名もなき花(風と共に去りぬ)
田舎荘子下巻① 荘衛門が伝
第一章 無用の用
荘右衛門という男がいた。
ふるまいは奔放で落ち着きはないが、
人に害を与えることはなく、
頭が悪く、役に立つような才能もない。
思ったことをそのまま言い、
隠しごとがない。
本を読むことを好むが、
内容は覚えることができず、
怠惰で、昼間でも眠ってばかりいる。
俗世の人々と共にいる時は、
彼らの戯れに加わり楽しむが、
用が済めば、執着なく風のように去り、
いつも世俗を離れ、
樗山の麓の泥水のほとりで遊んでいる。
※樗山(ちょざん/役に立たない木が茂る山)
世間の目には、役立たずの無用者に写るが、
荘右衛門はその暮らしをたいそう気にいっている。
名を尋ねられると、
自分は唐の国の荘子の末裔で、
代々のうちに日本に渡り、
田や野原を飄々と生きることになったので、
自らを田原荘右衛門と名乗っている。
友人の儒者がいつも心配そうに、
荘右衛門を尋ねてくるのだが、
ある日、その友が荘右衛門に言った。
お主を見ると、
何者と名づけてよいのか分からぬ。
口では聖人荘子の道を信じているように申すが、
ふるまいは気ままな隠者そのもの、
悪事を働くわけでもないが、
世に誇れるような善き行いもしておらぬ。
何も考えず、ぼんやり暮らし、
日々ただ食って寝て生きているだけだ。
儒家でもなく、仏家でもなく、
好き勝手で、情にも薄く、やる気もない。
世間でいう、無用者という類だろう。
たまたま筆を取れば、
妄想の戯れ言を書き散らすが、
何一つとして、価値のあるものがない。
世の中を欺いたり、
人を惑わせたりする事はないが、
お主の言葉は、無用の戯言である。
しかし、お主は幸いにも書を読む。
今より心を改めて、儒家の教えに従い、
朱子学をきちんと学び、礼儀や身なりを正し、
立身出世に努め励んで、
人々から名を知られるような
立派な人物を目指しなさい!
と、高き枝からもの申すように言ってきた。
すると荘右衛門は、
その声に目を覚まし、寝惚けまなこのまま、
昼寝の背もたれにしていた大木から
起き上がろうとした。
しかし、あやまって手をつき損ね、
ごろりと転げ落ちてしまう。
それでも慌てるふうもなく、
のっそりと身を起こすと、
眠たげに目をこすりながら、
大きな欠伸をひとつして言った。
いやはや、ずいぶんと有難いお説教だ。
おかげで良い夢から覚めてしまったよ。
たった今、私は夢の中で蝶になって
野原を楽しく飛び回っていたところなのだがね。
そう言うと、荘右衛門は、
ぼりぼりと尻を掻きながら、
先ほどまで昼寝していた大木の幹を、
愛おしげにぽんぽんと叩いた。
友よ、お主は私を無用な人間だと言う。
たしかにその通りだ。
しかし、見給え、この大木を。
幹は瘤(こぶ)だらけで、枝はねじ曲がり、
どんな腕利きの大工も見向きもしない、
材木としては何の役にも立たぬ、
まことに『無用』の木だ。
ゆえに、斧で切り倒されることもなく、
こうして我らに心地よい
日陰を与えてくれているではないか。
無用に見えるものにも、
無用なるがゆえの用がある。
飾らず競わず、ただそこに在るだけで、
人を癒し、憩わせることもあるのだ。
世にいう役立つ事ばかりが、
用のすべてではあるまい。
無用なるがゆえに傷つけられず、
静かに天寿をまっとうする。
それもまた、
ひとつの『無用の用』ではないか。
儒者は呆れたように、深くため息をついた。
それは詭弁というものだ。
木ならばそれでよかろうが、人は違う。
無用の木は、
せいぜい木陰を与えるほどのもの。
だが人は、世の中に立って人の役に立ち、
道を修め、家を支え、国に尽くしてこそ、
はじめて生きる意味があるのだ。
何の務めも果たさず、
ただ無用であることに安住しておるだけでは、
それは生をまっとうしているのではない。
怠けて世から逃げているだけの、
ただの世捨て人ではないか。
お主は己の怠惰を
『無用の用』などという屁理屈でごまかし、
人として修めるべき尊い道を放棄して、
自暴自棄になっているだけではないか。
せめて今からでも心を改め、
儒家の教えをよく学び、己の身を正すがよい!
