訪問看護では、「正しいこと」が正解とは限らなかった
「お酒はやめてください」と、僕は何度も伝えていた
「やっぱり、お酒はやめたほうがいいです」
訪問看護師としてその人の家へ通い始めた頃、僕は何度もそう伝えていた。
その人は、アルコール依存症を抱えていた。
過去には、自分でも飲酒量を止められなくなり、我を忘れるほど飲んでしまったこともある。
また急性アルコール中毒に至ったこともあり、再び飲酒量が増えれば、同じことが起こる可能性は十分にあった。
医療者の立場から考えれば、最も安全なのは飲まないことだった。
アルコール依存症なのだから、断酒を目指す。
飲酒によって体調を崩してきたのだから、再び酒を口にしないように支援する。
僕の中では、答えはすでに決まっていた。
本人の体を守るためにも、お酒はやめてもらわなければならない。
危険性をきちんと説明すれば、その必要性を理解してくれるはずだと思っていた。
けれど、僕が「お酒はやめてください」と伝えるたびに、本人との間には微妙な空気が流れた。
あからさまに怒鳴られたり、訪問を拒まれたりしたわけではない。
それでも、こちらの言葉に納得できていないことは、表情を見れば分かった。
話を聞いているようで、どこか心を閉ざしている。
僕の言葉が本人の中へ入っていかず、表面で跳ね返されているような感覚があった。
当時の僕は、病院から訪問看護へ移ったばかりだった。
人間なのだから、何でもすぐに受け入れられるわけではない。
それは頭では分かっていた。それでも、心のどこかではこう思っていた。
医療として来ているのに、どうして分かってくれないんだろう。
飲酒を続ける危険性は説明している。
医師からも止められている。
それなのに、「やめたくない」と言う本人を前にすると、自分の体のことなのに、なぜ正しい選択をしてくれないのかと感じていた。
今振り返れば、僕が見ていたのは本人の生活ではなく、飲酒という問題行動だった。
そして、その問題を正しい方向へ修正することが、看護師としての役割だと思っていた。
病院の「正しさ」を、そのまま自宅へ持ち込んでいた
病院には、治療を安全に進めるためのルールがある。
決められた時間に薬を飲む。
医師から禁止されているものは口にしない。
水分制限があれば、その範囲を守る。
転倒の危険が高ければ、移動するときには看護師を呼んでもらう。
看護師は患者さんの状態を継続して観察し、決められた治療方針から大きく外れないように支援する。
そこでは、「薬は必ず飲んでもらう」「お酒は絶対に飲ませない」という対応が必要になることもある。
命や安全を守るためには、本人の希望だけを優先できず、柔軟に対応できない場面も当然ある。
僕は、その環境で看護師としての基礎を身につけてきた。
だから訪問看護へ移ってからも、正しい治療を提示し、それを守ってもらうことが支援だという感覚が、知らず知らずのうちに残っていたのだと思う。
けれど、自宅は病院ではなかった。
僕たちは週に数回、その人の家へ伺う。
30分から1時間ほどの訪問の中で体調を確認し、服薬状況を見て、必要な処置や相談支援を行う。
しかし、訪問看護師が関われる時間は、1日の中のほんの一部にすぎない。
僕たちが帰ったあとにも、その人の生活は続いていく。
病院であれば、水分制限のある患者さんがどれくらい水分を取ったのかを、24時間を通して把握することもできる。
けれど在宅では、本人が1日の大半をどのように過ごしているのか、訪問看護師が完全に管理することはできない。
僕たち医療者には、「医療を提供しに来ている」という意識がある。
一方、自宅で生活している本人に、病院と同じ感覚があるとは限らない。
本人にとって、そこは治療を受けるためだけの場所ではない。
長い時間をかけて築いてきた生活の場であり、
自分の考えや習慣に従って過ごす場所だ。
そもそも訪問看護師は、その人が暮らしている家へお邪魔して、ケアを提供させてもらう側でもある。
僕は訪問看護を、「究極のサービス業」だと思っている。
もちろん、利用者さんの要望を何でも受け入れるという意味ではない。
医師の指示に基づいて必要な医療を届け、命や安全を守る専門職であることは大前提だ。
それでも、自分たちの正しさを一方的に持ち込み、その人の生活を医療者側の都合に合わせて変えるのではなく、本人の意向を聞きながら、どこに現実的な着地点があるのかを一緒に探していかなければならない。
訪問看護は、本人の生活を医療のルールに従わせる仕事ではない。
