篠澤広の決意表明、あるいはバンドサウンド礼讃としてのサンフェーデッド
※注意!
この記事には学園アイドルマスター篠澤広親愛度コミュのネタバレ、過剰な深読みなどが含まれます。苦手な方はご注意ください!
・サンフェーデッドを聴こう!
私が学園アイドルマスター関連楽曲で一番好きな曲は『サンフェーデッド』です。この記事を読もうと思って『サンフェーデッド』を聴いていない、という人はあんまりいないと思いますが、良いものは何回聞いても良いので、ぜひどうぞ。
かっこよくて、綺麗で、情景が見える良い曲です。MVも最高で、最近改めて良さに気づき、何度も見返しています。ついには曲を聴いているだけだったのに学マスそのものも始めてしまいました。
普段は1曲についてじっくり考え込むことはないのですが、この曲についてはMVを見返したり、ゲーム本編で篠澤さんの人間性が分かってきたりで、だんだんと考えるようになってきました。以下はその記録です。
1.篠澤広の決意表明としてのサンフェーデッド
『光景』は篠澤広による自己紹介の曲であると思う。ままならないアイドルの世界に飛び込んだ彼女の瞳に、その世界がどれほど輝いて見えるかが描かれた。
『コントラスト』は篠澤広の感じる楽しさが全面に溢れている曲だと思う。好奇心の赴くままに、アイドルとして目一杯はしゃぎ回る姿が描かれた。
そして『サンフェーデッド』。この曲はれっきとしたアイドルになった彼女がファンと見つめ合い、対話し、決意表明する曲であると考える。
あ,日焼け止め 塗らないままでいたな
あんなにも大きな声が肌すれすれに来ることも,
光は指輪みたいになること,も
いずれ全部 明るい道の秘密のように思い出す.
歌詞の冒頭。「あんなにも大きな声が肌すれすれに来る」というのは、アイドルにとっては歓声を浴びるとき、すなわちライブのことであろう。「光は指輪みたいになる」というのも、『光景』のライブにおいて、「わたしが」の部分で客席の後方に手を伸ばした彼女が見たものではないかと思う。


ところでこの曲の名前は『サンフェーデッド』である。sunfadedはだいたい「日光に色褪せた」という感じの意味であるが、そのようなタイトルから「日焼け止め 塗らないままでいた」という歌詞がいきなり歌われるのは何やら不穏だ。そしてライブでの感覚について「思い出す」のであるから、この曲はライブ後だろうか。不穏な雰囲気を汲めば、アイドルとしての「篠澤広」が全て終わってしまったあと、とも考えられるかもしれない。

最初の出目は1と4
ゾロ目にはなっていない
僕たちは(いつ出会うだろう?)
出会うときは
僕にとって正しい人の,
僕にとって正しい声でいる.
まずは単に「僕たち」が篠澤広とそのファンのことを指している、として考える。「出会うとき」というのはライブのことであり、「僕にとって正しい人の,僕にとって正しい声」とは篠澤広からすれば自分を見てくれて歓声を浴びせてくれるファン達のこと、ファンからすれば推している篠澤広が紡いでいる歌声のことを指しているように思う。
だが親愛度コミュを踏まえると、この「僕たち」とは「篠澤広自身」と「アイドル『篠澤広』」の2人を指しているのではないだろうかという気もしてくる。
『サンフェーデッド』実装とともに追加された親愛度21〜27話では、かわいいアイドルになりたいのに実際には神格化が進んでいくアイドル「篠澤広」のイメージに悩む彼女が描かれた。
「僕たちは(いつ出会うだろう?)」とは、かわいいアイドル篠澤広と神格的なアイドル篠澤広、つまり理想と現実が重なるときは来るのか、という問いかけのように思える。(いつ出会うだろう?)が括弧書きなのも、アイドルとしてではない篠澤広の思いの表れではないだろうか。そしてこの問いかけに答えるのは誰なのかと言われれば、それはPであると思う。
篠澤広は抱えた悩みに対し、最終的に「そのうちなんとかする。あなたが。」とPに信頼を寄せる。そして「出会うときは」=重なるときは、Pのプロデュースが功を奏している、つまり「正しい人の,正しい声でいる.」ということではないだろうか。

描かれている男女がPと篠澤さんを
指していると考えるのはやや深読みか
ではPはというと、篠澤広がH.I.Fで一番星を取れるよう神格を上げる方法として「狙って奇跡を起こす」こと、そのため共に窮地に飛び込むことを提案する。この「奇跡」という言葉は篠澤広をプロデュースする上で重要な言葉であるように思う。『サンフェーデッド』のMVでは「奇跡」について非常に分かりやすく描写されている。

