【体験記】令和8年熊本地震・新八代駅で被災。自力で帰るまでの3日間で分かったこと
まず、令和8年熊本地震で被害に遭われたすべての方に、心よりお見舞い申し上げます。今もなお、現地では捜索と復旧が続いています。
この記事は、たまたまその場に居合わせただけの一人の旅行者の記録です。武勇伝でも、成功談でもありません。ただ、極限状態で「何を知ることができて、何を知ることができなかったか」「その中でどう決めたか」は、いつか誰かの役に立つかもしれないと思い、記憶が薄れないうちに書き残しておきます。
結論を先に書きます。災害時に大切なことは、情報収集と意思決定だと思います。
7月28日 16時27分/新八代駅
私は関西に住んでいます。福岡での旅行を終え、そのまま帰省のため鹿児島へ向かう九州新幹線の車内にいました。
新八代駅を出ようとした、まさにその瞬間でした。
経験したことのない、ものすごい横揺れでした。通路をはさんで右端の席に座っていた方の体が、シートから浮き、そのまま床に叩きつけられていました。幸い、大きな怪我はされていない様子でしたが、見ていて肝が冷えました。
私は左側だったので無事でしたが、荷物棚のキャリーケースが吹っ飛んで通路に落ちてきました。誰にも当たらなかったのは、本当に運が良かったとしか言いようがありません。あれが人に直撃していたら、と思います。
正直、脱線を覚悟しました。
(後で知ったことですが、この地震は熊本県熊本地方で発生したマグニチュード7.1、宇城市と氷川町で最大震度7。私がいた新八代駅のある八代市は、まさに震源域のど真ん中でした。)
車内の30分
体感で30分ほど、車内で待機しました。停電で空調が止まり、7月の車内はみるみる暑くなっていきます。暑さがはっきり体感できるようになってきた頃、比較的すぐに降車させてもらえました。
これは、後から考えるととても運が良かったことでした。線路上で立ち往生した列車では、乗客が車内で一夜を明かすケースもあったからです。
早い段階で列車の外に出られたかどうかは、自分で選べることではありません。ただ結果として、私は早めに次の行動を考え始めることができました。それだけのことですが、ここからの3日間に効いてきたと思います。
最初の判断:まず飲み物を確保する
駅に降りて、真っ先にしたことは飲み物の確保でした。
構内の災害対策用自販機で、水を1本、お茶を1本購入。この時点でアプリ決済はもう使えなくなっていたので、現金で買いました。ほかの自販機は停電で沈黙していて、動いていたのはこの自販機だけです。
ここでの学びは2つあります。
停電下でも動く設備がある。それがどこにあるかを、平時に何となく意識しておく。
現金を持っておく。 キャッシュレス派こそ、数千円の現金を財布の奥に入れておくべきです。
水はその日のうちに飲み切り、翌朝は避難所で空のボトルに水を入れ直して持って出ました。空容器は、それ自体が装備です。
お茶のほうは、手をつけずに残しておきました。これが翌日、思いがけない形で役に立つことになります。
駅前で過ごした2時間
降車したものの、そこから先はどうすることもできませんでした。
駅前で、乗客みんながJR職員の方の情報を待つ状態が続きました。体感では2時間ほどだったと思います。正確な時間は覚えていません。動いていいのか、待つべきなのか、どこへ行けばいいのか。何も分からないまま、ただ待つ時間です。
この2時間で、通信の状況がはっきりしました。
スマホのアンテナは立っている。でも、ネットは何をやっても繋がらない。 回線が混み合っていたのだと思います。一方で、通話はできました。
なので、この待ち時間のうちに家族へ電話をかけ、自分が無事であること、いま新八代駅にいることだけを伝えました。結果的に、これは正解でした。この後もネットは長時間使えないままだったからです。
待ち時間は、手持ち無沙汰の時間ではなく、通信手段が生きているかどうかを確かめるとともに、繋がる手段で、繋がるうちに、必要な人へ、伝えるべきことを伝えておく時間でした。
そうしてしばらく経ってから、避難所へ誘導されました。駅から徒歩10分ほどの公民館です。
避難所の夜
そして、そこに着いたら「解散!あとはご自由に!」でした。誰かが最後まで面倒を見てくれるわけではありません。ここから先は、自分で考えて自分で決めるしかない、というスイッチが入った瞬間でした。
公民館の体育館にはクーラーがなく、雑魚寝です。水とタオルの支給はありました(自由に取っていく方式)。食料の配給は、翌朝のパンだけだったと思います。
発電機が回っていたようで、外の電灯の光が体育館の中まで入ってきていました。真っ暗ではありません。ただ、余震が続き、また、暑さと硬い床で、ほとんど眠れませんでした。
そして、どこかから小さくラジオの音が聞こえていました。あの音は、今でも耳に残っています。