その人のルールで続いてきた生活の中に、医療や看護をどう馴染ませるかを考える仕事だった。
けれど、そのことに気づくまで、僕には少し時間がかかった。
その人は、ただ酒が好きなわけではなかった
当時の僕は、お酒をやめる必要性ばかりを伝えていた。
けれど、本人がなぜそこまでお酒を手放したくないのかを、十分に考えたことはなかった。
僕自身は、お酒をほとんど飲めない。
だから、「お酒が唯一の楽しみだ」と言われても、その感覚を完全に理解することはできない。
健康を損ね、過去に大きな問題まで起こしているのなら、やめたほうがいい。
そう考えるのは、僕にとって自然なことだった。
けれど、訪問を重ね、少しずつ本人の過去について聞いていくと、何も考えずに酒を飲み続けているわけではないことが見えてきた。
その人は、長い間、仕事を死に物狂いで続けてきた。
日々積み重なるストレスから逃れるように酒を飲み始め、それが少しずつ習慣になった。
嫌なことがあると飲み、仕事が休みの日には朝から飲む。
最初は気持ちを楽にするためのものだったはずが、徐々に量が増え、自分でも止められなくなっていった。
最初から、自分の生活を壊そうとして飲み始めたわけではない。
苦しさをやり過ごすために始まった行動が、いつしか本人の力だけでは収拾のつかないものになっていた。
一見すれば、「酒をやめられないアルコール依存症の人」としか映らないかもしれない。
けれど、飲酒に至るまでの人生をたどれば、そこにはその人なりの背景がある。
本人の中にも、「どうしてこんなふうになってしまったんだろう」という思いがあったはずだ。
僕は、それまで目の前の飲酒だけを見ていた。
酒を飲むから、やめてもらう。
約束を守れないから、改めて必要性を説明する。
その対応は医療者として間違ってはいなかったのかもしれない。
ただ、その人がなぜ酒を必要とするようになったのかを知らないまま「やめてください」と繰り返すことは、その人が歩いてきた道を見ずに、今目の前にある行動だけを正そうとすることでもあった。
この人との関わりで、僕の考え方を変えたのは、特別な医療技術ではなかった。
本人の過去を知ろうとしたことだった。
どうして飲むようになったのか。
酒を飲む時間に、本人は何を求めていたのか。
そして、これからどんな生活を送りたいと思っているのか。
正しさを伝える前にその人の背景を知ろうとしたことで、僕にはようやく、本人が見ている景色が少しだけ見え始めた。
「お酒は絶対にやめたくない」の、その先にあった言葉
やがて本人は、自分の希望を言葉にした。
「お酒は絶対にやめたくない」
以前の僕なら、その言葉だけを聞いて、「やはり断酒する意思がない」と受け止めていたかもしれない。
けれど、その言葉には続きがあった。
これまでのように、急性アルコール中毒になるほど飲みたいわけではない。
我を忘れ、自分でも行動を制御できなくなる生活には戻りたくない。
お酒は残したい。
でも、お酒に人生を支配されたくはない。
本人が求めていたのは、好きなだけ酒を飲む自由ではなかった。
長年の中で唯一の楽しみになっていたものを、生活を壊さない範囲で残したいということだった。
その話を聞いたとき、僕は初めて、医療者側が掲げる「断酒」というゴールと、本人が目指している生活が、同じ場所にはないことに気づいた。
もちろん、アルコール依存症の治療において、断酒が重要な目標であることは変わらない。
けれど、どれほど医学的に正しい答えであっても、本人が納得できなければ、実際の生活の中で続けることはできない。
正しいことを強く伝え続ければ、いつか本人が従ってくれる。
僕は、どこかでそう思っていた。
でも在宅では、看護師が帰ったあとに何をするかを決めるのは本人だ。
頭ごなしに否定され続ければ、飲酒をやめるのではなく、看護師に話すことをやめるかもしれない。
隠れて飲むようになるかもしれない。
本当の飲酒量を言わなくなるかもしれない。
そうなれば、僕たちは本人の生活で何が起きているのかを把握できなくなり、必要な支援からも遠ざかってしまう。
そのとき僕は、ようやく問いを変え始めた。
この人に、どうすればお酒をやめてもらえるのか。
そう考えるのではなく、
この人は、
これからどんな生活を送りたいのか。
その生活を壊さず、同時に命と安全を守るために、どこまで一緒に考えられるのか。
病院から訪問看護へ移ってから初めて、僕は自分が信じてきた「正しさ」を、その人の生活の中に置き直そうとしていた。