と、厳しい口調で咎め立てた。
第二章 曳尾於塗(えいびおと)
荘右衛門が答える。
儒家の教えが尊いことぐらい、
知らないわけではないし、
私は人の道を踏み外して、
自暴自棄になってるわけではない。
また、荘子の自由すぎる生き方や、
大らかすぎる態度が、
儒家より優れてると思っているわけでもない。
ただ、人にはそれぞれの天分がある。
力の強い者もいれば、弱い者もいる。
頭の良い者もいれば、悪い者もいる。
私は頭も悪く、しかも病がちの、
器の小さな人間にすぎぬ。
大きな徳も、立派な礼儀も、
とても身につけられぬのだ。
礼儀や才能も徳も兼ね備えた、
あの孔子のようには、
とてもなれないことを知っている。
それを、無理に飾ろうものなら、
私は『道(タオ)』から外れるだろう。
立身出世をして名を上げよと、
お主は言うが、
老子もまた、こう申しておる。
『名の名とすべきは、常の名にあらず』とな。
世間で尊ばれる『名声』や、
人が勝手につけた『役立たず』などという名は、
たかだか人間の価値観で決めた仮の名にすぎん。
世の中は広い、
人間だけで生きておると思うでない。
本当の自分、本当の命の在り方は、
言葉で名づけられるような
浅いところにはないのだよ。
だから私は、
そんな人間どもの窮屈な価値観の網にかからず、
ただ天地のあいだにひっそりと咲く、
名もなき花のように生きていたいのだ。
そう言うと、荘右衛門はゆっくりと
すぐそばの泥水へと視線を落とした。
そこでは一匹の小さな亀が、
泥まみれになりながらのんびりと這い回っている。
彼はふっと柔らかい笑みをこぼし、
呆れ顔の友人を見上げて言った。
王宮の奥深くには、美しい絹に包まれ、
立派な箱に納められて祀られている
『死んだ亀の甲羅』があるという。
友よ・・その亀は、
殺されて骨となり、人々に尊ばれることと、
生きてこの泥水の中で、
仲間たちとともに這い回ることと、
はたして、どちらを望んでいたと思う?
儒者が怪訝な顔で
「それは・・生きて泥を這い回る方だろう・・」
と答えると、荘右衛門は柔らかく笑った。
その通りだ。
立身出世を果たし、
窮屈な箱に押し込められ、
死んだように祀り上げられるより、
私もこの足元の亀と同じように、
泥の中で尻尾を引きずりながら、
仲間たちと生きていたいのだよ。
私はただ、欲望に振り回されて、
自分の本性や生命のはたらきを
失いたくはないのだ。
儒者はなおも食い下がる。
・・たしかに、
窮屈な箱の中よりは良いかもしれぬ。
だが泥水の中のような生活は、
決して安全ではないだろう、
病に倒れ、飢えに苦しむこともある。
お主とて、
そうした苦難や死を恐れる心はあるだろう?
