(はじめてのnote)40代、不動産屋になりました。〜私がこの道を選んだ理由〜
大学卒業後、工場、営業、物流、企画、色々な経験をした。 40代になり、 昭和28年創業、2代続いた地元の不動産屋を 継ぐと決めました。 宅建士の資格は大学時代に取りました。こんな形で使うとは思っていなかったけど。 3代目、新米宅建士の思うことをここに残していきます。 #宅建士 #40代転職 #家業継承 #不動産 #Uターン転職 #はじめてのnote
住宅地図や電車ばかり見た幼少期
戦後まもなく祖母が設立した町の小さな不動産店。父親はメーカー勤務後、不動産会社で数年経験を積んだ後、祖母の不動産店を継承することになりました。私はそんな家庭の中育ちました、子供の頃はずっと住宅地図みて、家の前を走る電車ばかりみて電車の運転士になっていろんなところ行きたいと言ってました。算数理科社会が大好きで、文系理系迷ったけど、国語が苦手で理系を選択、大学生時代は化学を専攻しました。今思えば建築土木系したかったけど、その成績は自分にはないのと現役にこだわった結果です。
自分は過去のこと後悔するの嫌い。今の自分は過去の選択の先にあるから。
化学専攻なのに宅建資格の学校に行き色々疑われた学生時代 そして社会人へ
親には宅建の免許は学生のうちにとっとけ!といわれていたので、大学院1回の3年目で合格しました。資格学校とかに学科見られなんでですか?間違っていませんか?とかよく言われてた笑。でもいい思い出だし、本当に所得していてよかった。
はじめ電車の運転士になりたいと言っていた私ですが、小学校のアルバムでは研究者になりたいと言ってました。自分は就職氷河期と研究室の先生の勧めもあったので大学院にすすんだのですが、実際に大学院で黙々研究しているときに、自分は元々人と話すのが好きなのに、黙々と研究するするのあわないなと思いました。
自分は人と接していたい。バイトでレストランのウエイターや家庭教師もしてた影響か幸せを人に与えてることが自分も一番幸せ。そう思うようになったため、研究職ではなく大手建材メーカーに技術職として進む道を選びました。
社会人の洗礼を浴びたが成長できた工場時代
社会人経験初めては関西圏の田舎で工場配属、1年目から10人位のラインリーダーを任され不具合流れまくり、納期ギリギリの綱渡りの生産を続けるで大分苦労して迷惑をかけまくっているのに全然気づいていなかった私。でもその中でも同期、仲間との出会いはかけがえのない宝物でした。今思えばやめててもおかしくなかったかもしれません。
後半は配送センターで返品在庫の管理していました。多分後半は工場のラインでは落第点をつきつけられ間接部門にいったのですが、この経験で管理の手法ということを大きく学び社会人として成長できたと思っています。そのときに会社に初めて貢献できているかもと思い始めました。都会で一番楽しい20台を過ごしたい気持ちもあるけれど、田舎の1人暮らし6年とても楽しかった。そして工場閉鎖で転勤となり上京するのです。
やっぱり接客業が向いていた
工場配属になると思い、また田舎暮らしを覚悟していましたが、移動先はまさかの東京都内でした。ただ今までとは全く違う分野で、プロ向け資材販売店という新事業の立上げ運営が待っていました。
この時点で大学院の知識はもう全く使わわれないだろう。
でも今思えば大学院時代の研修室の先輩後輩まとめるということが大きな基礎を学んだと思っています。だから無駄と思ったことはありません。教授は何していると思っているかもですが笑
むしろ学生時代に学ぶことは学問もあるけど、バイトも含め、組織社会を学ぶ入口かなと思っています。
東京の人の多さに焦る私
板橋区で勤務していたので埼玉県で住んでいた新婚時代。人が多く、5時台の電車座れないって…てとんでもないところにきたもんだって思ってた。あと池袋にでてから東京駅が遠かったり羽田に行くのが大変だったり…帰省は大変でした。首都圏って人が多いし広すぎですよね。