正しさを少し手放して、二人で決めた「1日1杯」
本人の希望が見えてきたあと、僕たちは主治医にも相談しながら、これからの方針を話し合った。
医療者側が考えていたのは、当然、飲酒をやめることだった。
一方で本人は、以前のような危険な飲み方には戻りたくないと思いながらも、お酒そのものを完全に手放すことには強く抵抗していた。
どちらか一方の意見だけを通せば、話は簡単だったのかもしれない。
「健康のために、もう二度と飲まないでください」
そう伝えて終わることもできた。
あるいは、本人の希望をそのまま受け入れて、「好きなように飲んでください」と言うこともできた。
けれど、訪問看護で求められるのは、そのどちらでもなかった。
本人の希望を尊重することと、危険を見過ごすことは違う。
その人らしさを大切にすることと、命に関わる行動まで何でも容認することも違う。
例えば、精神的な苦しさを和らげるためだからといって、血だらけになるほどの自傷行為を「本人に必要な行動だから」と認めることはできない。
本人らしい生活を守るためにも、専門職として越えさせてはいけない一線はある。
だからこそ、本人の思いと医療者としての懸念を、どちらもテーブルの上に出す必要があった。
本人は、お酒を完全にはやめたくない。
ただし、急性アルコール中毒になったり、我を忘れたりするまで飲む生活には戻りたくない。
僕たちは、再び飲酒量を制御できなくなる危険をできるだけ避けたい。
その間で何度も話し合い、最終的にたどり着いたのが、
「飲酒は一日一杯まで」
という方針だった。
それは医療者が一方的に決めたルールではなかった。
本人も自分の希望を伝え、医療者側も懸念を説明し、お互いが少しずつ譲歩した末に見つけた着地点だった。
断酒という医学的な正解から見れば、不完全に映るかもしれない。
それでも本人にとっては、自分の楽しみをすべて奪われることなく、同時に以前のような生活へ戻らないための、現実的な目標だった。
「今日は2杯飲んだ」を、隠さなくていい関係
もちろん、「一日一杯」と決めたからといって、翌日から毎日完璧に守れたわけではない。
人間が長年続けてきた習慣を変えるのは、それほど簡単なことではない。
僕自身も、新しいことを始めたときに、毎日欠かさず続けられるわけではない。
運動でも勉強でも、「今日はできなかった」という日はある。
それなのに、アルコール依存症を抱える人にだけ、最初から一度の失敗も許さないというのは、あまりにも現実から離れている。
もし本人から、
「今日は2杯飲んじゃった」と打ち明けられたときに、
「一杯までの約束でしたよね」
「どうして守れなかったんですか」
と責め立てたら、本人は次からどうするだろう。
本当に一杯で止められるようになるとは限らない。
むしろ、「言えば怒られる」と思い、飲んだこと自体を隠すようになるかもしれない。
2杯飲んでも1杯と答えるかもしれない。
もっと多く飲んだ日は、訪問そのものを避けるようになるかもしれない。
そうなれば、表面上は問題がなくなったように見えても、実際には僕たちが真実から遠ざかっただけになる。
在宅では、看護師が本人の生活を24時間見張ることはできない。
週に3回訪問できたとしても、一回の訪問は30分から1時間ほどだ。
一日の大半をどう過ごすのかは、本人に委ねられている。
だから在宅で本当に必要なのは、看護師の前でだけ約束を守っているように見せてもらうことではない。
できたことだけでなく、できなかったことも正直に話してもらうことだった。
「今日は2杯飲んでしまった」
そう言われたときには、まずその事実を受け止める。
飲んでしまったものは、もう元には戻せない。
そこで責めるのではなく、
「今日は何かあったんですか」
「いつもより飲みたくなった理由はありましたか」
と、その日の出来事を一緒に振り返る。
何か嫌なことがあったのかもしれない。
眠れなかったのかもしれない。
ただ単に、目の前にあって手が伸びただけかもしれない。
理由が分かれば、次に似た状況が起きたときの対処を一緒に考えられる。
一度できなかったからといって、それまでの努力がすべてなくなるわけではない。
立ち止まった日があっても、また翌日から、共有しているゴールへ戻ればいい。
訪問看護師の役割は、本人の失敗を数えて評価することではない。
うまくいかなかった日にも関係を切らず、もう一度進み直せるように支えることだと思う。
管理できないからこそ、信頼関係が必要だった
病院では、患者さんの生活をある程度管理できる。