荘右衛門は、
泥水の岩場に出てきて、
陽の光を浴びる亀を見つめたまま、
静かに口を開いた。
人は皆、
禍を避け、福を求め、
生を愛し、死を恐れる。
しかし、そうした分別こそが、
心をかき乱す根本である。
禍や福を隔てることなく、
生と死さえ同じものと観じながら暮らしてゆく。
それが私の目指す境地であり、
私にかなう、私なりの安らぎなのである。
そんな私に、言葉や身なりを着飾り、
行いを整えて名を上げようとする
儒家の教えが、どれほどの意味を持つのだろうか。
儒家の道は、
きちんと着物を着て、
背筋を伸ばし、石畳を歩く道だ。
道家の道は、
裸足で草むらを踏み、風と共に走りまわる道だ。
立派なのはお主らかもしれぬが、
気持ちが良いのは、どうも我らのほうでな。
儒家は形にもとづき、心を閉じこめようとし、
道家は無形にして、心をひらいてゆく、
心は整えようとするほど固まり、濁ってゆく、
心は捨てるほどに広がり、澄みわたってゆく。
私はただ、
広く澄んだほうへ身をゆだねるだけだ・・
第三章 天籟・吾喪我(てんらい・われをそうす)
ふいに、ざわざわと大木の葉が揺れ、
心地よい風が二人のあいだを通り抜けた。
荘右衛門は静かに目を閉じ、
その風が吹き抜ける音に、
ゆっくりと耳を澄ませる。
友よ、聞こえるか、
大小の木々の隙間を吹き抜ける、この音が。
儒者がいぶかしげに周囲を見渡すと、
荘右衛門は微笑んで言葉を継いだ。
これこそが『天籟(てんらい)』
大自然が奏でる無心の音楽だ。
この風の音に耳を澄ませていると、
私は、私が誰であったかさえ忘れてしまう・・
『吾喪我(われ、われをそうす)』
木も、草も、花も、鳥も、風も、
みな天地の大きな息吹のうちにある。
その自然の演奏に身をゆだねていると、
私という小さな器は、しだいにほどけ、
風そのものになってゆく・・
木々を吹き抜けては、
葉のざわめきにまじり、
花の色香をふわりと包み込んでは、
香しくたゆたい、
鳥を乗せては、ともに大空へと舞い上がり、
果てなき青へと透き通ってゆく。
いつしか私は風景そのものになってゆくのだ。
見る者と見られる者との隔たりは消え去り、
ただ天地と一つの命になって融け合うのだよ・・
彼は静かに語り続ける。
天地のあいだの万物は、
それぞれの氣に応じて声を発する。
鳥が春になれば歌い、
虫が秋になれば吟ずるように、
私もまた、ただ感じたことを、
感じるままに語るまでだ。
そう言って荘右衛門は、
足元にひっそりと咲く、
名もなき野花へ視線を向けた。
花も言葉も、実は同じことなのだよ。
野に咲く花は、
美しく咲こうとして力むこともなければ、
誰かに褒められようとして香るわけでもない。
ただ陽の光を浴び、土の湿りを受け、
風に吹かれ、雨に濡れ、
天地のめぐりに身を任せているうちに、
時が来れば、ひとりでに開く。
私も同じだ。
世間の善悪や損得に縛られず、
心がふれたものにしたがって、言葉を放つ。
いや・・ほんとうは、
私が語っているのですらない。
私はただ、
この身と心を世界に明け渡している。
すると天地の氣が私を通り抜け、
言葉という花になって、
おのずから綻(ほころ)びてくるのだ。
私は何もしていない、誰のためでもなく、
ただ時が満ちて、言葉が溢れ出してくる。
それが、私にとっての
『咲く』ということなのだよ・・
世間の善悪や損得は、
もとより私の関わるところではない。
私はただ、風に揺れる花のように、
心がふれたものにしたがって、
言葉の花を咲かすだけだ。
その声が戯れに聞こえ、
笑われたとしてもかまわぬ。
もし、その戯れの底にひそむ、
ひとすじの花の香りを、
感じ取ってくれる者があれば、
それでもう、私の志は尽きている。
至人は己を忘れ、
神人は功を求めず、
聖人は名を追わない。
これが荘子の教えだ。
世俗の価値観に縛られず、
ただ自然と調和して生き、
天地の呼吸に合わせ、
心の響きを風へと溶かしてゆく。
あとは、風と共に去るだけさ・・
第四章 花無心(はなむしん)
儒者が、いぶかしげに口を開いた。
なるほど、お主は世間の価値から離れ、
自我を忘れた境地にいると言うのだな。
なら、なぜお主は時折筆をとり、
戯れ言とはいえ文章を書き残すのだ。
なぜ私とこうして言葉を交わす。
それもまた、何かを伝えよう、
何かを残そうとする、
捨てきれぬ我心(エゴ)の働きではないのか。
荘右衛門は、
泥水のほとりにひっそりと咲く、
一輪の小さな野花を指さした。
友よ、春が来て、あの花がひらいたのは、
いったい誰のためだと思う?