ネットが繋がらない、ということ
改めて書くと、あの夜の私の状況はこうでした。
ネット:全滅
通話:生きている
ラジオ:持っていない
つまり、自分から情報を取りに行く手段が、ほぼゼロでした。
たとえばこの地震では、有明海・八代海に津波注意報が出ていました(18時10分に解除)。私はそれを知りませんでした。結果的に何も起きませんでしたし、避難所は内陸側でしたが、「知らないまま過ごしていた」という事実は残ります。
情報が途絶えるというのは、「知らない」ことにすら気づけない状態になるということです。
あの夜、聞こえていたラジオの音の主は、少なくとも私より状況を知っていたはずです。数千円の携帯ラジオひとつで埋まる差でした。次は必ず持っていきます。
なお、モバイルバッテリーは持っていました。これのおかげで、翌日ホテルに入るまでスマホの充電が尽きることはありませんでした。加えて避難所では、画面の輝度を落として消費を抑えました。 停電下ではスマホが切れた瞬間に、唯一生きている通話手段まで失います。細かいことですが、こういう節約が効いてきます。
というのも、私は「もうネットが繋がるようになったかもしれない」と思っては、何度も何度も画面を開いていたからです。結局その日は一度も繋がることはありませんでした。繋がらないネットを確認する動作そのものが、バッテリーを削っていきます。 輝度を下げておいて、本当に良かったと思います。
7月29日 朝/情報を「取りに行く」
翌朝、私は駅に戻りました。
ネットで調べられないなら、人から聞くしかない。 そして、交通情報が最も集まっている場所は駅です。これが、今回いちばんうまくいった判断でした。
駅員さんから得られた情報は、こうでした。
JRが臨時バスを出す計画は、今のところない
熊本市まで行ければ、ライフラインが生きているので何とかなりそう
空港は動いている
そして駅には、現在の運行状況が紙で貼り出されていました。ネットが繋がらない私にとって、この紙が唯一の一次情報でした。
内容は明快でした。九州新幹線は博多〜熊本、熊本〜鹿児島中央とも終日の運転取り止め。在来線も、鹿児島本線の熊本〜八代が始発から運転取り止め。
南に目を向けると、鹿児島本線は川内〜鹿児島中央が通常どおり動いていました。ただ、川内駅まではここから100kmほどあります。動いている在来線にたどり着くまでが、そもそも無理でした。つまり、鉄道で動く手段は完全に断たれていました。
ここで鹿児島への帰省は諦めました。 目的地を変えて、より近い熊本市を目指し、そこから関西へ帰る。この時点で、旅の目的が「帰省」から「帰宅」に切り替わりました。
同時に、街を見て分かったこともあります。
レンタカー、バス、ホテル、コンビニ、すべて休業
タクシーの運転手さんも、多くが休んでいる
当たり前のことですが、忘れがちなことです。現地の人も全員が被災者です。 「お金を払えばサービスが受けられる」という平時の前提は、根こそぎ消えます。
そして、「ここで待っていても迎えは来ない」「北へ行けば状況が良くなる」「空港は生きている」。この3つが分かった時点で、私の方針は決まりました。
待っていても状況は良くならない。自力で熊本市まで北上し、空港から飛行機で脱出する。
歩く、という決断
新八代駅から熊本駅までは、およそ35km。
私は高校時代、毎年47kmを歩かされる苦行のような行事がある学校にいました。だから「35kmくらいなら行けるっしょ」と思えたのです。正直、少し楽しさすら感じていました。
そして、ただ闇雲に歩いたわけではありません。国道3号線を目指しました。 幹線道路沿いであれば、走っているタクシーを拾えるかもしれない。そして北へ進んで被害の少ない地域まで抜ければ、営業しているレンタカー店があるかもしれない。移動手段に出会える確率が、単純に高いからです。
これは「完歩する計画」ではなく、「歩きながら、より良い手段に出会う確率を上げる計画」でした。ここは意識的でした。
ただ、歩き出してすぐに気づいたことがあります。道そのものが被災しているということです。歩道は舗装が持ち上がり、路肩が落ち、あちこちにコーンが置かれていました。「道さえあれば歩ける」と思い込んでいましたが、その道が無事とは限らない。当たり前のことを、歩き出してから知りました。
一緒に歩いた人と、別れたこと
避難所の体育館で隣になり、色々と話をした方がいました。この朝は、その方と一緒に避難所から新八代駅まで歩き、二人であの掲示を見ました。
そして駅で、私は「自分はこれから歩いて熊本市を目指します。どうされますか」とだけ伝えました。ご自身の判断に委ねました。歩けるかどうかも、歩くべきかどうかも、その方にしか判断できないと考えたからです。
