意し、施工に至っています。

さらには、暫定2車線・将来4車線化を見据えた基盤設計がなされ、段階的な拡張が前提となっていました。設計時には「交通量予測」「成長予測」「構造物の将来耐用設計」といった考え方が初めて本格的に取り入れられました。
【💡補足情報💡】『魔のカーブ』で供用後に線形変更
・名神はトンネルを極力さけ、山間部では山の等高線に沿った線形を採用
・岐阜県関ケ原町にある「今須カーブ」ではR=280mと、高速道路では異例の急カーブであり、夜間に走ると目の前に壁が出現したように感じられていた(しかも大阪方面へは下り勾配)
・事故多発により、共用から14年後に「今須トンネル」へ本線を振替えた

■ 第3章 構造物・施工の挑戦
名神では、比較的“難工区”が少ないと言われていても、当時としては先駆的な施工が数多くありました。
【トンネル・高架橋】
都市近郊の区間では道路幅員の確保・交差構造・騒音対策などが課題となりました。高架橋・ランプ構造・インターチェンジ付近の施工では、夜間施工・交通切替・仮設構台設置など、効率と安全を両立させる技術が試されました。
トンネルの施工では、従来は木製(松丸太)の支保工が用いられていましたが、地質が悪く大きな地圧が作用する梶原トンネル・天王山トンネルでは、日本で初めて『H形鋼の支保』が導入されたことにより、大型機械が導入可能となり、安全性と効率性が大幅に向上しました。

【橋梁技術】
湖東平野を貫く部分や琵琶湖近くの橋梁では、「長スパン橋梁」「アーチ構造」「プレストレストコンクリート橋梁」といった新技術の導入が進みました。また、都市化の進展予測を勘案して、拡張時の支障・維持管理性を見据えた設計もなされました。
【舗装・土工】
当時、舗装はコンクリート舗装が一般的でしたが、コンクリート舗装とアスファルト舗装とで、経済性・耐久性・快適性などを比較検討を行い、名神ではアスファルト舗装が導入されることになりました。
土工では本格的に機械化施工を導入し、施工規定に加えて初めて『性能規定』も定めました。また、盛土の横断勾配は試行錯誤を経て、機械による転圧が可能な1:1.8とし、現在でも標準の横断勾配となっています。
【💡補足情報💡】工事における『性能規定』とは
・「最終的に〇〇という安全・品質レベルを達成しなさい」というゴールだけが決められている
・そのゴールを達成するための具体的な材料や施工方法(作り方)は、施工者の創意工夫や技術革新に任される
→新しい材料や技術、効率的な施工方法の導入が容易になり、設計や施工の自由度が上がり、コストダウンの可能性も高まる
【工事管理と施工体制】
当時、高速道路用地・構造物・舗装の施工経験は限られており、施工会社・設計会社・発注者(国・高速道路公団)間で「高速道路の工事とは何か?」を定義する段階でした。施工管理者が「交通規制」「夜間施工」「資材物流」「施工リスク対応(工期・地盤・天候)」に奔走した記録が残っています。先人の苦労と経験が、現在の高速道路建設に活かされています。
【安全・維持管理設計】
高速道路という、一般道路とは別次元の“高速・連続交通”を扱う構造である以上、当初から「安全性」「耐久性」「夜間視認性」「非常時対応」の視点が設計に組み込まれました。例えば、路肩の構造・排水設計・事故時の交通切替スペースなどが、高速道路という枠組みで新設されました。
■ 第4章 地域・経済・物流を動かす道
名神は「通行できる道」を超え、「地域を変える道」でした。大阪・名古屋・関西・中京圏を結ぶ事により、物流拠点・流通センター・工場立地が活発に進みました。企業は「名神沿線アクセス良好」の立地を戦略に組み入れ、そういった集積が産業構造を変えていったのです。
また、観光面でも恩恵を与えました。湖東・湖北・伊吹山周辺、そして京都・奈良・滋賀を結ぶ高速ネットワークによって、クルマによる移動が飛躍的に拡大。郊外観光・ドライブ文化の拡大という側面も持ちました。
これまで名古屋~阪神地域間の移動に自動車で5~6時間を要していましたが、開通後は2時間程で結ばれることになり、名古屋~京阪神間の自動車での日帰り移動を可能にしました。
さらには、災害時・物流分断時の“バックアップルート”としての役割も想定されており、インフラレジリエンスの観点からも名神の意義は大きかったと言えます。
【💡補足情報💡】開通当初の珍百景
・開通当初は高速道路自体が珍しく観光名所となっていたため、本線の路肩で弁当を食べ、疾走する自動車を眺めたり、記念撮影したりする姿が見られた
・一方で、当時の自動車の性能が高速連続走行に耐えられなかったことや、ドライバーが高速走行に不慣れだったため、オーバーヒートやガス欠で立ち往生する自動車が続出した
・最初の10日間だけでオーバーヒートをはじめとする不具合で実に573件もの故障車が出た(故障のたびに沿道の自動車整備工場から作業員が本線に登り、修理対応していた)
→これを契機に、自動車メーカーによるタイヤや車の性能強化が加速していった

