小説「蝶とシマウマ」-25246文字
失くしてしまった何かをずっと探しているような気がする。
仕事には不満がない。
一人が好きな僕を構う妻も子供もいない。
四十を前にしたあたりから、その何かを探している。
いや、探してはいない。
待っているのだ。それが訪れるのを。
どんなものかもわからないのに。
僕は美術系の大学をでたので、いまの会社では主にポスター作りや季節の行事(クリスマスやお正月や七夕やら、諸々)の飾りを制作し、社内に飾る仕事をしている。庶務髁なんかここにはない。
自動車のホイール作りを扱うこの会社では、僕のいる部署を美術部と呼んでいる。ホイールのデザインを扱うのは本社のデザイン部というのがまた別にある。
この支社はあくまでも材料の金属を注文し製造までのサポートをするに留まる。
要するに、僕の会社は自動車のタイヤを作る仕事に特化している。本元は結構名の知れた大きな会社だ。
美大をでてしばらくは近所の子供に絵を教えていたが、それも辞め、かねてから憧れていたイタリアに行き、親からの仕送りとアルバイトで得た資金源で絵を描いていた。描いた絵は道端に並べて売っていた。数えるほどしか売れなかったが。
だから日本に帰ることに決めた。
日本に帰ってくると、親の脛をかじり絵を描くだけでは自立できないので、就職をすることに決めた。
求人誌をめくり、美術部なるものがあるこの会社を選んだ。そのとき、僕は三十歳だった。
面接には絵を一枚持ってくるよう命じられた。そこで僕はイタリア時代に描いた花屋で働く女性の絵を持っていった。
結果は採用だった。
そのときにはまだ先輩がいて、仕事は紙に描いた季節の絵を壁に貼るというものだけだった。
なんのモチベーションも湧かない、と僕にすべてを託し、先輩は会社を自主退職してしまった。
それからこれまでずっと一人でこなしていたが、僕の発想もネタが尽きた感が否めなく、もう一人、手伝ってくれる人材が去年の春に入社してきた。
彼女は当時まだ大学を卒業したてのほやほやで、なんでもかんでも僕にいちいち質問してくる。少しは自分で考えろ、といいたいが、質問もしないでわからないことをわからないまま自己処理しているよりかはましだと思う。
いまは三月。まずは春のイメージで、桜や菜の花をモチーフにして社内を飾ろうと思っていた。しかしそれもマンネリ化していたので、新たな案はないかと頭を捻っていた。
この会社は、社員の労働意欲を高めるために、ここにも力を入れている。遊び心があるのだ。
季節を感じ、部屋が賑やかで明るければ社員のモチベーションも向上する、と社長が考えたのだ。
幼稚園なんかを想像してしまうと思うが、レベルがちがう。
僕たちは美大に通い、感性を高めて入社したのだ。平面だろうが立体だろうが、その完成度に妥協はない。
昨年の秋にはプロジェクションマッピングで壁に絵を映し、舞い散る紅葉を堪能する作品を手掛けた。野生の鹿やリスなども登場し、大いに受けた。
十二月にはカラフルなセロハンを貼り、ステンドグラスを模した。そこに影絵でキリストの誕生、苦難、磔刑を描いた。これも評判は良かった。
僕が原案をだす。新人の彼女、幹本さんがそれをどう実現するのかを知恵をだし提案する。
二人で頭を突き合わせ、考える。
意見がでるまで待たなければならないのが相棒ができた面倒なところ。
作業ペースが高まったのは相棒ができた良いところ。
「草薙先輩、考えてますか? なんか目が遠くに行ってましたよ」
叱られるのもまた面倒なところ。
「いや、外にでればなにかヒントをもらえるんじゃないか、ってさ」
「出掛けてこられます?」
「幹本さんは留守をお願いします」
「わかりました。お帰りは何時頃になりますか」
「うん、まあ小一時間ってところで」
「いってらっしゃい」
僕はダウンジャケットを羽織り、社外へでた。
三月に入ったといっても、まだまだ寒さは厳しい。
今年は暖かくなるのが遅く、桜も開花が遅れるそうだ。
様々な店舗のウインドウを横目に通りを歩く。アイスクリーム屋がある。この寒い日に三人組の女の子が店内でお喋りをしながらアイスクリームを頬張っている。
牛丼チェーン店では、反対に男たちが背を丸めて牛丼に食らいついている。
昼間から開店している居酒屋がある。暖簾が上半身を隠す長さなので、なんとなくだが客数が見える。当たり前だが客は少ない。少ないが、この真っ昼間から呑んでいる人もいる。いったいなにをしている人だろうか。
コンビニのとなりのフィットネスジムでは、ランニングマシンで汗を流しているポニーテールの女性がいる。すらりとして充分に痩せている。ダイエット目的ではなく、運動が習慣化されているのか。
だんだん街中から外れていく。寒いから手をズボンのポケットに入れる。指に小銭と家の鍵が当たる。
途中、自販機で温かいレモネードを買った。
甘い。でもその甘さを求めていた。頭が回らないときは甘いものが一番だ。
だいぶ歩いて児童公園を通りかかる。入ってみる。僕と同じ年の頃だろう女性が砂場で遊ぶ小さな子供を優しげな目で見守っている。
