[91] 誰か宛ての羽音
Esperanza & Alice
By Human & AI Co-Creation
[91] A Wingbeat Meant for Someone
小夜(さよ)は、虫が苦手だった。
目の前を急に横切られると、思わず肩をすくめてしまうし、耳元で羽音がすれば、手で追い払わずにはいられない。
けれど、その日の虫だけは、なぜか追い払う気になれなかった。
仕事帰りの夕暮れ。
駅を出た小夜の前を、一匹の小さな羽虫が横切った。
薄い金色の光をまといながら、ふわりと浮かび、少し先へ進んでは、また立ち止まるように宙を漂っている。
まるで、小夜がついてきているか確かめているようだった。
「何なの」
そう呟くと、虫は聞こえたみたいに、また少し先へ飛んだ。
商店街を抜ける。
花屋の前では、白い蛾が、店先の鉢植えのあいだをゆっくりと舞っていた。
花を片づけていた店主が、ふと手を止める。
その横顔は、ここにはいない誰かを思い浮かべているように見えた。
交差点では、青白い羽虫が、制服姿の少年の鞄をかすめて飛んでいった。
少年は信号を待ちながら、急にスマートフォンを取り出した。
何かを打ち込みかけて、やめた。
それからもう一度、今度は迷わず指を動かした。
小夜の前を飛ぶ虫は、まだ消えない。
公園の脇を通りかかると、ベンチに座る老人の肩から、一匹の小さな虫が舞い上がった。
老人は古びた写真を膝に置き、じっと空を見ていた。
その虫は夕暮れの中を迷うことなく横切り、向かいのマンションの窓辺へと吸い込まれていった。
その窓の奥で、誰かがカーテンを開けた。
街を歩くうちに、小夜には、虫たちがただ飛んでいるのではないように思えてきた。
アパートの窓からは、言えなかった「ごめんね」が飛び立つ。
駅のホームからは、「帰ってきてほしい」という願いが、線路の向こうへ渡っていく。
閉店間際の喫茶店からは、今日も来なかった誰かを待つ想いが、街灯の明かりへと昇っていく。
会いたい。
忘れないで。
元気でいて。
許してほしい。
ありがとう。
さようなら。
声にならなかった言葉が小さな羽を与えられ、夕暮れと夜のあわいを飛び交っている。
小夜が街灯を見上げると、その明かりの下には、数えきれないほどの虫たちが舞っていた。
光に集まっているのではない。
まだ届いていない宛先を、探しているのかもしれない。
そのとき、小夜の耳元を、最初の羽虫がかすめた。
ほんの一瞬、忘れていた名前が浮かんだ。
もう何年も会っていない人。
最後に交わした言葉さえ、曖昧になってしまった人。
元気でいるだろうか。
私のことなど、もう思い出さないだろうか。
そう思った途端、胸の奥で、かすかな音がした。
羽ばたきに似た、とても小さな音だった。
小夜は胸元に手を当てた。
何かが、そこから抜け出していく。
目には見えなかった。
けれど確かに、一匹の小さな気配が、小夜の手のひらをかすめ、夜の入口へ飛び立っていった。
小夜は追いかけなかった。
どこへ向かうのか、なぜだか知っていたから。
街の上では、今日も無数の羽音が交差している。
私たちはきっと、知らないうちに誰かの想いとすれ違い、
ときどき、自分宛ての一匹を胸の奥へ迎え入れている。