その方は、ここに留まっていても状況が好転しそうにない、と私へ伝え、一緒に行くと決められました。
しかし歩き始めてみると、酷暑の中での歩行でもあり、その方は体力的に厳しい様子でした。途中で2度、休憩を取りました。手をつけずに残しておいたお茶を渡したのは、このときです。それでも状況が良くならなかったため、3度目は交番に立ち寄り、病院へ連れて行ってもらう手配をお願いしました。そこからは私一人で、北を目指しました。
歩くという選択肢は、誰にでも使えるカードではありません。
今回、私は一人でした。だから歩けました。もし家族と一緒だったら、この判断はきっとできなかったと思います。避難所に留まるという、まったく別の決断をしていたはずです。
「自分の体力を正しく見積もること」と、「他人の体力を正しく見積もること」は、別の技術です。そして後者のほうが、はるかに難しいと知りました。
一人になってからも、道中では屋根が落ち、潰れてしまった家を何軒も見ました。自分が「歩けば帰れる」と考えていられるのは、ここに住んでいないからだ。 そう思い知らされました。
見上げると、高架の上には損傷した車両が取り残されたままでした。地震のあの瞬間、そこを走っていた方がいたということです。
一方で、路面は割れて隆起しているのに、車はちゃんと動いていました。その車列を見たときに、「幹線道路沿いならタクシーを拾えるかもしれない」という当初の読みは間違っていなかったと分かりました。
タクシーが捕まった
スタートから10kmほど歩いたあたりで、たまたまタクシーを拾うことができました。
ただし、運転手さんは空港まで行くことには難色を示されました。ガソリンが心配だとのことです。
なので私は、「行けるところまでで構いません」とお願いしました。すると運転手さんは、「空港までトライしてみます」と言ってくださいました。
結果、空港まで送っていただけました。本当に、ありがたかったです。
道中、運転手さんから聞いた話で、燃料事情の深刻さを知りました。車中泊をしている方が多く、給油の需要が跳ね上がっている。在庫が尽きたスタンドも出ている、と。
言われて注意して見るようになると、確かにそのとおりでした。地震の被害でそもそも閉まっているスタンドがあり、開いているところには例外なく長蛇の列ができている。需要が増えているのに、供給側の数が減っている。 燃料が心配だという話の意味が、ようやく実感として分かりました。
料金は12,000円強。タクシーに乗っている間にネットが繋がるようになり、支払いはPayPayで済ませることができました。
決済手段が「アプリ→現金→またアプリ」と移り変わったのが、今回の3日間を象徴していると思います。どれか1つに全振りしないこと。
ネットが繋がってまず確認したのは、LINEです。福岡まで一緒に旅行していた友人達と、家族に、現在地とこれからの予定を伝えました。前夜の電話では「無事だ」としか言えませんでしたが、ここでようやく、どうやって帰るつもりなのかまで共有できました。
通信が戻ったら、まず自分の状況を更新する。 心配している人を減らすことは、自分が身軽に動くためにも必要なことでした。
そして、車窓からの景色によって、自分がどれだけ大きな災害の中にいたのかを気づかされました。
途中、規制線の張られた大きな商業施設が見えました。報道によれば、爆発があり、人的被害も出た場所です。まだ対応が続いているのが、車内からでも分かりました。
私はただ、通り過ぎることしかできませんでした。 自分は「帰る」という目的だけを持って、この場所を横切っている。その事実が、しばらく頭から離れませんでした。
空港で降りるとき、運転手さんは「このあとガソリンスタンドに寄って帰ります」とおっしゃっていました。
私を空港まで運んでくださったぶん、燃料は確実に減っています。あの長い列に並んで、無事に給油できていたらいいのですが。降りたあとも、しばらくそのことを考えていました。
空港で分かった、次の壁
空港のカウンターで航空券を確保しようとして、告げられたのは──本日、全便満席。
考えてみれば当然です。同じことを考えた人が、大勢いたわけですから。
ここで私はすぐに切り替えました。
今日は帰れない。ならば、今日の「寝床」を最優先で確保する。
翌朝の便を押さえ、繋がるようになったスマホでホテルを探しました。
熊本市内は、まったく空きが出てきません。報道関係の方が多く入っておられたのではないかと想像しますが、理由は分かりません。粘って探した結果、空港近くに穴場のような宿を見つけました。トレーラーハウスのような狭い部屋でしたが、クーラーがあって、ベッドがあって、シャワーが浴びられる。 前夜が蒸し暑い体育館の中での雑魚寝だっただけに、最高でした。
食べておく
宿を押さえてから、空港内のレストランで昼食をとりました。被災後、初めての食事です。