■ 第5章 新名神との比較
新名神高速道路(新名神)は、名神とは異なり、四日市JCTから草津JCTまでを東海道ルートに沿って結んでいます。2008年には亀山JCT〜草津田上ICが開通し、豊田JCTから草津JCTへ向かう場合、伊勢湾岸道・東名阪道・新名神を経由すると、従来の東名・名神ルートより約34km・20分短く移動できるようになりました。

名神では、特に関ヶ原IC付近の勾配区間や冬季の降雪が原因で渋滞や事故が多発していました。また、八日市IC〜大垣IC間も雪が強く、たびたび通行止めやチェーン規制が発生していたため、豊田以東〜草津以西を移動する車の多くが新名神へ移行しました。東京・名古屋〜京阪神の高速バスも新名神を使う動きが広がりました。
その結果、名神では一宮ICや米原JCT付近の渋滞が減少しましたが、一方で東名阪道の四日市IC〜亀山JCTでは渋滞が悪化しました。これについては、2019年の新四日市JCT〜亀山西JCT開通により改善しています。
現在は、大津JCT〜城陽JCT、八幡京田辺JCT〜高槻JCTなど、未開通区間の工事が進められており、新名神全線の完成が期待されています。

■ 第6章 数値で見る「名神高速道路」

■ エピローグ その先へ ― 未来を見据えた高速網
名神が完成したことで、高速道路整備の第1章は終わり、第2章へ向かう幕開けとなりました。都市間ネットワークの整備ができたことで、次には「都市内部の高速化」「地方部の高速化」「環境・安全性能の高度化」が求められるようになりました。名神や中央道、東名は日本の背骨(東西につなぐ道)であり、そこから肋骨にあたる道路(南北につなぐ道路)の建設へと続いていきます。
また、老朽化が進む構造物・交通量増大による混雑・災害対応力強化など、名神もまた「時代の更新」を迫られています。4車線化・6車線化、連続立体交差化、サービスエリア・パーキングエリアのリニューアルといった維持管理・更新設計も、現代の課題です。
ハンドルを握るたびに思います。
この道の下には、未知との挑戦・技術者たちの汗・時代の期待が刻まれていると。
「高速道路は単なる移動手段ではない。
それは、人と地域をつなぎ、未来を拓く道だ。」
名神高速道路──都市の再生と産業の発展を支えた、まさに時代を切り拓いた“日本初の高速”でした。そして今、その遺産を次世代へとつなぐ、新たな挑戦が始まっています。

■ 次回予告
次回は、**『新名神高速道路 ─ 日本の物流を刷新する次世代の大動脈』**です。渋滞の常連だった名神のバイパスとして計画され、最新の土木技術を結集してつくられた新名神。
巨大な橋梁群、厳しい地形に挑んだトンネル、そして安全性と走行快適性を極限まで高めた構造――。
なぜ新名神は「高速道路の完成形」と呼ばれるのか。
その開通が、関西・中京・首都圏の物流をどう変えたのか。
次回は、建設の背景から技術的な特徴まで、
新名神の“凄さ”を深掘りしてお届けします。どうぞお楽しみに。
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