内服薬を飲んだかどうかを確認できるし、水分制限があれば摂取量を把握することもできる。
飲酒が禁止されている環境であれば、基本的にはお酒を手にすることはできない。
けれど、自宅ではそうはいかない。
訪問看護師が帰ったあとに本人が何をするのかを、僕たちが完全にコントロールすることはできない。
最終的に「一日一杯」という方針も、本人との口約束であることに変わりはなかった。
だからこそ、僕たちが頼れるのは、管理の強さではなく関係の深さだった。
この人には、本当のことを話しても大丈夫だ。
約束を守れなかった日でも、頭ごなしに否定されない。
隠さずに話せば、次を一緒に考えてもらえる。
そう思ってもらえる関係をつくることが、在宅での安全を守ることにつながっていた。
信頼関係が崩れ、本人が飲酒量を隠すようになれば、訪問看護師は現実を知らないまま支援することになる。
本当は何杯飲んでいるのか。
体調を崩した原因は何なのか。
どの程度危険な状態に近づいているのか。
その情報が得られなければ、必要なタイミングで支援することもできない。
訪問看護が入っている意味は、単に定期的に体温や血圧を測ることではない。
その人の生活で実際に起きていることを、良いことも悪いことも含めて共有してもらい、一緒に立て直していくことにある。
だから僕は、正しさを伝えること以上に、
正直に話してもらえる関係を失わないことを大切にするようになった。
守れない正解より、続けられる約束を
その人は、「一日一杯」という生活を、約3年間続けている。
もちろん、その間に一度も揺らがなかったわけではないと思う。
飲みすぎてしまった日もあっただろうし、本人の中で葛藤する日もあったはずだ。
それでも以前のように、お酒に生活のすべてを支配される状態へ戻ることなく、本人なりの形で飲酒量をコントロールしてきた。
もしあのとき、僕たちが断酒だけを正解として押しつけ続けていたら、どうなっていただろう。
本人は表面上、「分かりました」と答えながら、隠れて飲んでいたかもしれない。
訪問看護師に本当のことを言わなくなり、関係そのものが切れていた可能性もある。
医学的に正しいことを強く伝えていたとしても、本人の生活はかえって危険な方向へ進んでいたかもしれない。
一方で、「一日一杯」という本人も納得できる約束を一緒につくったことで、本人は自分の生活を自分で調整する余地を持てた。
僕たちも、本当の飲酒状況を聞きながら、必要な支援を続けることができた。
正しさを少し手放したからこそ、長く守られたものがあった。
それは、一日一杯というルールだけではない。
本人が大切にしていた楽しみであり、医療者との信頼関係であり、自宅で生活を続けるための安定だった。
訪問看護は、正解へ連れていく仕事ではなかった
訪問看護へ移ったばかりの僕は、利用者さんを医療者の考える正解へ近づけることが支援だと思っていた。
薬はきちんと飲む。
危険なものはやめる。
医師との約束は守る。
もちろん、それらを伝えることは今でも必要だと思っている。
本人の希望を尊重することは、専門職としての責任を手放すことではない。命に関わる危険があれば、はっきりと伝えなければならないし、必要であれば医師や他職種とも連携して介入する。
ただ、正しい答えを知っていることと、その答えを本人の生活の中で実現できることは、別の問題だった。
どれほど理想的な方針でも、本人が納得できず、続けられなければ意味がない。
訪問看護師にできるのは、本人の生活を完全に管理することではない。
医療者がいない時間にも、本人が自分で選び、失敗したときにはもう一度選び直せる生活を一緒につくることだ。
前回の記事で、僕は利用者さんに興味を持ち、その人の人生を知ろうとすることの大切さを書いた。
この人との関わりを通して、その先にあるものも教えてもらった。
その人を知れば知るほど、医療者の正しさだけでは決められなくなる。
何を大切にしてきたのか。
何を失いたくないのか。
どこまでなら本人も頑張れるのか。
その人の答えを聞いたうえで、命と生活の両方を守れる道を一緒に探していく。
それは、ときに遠回りに見える。
けれど、守れない正解を押しつけるよりも、本人が納得して続けられる一歩のほうが、結果として遠くまで進めることがある。
訪問看護では、「正しいこと」が正解とは限らなかった。
本当に必要だったのは、医療者が用意した答えを渡すことではなく、本人が自分の人生の中で守り続けられる答えを、一緒に探すことだった。
