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自分で決める

「お願い、先生・・・」

 皺だらけのか細い手を伸ばして、初子さんは、点滴を取ろうとする私の手を制した。だが、手に力が入らず、またよろよろとその両手がベッドの上に戻る。私は慌てて彼女の手を握った。強く。

 初子さんと初めて会った時の衝撃を私は今でも忘れることができない。ごった返す健診センターで、一人異質な空気を身に纏っていた。下着を脱いだそばから鮮血が床に滴り落ち、彼女の足元にみるみる血溜まりができていく。
 「半年ほど前から出血が酷くて、もう止まらなくて」
 青白く、怯えた声でそう繰り返す。何か異常なことが起こっていることは一目瞭然だった。

 そのまま救急車を要請し、私は初子さんを大学病院へ連れて帰った。かなり進行した子宮頸がん。子宮頸部は血液を垂れ流すいやらしい腫瘍で置き換わり、骨盤の壁まで隙間なく食い込んでいる。随分前から体調が悪かったはずだが、我慢強いことが裏目に出た格好だ。骨盤の底を這うように広がるその悪魔は、着実に初子さんを追い詰めていた。
 
 「身寄りはいないの」

 確か息子がいたはずだが、頑として初子さんは連絡を取ろうとしなかった。もう20年ほど顔を見ていないと言う。5年ほど前に夫をやはりがんで亡くしてから初子さんは、夫婦で建てた山の中腹にある家でひっそりと一人暮らしをしていた。
 「あの家を建ててから、不幸が続いて・・。でも、他に行くあてもないし」
 ひとりぼっちの、自給自足に近い生活はまるで永遠に続くかと思われた。だが、楽園はいずれ必ず終わりを迎える。犬がいるので帰りたい、と初子さんは言い張ったが自力で尿が出ない人を帰せない。がんは大きく膀胱と尿管を噛み、初子さんから「排泄」を奪っていたのだ。

 程なく治療が始まり、病勢はやや落ち着いたかに見えた。溢れるほど出ていた血が止まり、腎臓から直接尿を出す腎瘻が寝返りを制限しているものの、自力で売店まで歩いていける程度の自由は取り戻した。同室の患者と声をあげて笑い合うこともあった。
 だが、それも長くは続かなかった。
 治療虚しく、短期間でがんは肺まで飛び、無数に散らばっていった。止まっていた不正出血が再開し、日毎に勢いを増した。

 「・・・この咳は、がんのせいなのね」
 たった一人で受けた病状説明で、初子さんは気丈に振る舞った。頑固な咳が続く。彼女を昼夜問わず苦しめる咳が、がんの転移のせいだとはっきり言えずに私は黙り込む。元々痩せて小柄だった初子さんが、咳き込んでいるとさらに小さく見えた。テーブルとパイプ椅子しかないカンファレンスルームのエアコンが、無遠慮に規則正しく大きな音を立てる。
 咳が少し落ち着くと初子さんは顔を上げ、私の顔をまっすぐ見据えた。

 「犬がいるの。お友達が見てくれているんだけど・・・。先生、私、あの子に会いたい」

 亡き夫が山で拾ってきたという犬は、小さな雑種だ。
 病状が帰宅を許さない初子さんのために、車椅子を押し、病院の外へ出た。照りつける日の光の向こうで、初子さんの知人の手を振り解いた茶色い犬は、初子さん目掛けて一目散に駆け寄ると、無我夢中で初子さんを舐めまわした。まるで泣いているようだった。
 「先生、ありがとう。少し、お友達と話してもいい?」
 初子さんは笑い泣きしながらそう言った。後から後から流れる綺麗な液体を、老犬がひたすら舐め取っている。尻尾はちぎれそうなくらい、忙しなく振り続けられていた。
 
 二人だけで話したいという希望を入れて、私はその場を少しだけ離れた。気になって振り返ると、友達だと名乗ったその女性と、初子さんが顔を寄せるように話をしている。強い夏の日差しが、二人に伸びる影を濃く染めていた。だから初子さんの表情は、その時の私には目を凝らしてもよく見えなかった。