誰かに見せるためか、
それとも、美しいと褒め称えられるためか。
儒者が、
「いや・・ただ、
季節が来たから咲いただけだろう」
と答えると、荘右衛門は深くうなずいた。
そのとおりだ。
花は、咲こうとして咲いているのではない。
誰かに愛でられようとして、
色づいているのでもない。
ただ春の氣を受け、土のぬくもりに支えられ、
雨にうたれ、陽の光を浴び、時が来たから、
ひとりでに開いているだけだ。
蝶を招こうという心がなくとも、
花が無心に咲けば、蝶はおのずとやって来る、
『花無心にして蝶を招く』とは、そういうことよ。
花は、蝶を呼ぼうと企んで咲くのではない、
実を結ぼうと力むのでもない。
ただ天地のめぐりにしたがって、
無心にひらいている。
その結果として、香りに誘われ、
蝶が舞い降りるだけのことだ。
そこには、『自分をよく見せよう』とか、
『何かを得よう』とかいう我心のはからい、
つまり、自我(エゴ)の介入が一切ない。
だからこそ、その咲きようは、深く美しいのだ。
荘右衛門は、穏やかな声で続けた。
お主たち儒家は、つねに結果を求める。
立身出世を果たし、名を上げ、世を正し、
人の役に立つという果実をな。
だが、その結果への執着こそが、
自分はこうあるべきだという鎖となって、
心をしばり、生を濁らせるのだよ。
花の行いには、期待というものがない。
実を結ぼうが散ろうが構わず、
ただ今この時に咲ききるように、
私もまた、その折々に湧きあがる思いを、
言葉や文字にして遊んでいるにすぎぬ。
結果は、私の職分ではないのだ。
そして、ほんとうを言えば、
花が咲いているのですらない。
陽の光があり、土の湿りがあり、
風が吹き、雨が降る・・
そうした無数の縁が重なり合ったところに、
たまたま花が咲くという現象が生じているだけだ。
花に、咲こうとする意志があるわけではない。
ただ因が熟し、
時が満ちて、果が開いているのみよ。
人の言葉もまた、同じことだ。
私は何かを言おうとして、
言葉をこしらえているのではない。
花が咲くように、この身を通って、
たまたま言葉が溢れてくるだけだ。
飾り立てて人を動かそうとする言葉には、
かえって香りがない。
ただ心が空ろになり、天地の気が通ったとき、
言葉は花のように咲くのだ。
荘子も『言は風波なり』と言った。
世間の言葉は、自分をよく見せよう、
相手を言い負かそう、
説き伏せようという我執が乗るからこそ、
人のあいだに波風を立て、争いの嵐を招く。
だが、私もこの花と同じこと、
私という、意思が先にあって
語っているのではない。
ただ天地の息吹が、この空ろな器を通り抜け、
ふと、言葉の花となって溢れ出てくるだけなのだ。
それゆえ、誉められずともよいし、
笑われてもよい。
花が誰のためでもなく咲き、
また誰に惜しまれることもなく散ってゆくように、
私の言葉もまた、ただ咲き、ただ散って、
あとは風とともに去るのみよ。
そう言うと、
荘右衛門は再び不格好な大木に背をあずけ、
心地よさそうに目を閉じた。
結果への執着を捨て、
ただ今この瞬間に命をあずける。
道(タオ)というものは、
無理にひねり出すものではない。
放っておけば、無為のうちに、
おのずから現れてくる。
あとはすべて、風に任せておけばよい・・
と、言い終えるか終えないかのうちに、
荘右衛門はすうすうと
心地よさげな寝息を立て始めた。
儒者が「これ、話の最中に寝る奴があるか!」
と肩を揺り動かそうとした・・その時である。
ゆるやかな風が吹き抜け、
頭上の大木の葉が、さざ波のようにざわめいた。
梢(こずえ)の隙間から、
やわらかな木漏れ日がこぼれ落ちる。
光のゆらぎの中で、
天地と一つになって眠る荘右衛門・・
その姿は、樗山の草木や風と、
少しも隔てのないものに見え、
もはや自然の風景そのものであった。
儒者はもはや説教を続ける気にもなれなかった。
どこか胸のつかえが下りたような、
晴れやかな顔で、呆れたように小さく笑う。
「ふぅ・・これは、もう不要かな」
そう呟くと、
自らの上質な絹の羽織を脱ぎ、
泥まみれの荘右衛門の肩口から膝もとまで
優しく包み込むようにそっと掛けてやり、
静かに樗山をあとにした。
山を下りてゆく儒者の背中は、
心なしか以前よりもずっと、軽やかになっていた。
完