名古屋は住みやすかった
4年後、自分は名古屋の店舗で店長になり2年間すごしました。自分はこの6年間の接客経験がとても楽しくてやはりお客様と話すのが好きだと思いました。嫌なこともたくさんありましたけどね。いろんな人がたくさんいると勉強しました。
名古屋は車社会。田舎都会の感じが自分は好きでした。今も名古屋の人間と繋がっていて年に2回くらい遊びに行きます。矢場とんはおいしいですよね。大阪も2時間位で帰れて実家の近さはなによりも嬉しかったです。
このまましばらく名古屋に住みたいと思っていたのですが、2年半後に本部員として東京に戻ることになるのでした。
30台後半の私に迫る、将来の選択肢
東京では各店舗のアドバイザーとして北海道から九州を駆け回り、その後購買、物流 企画の道を歩みます。マルチタスクプレイヤーとして非常に重宝されました。コロナ渦でイレギュラーなことがあったけど信頼されることが最大の武器でした。一方子供ができて40も迎えるし、妻は熊本だし、家庭の拠点をどこに置くか考えないとだめでした。40になる前に急に不眠になったり不安になったのがつい最近のように思っています。
中間管理職に迫るメンタル不調、そして決断
滋賀が地元の会社の同期が、浦和に家を買い、関東に永住することを決断、自分も続こうと思っていたが、首都圏は5年で1000万程度家の値段が上がる。しばらくどうしようかと考えながら課長迄昇進した私。しかしいろんな人が私に頼ってくれる中、マルチタスクすぎるあまり過酷な業務が重なってしまい体調を大きく崩し2か月ほど休みをとることに。その時に将来的に私は地元の大阪に帰りたい。Uターン転職を考えるようになり、19年働いた会社に区切りをつけました。私を店長にしてくれた上司も退職したり心の支えを失ったことも大きかったです。
最後に人事部長に大阪拠点でリモートで時々くるとかでもできるぞと言われたとき今思えば涙がでます。そのままとどまっていれば次の会社に行くことはなかったので、よい人生だったのかもしれませんがそれは別の人生。
自分は環境を変えたいと成長中の新しめの企業に自分の能力が生かせると思い転職しました。
好待遇で迎えてくれた転職先と待つ闇
1年間関東で研修→1年後大阪に転勤、引越費用負担の好条件。上の娘の小学校進学と引越しを合わせられるということもあるのと前職の仕事の経験を生かせることを理由に決めた転職先。初めの1年の関東時代は人間関係も良好で楽しかったのものとにかく大阪にいる上司が自分のことしか考えない管理者失格の方で、部署の職場雰囲気は最悪でした。新しい急成長中の会社って古株のできない人が発言権もつのでなかなか厄介なんですね。大阪に戻り1年半働きましたが、私は転職を改めて考えました。上層部が上司を正と考えて、挙句の果てに自分のやってきたことを否定してきたのでもうあきらめかけていました。
そして3代目をするという決断
メンタル的にもまた折れそうだった私。そこで救ったのは親の家を継いだら? でした。それまでお前の方が稼いでいる、継ぐことは考えなくていいの一点貼りだったのですが、地元で細く長くしていることが生きて少しずつ売上が増えているということもあり、親として救いの手を差し伸べてくれたのでしょう。
管理職で結構な年収を貰っていた私には大きな選択で迷いました。
収入は大きく減る。でも60歳で役職定年で大幅に給料が下がる長期的に見たときにって考えたときに親父が75を超えてまだまだ元気な今のタイミングで勉強しながら継ぐことに決めました。そして手元に免許証が届く。
長くなりましたが、これが今の私です。
不動産のこと、相続のこと、住まいのこと、気軽にコメントやお問い合わせください😊
もしこの記事が「わかる」「参考になった」と思っていただけたら、スキ❤️とフォローをいただけると励みになります。
Xでも「大阪の新米宅建士のなー」@marunaka007として発信をはじめました。気軽に絡んでください!