 病室に戻った初子さんは、少し上気した顔で、私の提案した放射線治療を受けない、と言った。

 「先生、私ね、もう何も心残りがなくなったの」 「お願い。自分のことは、自分で決めさせて」
 「・・・このままだと出血の量がもっと増えますよ」
 初子さんは深呼吸をした後、意を決したように私を見上げ、先生、私、もう何もしないと決めましたと言った。 
 「先生、ありがとう。もう十分よ」
 こほ、と小さく咳をする。
「放射線治療も、点滴も輸血も、それから食事も。一切、要りません」
 
 初子さんはその宣言通り、すべての医療行為を拒否し、同時に何も口に入れなくなった。

 話を聞いて、病棟は色めき立った。
「大学病院は治療をするところです!」
 温厚な師長が珍しく声を荒げた。
「治療を続けない患者さんは、退院していただかないと!」
 病棟医長が宥めるように、転院先を調整するから、と言ったが、師長は怯まなかった。
 「患者さんのそばでずっと見守っているのは看護師なんです!治療の必要な患者さんを、何もせずに見ておけという指示には従えません」
 のっぽの病棟医長は眉を顰めて腕組みをした。
 「そうは言ってもご本人が嫌だと言うもの、無理強いはできない。それがご本人の望みなら」

 死ぬと決めた初子さんの転院調整は難航した。

 自殺と自決の境界は曖昧で、医者はそのどちらにも手を貸すことはできない。現行の法律上、治療の必要な患者に適切な医療を施さないのは、それがいくら患者の強い希望であっても、推奨されるものではなかった。最悪の場合、安楽死を認めていない日本の法律では、法律に抵触する可能性が出てくる。 
 どこの施設も、難しい案件に受け入れを渋った。

 「先生、点滴してきてよ。患者を見殺しにしないで」
 師長に懇願され、私は点滴セットを手に取った。まだできることが残っているなら、それをすべきだと理性は叫んでいる。初子さんは時々看護師の熱意に負けて、少量の水は口に含んでいたが、それもトータルでは微々たるものだ。申し訳程度の水だけでは、人間は2週間も保てばいい方だ。小柄で、しかも体力の衰えた初子さんでは、ひとたまりもないことは分かりきっていた。

 幼い日、悲しみで死んだ犬がいた。
(犬は悲しみで死ねるんですよ)
(エスがそう決めたのだから、私たちができることは、何もありません)
 エスもあの時、何をも容れない強い目をしてはいなかったか。
 
 私は静かに初子さんの病室のドアを開けた。
 強い光が部屋中に溢れている。白いカーテンがエアコンの風に揺れて、不気味なほど静かだった。
 かた、とベッドサイドのテーブルに点滴セットを置く。
 初子さんがゆっくり目を開けた。私の顔と点滴セットを目で追い、それから。

 「お願い、先生・・・」

 皺だらけのか細い手を伸ばして、初子さんは、点滴を取ろうとする私の手を制した。だが、手に力が入らず、またよろよろとその両手がベッドの上に戻る。私は慌てて彼女の手を握った。強く。
 私の手の中で、かさ、と乾ききった音がして、どうしても初子さんに点滴を取ることができなかった。代わりに、反応のない冷たい手をただ、握りしめた。
(エスがそう決めたのだから、私たちができることは、何もありません)
 静かに首を横に振った獣医は、どんな顔をしていただろう。

 数日後、初子さんは静かに逝った。

 静寂の中、空を見つめたままの目をそっと手で押さえ、閉じる。初子さんの唇の上にぽつんと乗った液体は、どうやら私の目から滑り落ちたもののようだった。
 
 私たちの不安や恐怖をそこに置き去りにしたまま、初子さんは自分で自分のことを決め、一度も振り返らずこの世を後にした。彼女を引き留めるものは、もう何もなかった。
 ひっそりとした霊安室で、焼香しながら師長は独り言のように「今は、死ぬのが、とっても難しい」と言った。私は返す言葉が見つからず、黙って頭を下げた。

 死なせない医療は、きっとますます発展していく。やがて「永遠に生きる」ことさえ、人は手にすることができるかもしれない。だが、それは傲慢にも、たったひとつの潔い決断にすら寄り添うことはないのだ。今までも。そして、これからも。

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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