おそらく女の子だろう子供はおむつを履いているのかスボンのお尻がパンパンで、しゃがんで丸まっているとまるでボールみたいだ。
赤いコートの袖が砂で汚れている。でも一向に構わないようだ。母親もそれについてなにか対処を取ることもない。
僕が子供の様子をじっと見つめていると、母親が僕を見ていった。
「草薙くん?」
え? 僕の顔はとても間抜けだったにちがいない。
だって、その女性に見覚えなどないからだ。
「草薙くんでしょ? 同じ美大に通ってた玉置美津子よ。いまはまだ岡田だけど」
「ごめん、覚えがない」
「ひどいなぁ。こんな美人を忘れるなんて。きょうはすっぴんだけど」
彼女はけらけらと笑う。
この笑い声。そういえば覚えがある。大学でいつも誰か数人とつるんでいて、その輪の中心で豪快に笑うのだ。
そうだ、四年のときに学校内のミスコンにもでて、優勝したんだったっけ。
思い出した。
「ああ、玉置さんね。ミスコンの」
「やっと思い出してくれたのね。嬉しいわ。だって、あたし、在学中あなたのこと好きだったんだもの」
「へ?」
突然の告白に僕は怯んだ。
「でも、そんなに接触なかったよね」
「もう、それだから男子は。遠くから見てたのよ。あなたとあなたの作品を」彼女はむくれていった。
「僕の作品?」
「そう、あれ、すごい良かった。えっと三年生だっけ。草薙くん、蝶々とシマウマを描いたじゃない? 飛んでいるいくつもの蝶々がシマウマの模様に溶け込んでいくの。あれ、すごかったなぁ」
「ああ、それね。学内のコンテストに応募したら金賞もらったんだよ」
「そうだったわね。あたし、自分のことみたいに嬉しくて」
「よく覚えてたな」
「あの絵、どうした?」
「あれは確か実家の僕の部屋にあると思うよ」
「どうして飾らないの? もったいない」
「過ぎたことに執着はしないんだ」
「どこかの画商にでも見てもらえばいいじゃない。高く売れるわよ」
「無名の、しかも学生時代に描いた絵なんて誰も評価しないよ」
「いや、あの絵は特別よ。世の中に出すべきよ」
「そういや玉置さんって、一学年上の吉川と付き合ってなかった?」
「あら、あたしのこと知らないっていっておきながら、結構覚えてるじゃない」
「少しずつ思い出してきたんだ」
「彼はあたしの従兄よ」
「そうなんだ。美形の家系なんだね」
「やめて、もうこんなおばちゃんになっちゃったし。子供もいるし。従兄もいまじゃお腹がでたおじさんよ。そういえば草薙くんはまったく変わらないのね」
二、三歳くらいの幼い子供が泥団子をいくつも作っている。鼻唄まで聴こえる。聴いたことのないメロディだ。自作だろうか。幼い子供というのは、ときに驚くような才能を発揮させる。絵画教室を開いているときによく感心させられた。
「そうかな。笑うとしわができるよ」
「素敵じゃない。眉間のしわよりよっぽどいいわ。いい生き方をしてきたのね。人相にでてる」
「そうかい?」
幼子は僕の足元に泥団子を並べはじめた。
「ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ、ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ」
三つまでは数が数えられるようだ。
僕はしゃがみこんで泥団子をひとつ手にとった。食べる真似をすると、彼女は大きくぱんぱんと手を叩いた。嬉しそうだ。ぷっくりとしている真っ赤な頬っぺたが可愛らしい。
「おいちいね?」彼女が小首を傾げる。
「うん、すごく美味しかった。ありがとう」
「どういたまして」
僕と彼女の母親は同時に笑った。
「えみりっていうのよ」
「そうか。えみりちゃん、お団子屋さんになれるよ」
「うん! えみり、なる!」笑うと頬っぺたがくいと上がり、目が細くなる。あまりの可愛らしさに頭を撫でずにはいられなかった。
「ところで、こんなところでなにをしているの? スーツを着ているってことは会社員なのよね」玉置さんの言葉でふと我に帰る。
「ああ、散歩さ。なにか仕事のいいアイデアが転がっていないかなと思って」
「へえ。見つかった?」
「そうだね、玉置さんのおかげで見つかったよ」
「あたしのおかげ?」
「うん、シマウマ」
「シマウマ? が、どうしたの?」
「そろそろ戻らなくちゃ」
「また会える?」
「どうかな。会社はここから近いけど。玉置さんもこの近く?」
「うん、いま実家に里帰り。じゃあ、この公園に来れば会える確率が高いってところね」
「そうかもね」
「また、会いましょ」
「運が良ければね」
「なによ、それ」
彼女は大きな口を開けて豪快に笑った。昔のような肌に艶はないが、鼻筋が通っていてすっぴんでも美しかった。
「じゃ、また」
「またね」
「えみりちゃん、ばいばい」
「ばいばい」彼女は泥だらけの手をパーにして思い切り振った。
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