共生の黎明 #36 第12章 第2節:静けさの中で、交わされる気持ち 連続小説
ある朝。
A市内を鉄道駅へ向かう路線バス。
各停留者から扉が開く度に利用者が乗り込み、車内は混雑しつつあった。
車内には、眠そうな顔をした人々が静かに座っていた。
起きている乗客もスマートフォンの画面を見つめ、音も言葉もほとんどない。
その静けさのなか、一人の若い女性が、近くで立ったまま揺れている高齢の男性に気づく。
迷うような表情のまま、彼女はそっと席を立ち、「どうぞ」と声を掛けた。
男性は少し戸惑いながらも、「ありがとう……」と静かに呟き、席に腰を下ろした。
その直後、彼の指先が、ポケットから取り出した端末に触れる。
ゆっくりと、慎重に操作をして、女性に小さな「ユラ」を送った。
ほんのわずかな振動。
女性が自身の端末画面を見ると、彼女はそっと笑った。
彼女の「アヤ」が増えていた。
「ありがとう」が、声を介さず届いたことが、なぜかとても深く、あたたかく感じられた。
女性の端末の画面には、
“この場にいた人へユラを返す”という小さな選択肢が表示される。
一定の時間内であれば、端末同士の位置間データから各自の設定した本人情報に基づくアバターの候補を提示してくれる仕組みだった。
顔や名前を知らなくても、「伝えたい」という想いがあれば十分だった。
彼女は、その中から高齢の男性姿のアバターを選び、そっと「ユラ」を返した。
バスは鉄道駅に到着した。
その時、乗客たちの間でさりげない譲り合いが起き、降車の流れがスムーズになる。
どれも、声なき「ユラ」のやり取りだった。
改札へ向かう人の流れの中で、一人の男子高校生が、うつむいた女性の鞄から落ちた定期券に気づく。
「定期券、落としましたよ」と静かに手渡すと、彼女は顔を上げて目を見開いた。
「ありがとう、助かりました」
彼は照れたようにうなずき、そのまま降りていった。
女性の端末に、彼への「ユラ」を送る画面が立ち上がっていた。
一言添える欄に、彼女はこう打ち込んだ。
「今朝は、これが一番嬉しいです」
朝の通勤通学時間帯という、誰もが「他人のふり」をしやすい状況。
けれど、アヤ/ユラの仕組みは、その無言の壁をそっとゆるめていく。
直接言えない想いも、タイミングを逃した感謝も、一定時間内であれば、あとから返せる、それが「ユラ」の役割だった。
やがて、同じ時間、同じ空間を使う人たちの間には、目に見えない温度が生まれていく。
「このバスの時間、なんか好きになったな」
誰かの心の中で、そう感じられるようになる。
アヤ/ユラは、都市の無機質なリズムの中にも、徐々に人と人とのつながりを育てていた。
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