正直、腹は減っていませんでした。緊張していたのだと思います。
それでも、食べておいた方がいいと判断しました。「食べられるときに食べる」は、次の行動のための燃料補給です。 空腹を感じるかどうかで判断してはいけない場面だったと思います。
歩いてホテルへ向かったこと
この日、空港からホテルまではあえて歩きました。 約6km、1時間半。
翌朝タクシーが来なかった場合に、自力で空港まで行けるのかを確かめておきたかったからです。
歩いてみて、ぞっとしました。その道は、下りだったのです。 つまり翌朝、歩くことになれば、荷物を持って上り坂を6kmです。
翌朝の空港行きタクシーは、ホテルのチェックイン時に予約してもらいました。「地震の影響で、取れない可能性があります」と言われましたが、無事に確保できました。
結果的に、この1時間半は無駄になりました。それでも、やっておいてよかったと思っています。「最悪の場合はどうなるか」を知り、それでも何とかなると安心感を得ることができましたし、覚悟を決めることができました。
7月30日/帰還
翌朝、避難所で頂いていた非常食のパンを朝食にし、チェックアウト後、予約してもらったタクシーで空港へ。そして飛行機で、無事に関西へ帰り着きました。
結局、鹿児島には一歩も入れずじまい。とんぼ返りの帰省になりました。
まとめ:情報収集の3原則
1. ネットが繋がらない。通話とラジオは生き残る 電波が立っていても、繋がらないことがあります。私の場合、ネットは全滅、通話だけが生きていました。そして避難所では、誰かのラジオだけが情報を流し続けていました。数千円の携帯ラジオが、あの夜の最適解でした。
2. 情報が集まる「場所」へ、自分から行く 駅に戻ったのが正解でした。交通情報は駅に、生活情報は役所や避難所の掲示に集まります。待っていても情報は来ません。
3. 「取れていない情報がある」と疑う 私は、すぐ近くの八代海に津波注意報が出ていたことを、その場では知りませんでした。落ち着いて見える状況ほど危険です。自分の手元に届いていない情報が必ずあると、前提に置いておくべきでした。
まとめ:意思決定の5原則
1. 判断の「根拠」を1つ以上持ってから動く 「熊本市はライフラインが生きている」「空港は動いている」。この2つを掴んでから歩き出しました。根拠なしの移動は、ただのギャンブルです。
2. 現地の人も全員が被災者だと理解する レンタカーもバスもコンビニもホテルも止まります。「お金で解決できる」という前提を、いったん捨てること。
3. 手段を1つに賭けない 決済(アプリ/現金)、連絡(ネット/通話)、移動(徒歩/タクシー/飛行機)。すべて二重化しておくと、詰みません。
4. 補給は「必要になる前」にやる 飲み物は駅に降りてすぐ。食事は空腹を感じる前に。必要になってから準備して、できなかった場合、テンパります。
5. 最悪のシナリオを、実際に確かめる 6kmの下見が、私に「明日は上り坂だ」という現実を教えてくれました。頭の中のシミュレーションは、だいたい甘くなりがちです。
いま、持ち物を見直すなら
携帯ラジオ(今回いちばん痛感しました。次は必ず入れます)
モバイルバッテリー(今回いちばん効いた持ち物です。あわせて、スマホ画面の輝度を落とすだけでも出番を減らせます)
現金(数千円でいい。財布の奥に固定で)
歩ける靴(旅行中はこれが命綱になります)
空のペットボトル(給水できる場所は意外とあります)
常備薬、簡単な食料
後日談
この記事を書いたあと、途中でお別れした方と連絡を取ることができました。
あの後、病院で手当てを受けたそうです。そして、避難所へ戻ることも考えたけれど、そこに留まっていてもどうしようもないと思い、もう一度歩き出すことを決めたそうです。
途中、通りかかった方に声をかけていただき、車で北のほうまで送ってもらえたとのこと。その日は別の避難所で一晩を過ごし、翌日は運転再開したバスと新幹線を乗り継いで、無事に関西へ帰り着かれたそうです。
同じ場所で、同じ情報を見て、それぞれが歩くと決めて、それぞれ違うルートで帰ってきた。 そのことが、何だか嬉しくて、しばらくメッセージを読み返していました。
おわりに
忘れられない夏休みになりました。
「貴重な経験だった」と言うのは、被害に遭われた方々の前では不適切かもしれません。それでも、あの3日間で自分が何を考え、何を選んだのかは、正確に残しておく価値があると思っています。
私は運が良かっただけです。新幹線をすぐに降車できたのも、タクシーに出会えたのも、宿が見つかったのも、すべて偶然に助けられました。
ただ、一つだけ確かなのは、偶然を拾えるかどうかは、その時に自分がどこにいて、何を知っていて、何を決めているかで変わるということです。
現地の一日も早い復旧を、心よりお祈りしています。