それがサイコロである。ぼやけているが投げられたサイコロは先ほどよりも多い4個。ゾロ目にはなっていないものの、比較すると2個中1個だった1の目が4個中3個と増えている。これは篠澤広の神格が高まっていくことの描写ではないだろうか。
ちなみに親愛度コミュでは現時点で一番星の十王星南に勝てる確率は0%だから、それを1%にしていこうというくだりがある。4個のサイコロを投げて1がちょうど3個出る確率は約1.54%なので、この時点での神格ではまだ1%を狙って出すという奇跡は起こせていない。つまり、まだ十王星南に届かないことが示唆されているような気がする。

游ぶ指先や睫毛や
髪留めがあなたたちの姿を覚えている
煌めきと暗闇の層に踊り入る僕のことを誰かが見てる
安心して,僕は帰らない,ほらね
この部分は篠澤広からファンへの明確なメッセージであると思う。「あなたたち」とはファンのことであり、「煌めきと暗闇の層に踊り入る僕」はライブの演出に彩られた篠澤広自身であり、ファン達はそれを見ている。
そして冒頭の不穏さに応じるかのように「安心して,僕は帰らない」と言う。

確率は約0.0000099%

彼女が「帰る」とするならばそこは学問の世界だろう。得意分野においてはなにをやっても上手くいき、苦しいことなんかなんにもない。だがそこには「帰らない」と言い放った彼女はまったく向いていないアイドルという分野で奇跡を起こし、「ほらね」と微笑む。これが篠澤広の、アイドルとしての決意表明でなくて何であろう。
アイドルとしての篠澤広はまだまだ終わらない。困難と苦しみの先に奇跡を起こし続けるという宣言である。
どこでも ああ,何度でも目を瞑るほど日が指す方で,
僕は言う,
僕は禁じる,
僕は覚える,
僕は慄く,
僕は踊る,
僕は生まれる,
僕は褪せる,
僕は判断する.
『光景』のラスト、篠澤広は「選ぶ わたしが」と歌う。喜びも苦しみも、受動的にではなく自ら選び取るものであるというその精神性は、『サンフェーデッド』においても一貫している。それが分かるのがこのラストである。並んだ数々の動詞の、主語はすべて自分自身なのだ。
2.バンドサウンド礼讃としてのサンフェーデッド
日本の芸術家、高村光太郎は美についてこのような言葉を残している。
いつたん此世にあらわれた以上、美は決してほろびない。
眞理はつねに更生せられて、一つの眞理から次の眞理へとうつりかわり、前の眞理はほろびる。それが眞理の本然である。
美は次々とうつりかわりながら、その前の美が死なない。紀元前三千年のエジプト藝術は今でも生きて人をとらえる。
私は音楽についても、もちろん同様のことが言えると思う。極端な話バッハの音楽が聴かれなくなる未来なんて想像できない。
ところで、バンドサウンドは時代遅れということが言われて久しい。Googleで「バンドサウンド」と検索すると「時代遅れ」が予測変換にも出てくるほどである。この原因はなぜだろうか。デジタル音楽やヒップホップの台頭? コスパの悪さ? 要因は色々考えることができる。しかし、高村光太郎の言葉に則れば、バンドサウンドという美が一度この世にあらわれ世界を席巻した以上は、時代に遅れていようが先取りしていようが、どちらにせよ些末なことなのである。あらわれさえすれば、その美に魅せられた人もまた必ず現れ続ける。
今まで歌詞を読んできて、この曲は篠澤広の決意表明の曲であると考えた。だがこの歌詞を歌うための演奏として、なぜバンドサウンドが選ばれているのか。それはこの曲がバンドサウンド礼讃(ひいてはロック礼讃)の曲とも捉えられるからだと思う。
まず一考したいのは、この曲における一人称が「僕」であることについてである。『サンフェーデッド』の作曲者長谷川白紙さんは1曲目の『光景』も作曲しており、『光景』での一人称は「わたし」となっている。これは本編の篠澤広本人の一人称と一致する。
ではなぜ『サンフェーデッド』で篠澤広は「僕」と歌うのか。私は、「バンドサウンド」という概念それ自体がこの曲の主役として解釈できる、と考えている。バンドサウンドそのものの一人称として、「僕」が選ばれているのだと思う。
あ,日焼け止め 塗らないままでいたな
あんなにも大きな声が肌すれすれに来ることも,
光は指輪みたいになること,も
いずれ全部 明るい道の秘密のように思い出す.
そう考えると、先ほどは篠澤広のライブ後として読んだこれらの歌詞を捉え直すことができないだろうか。
この光景はかつてのロックバンド全盛の時代、人々がバンドサウンドに大熱狂していた頃のライブのように思える。そしてそれらがバンドサウンドにとって「思い出す」ものであるとなると、先ほど篠澤広に感じた不穏さとは違い、郷愁を帯びてくる感覚がある。
僕たちは(いつ出会うだろう?)
出会うときは
僕にとって正しい人の,
僕にとって正しい声でいる.
ここのフレーズは、主流ではなくなったバンドサウンドが現代の人々とどう出会うのか、という意味だと解釈している。
そしてロックは反体制的、反権力的な音楽であるから、世間的にとか大衆的にとかではない、リアルな主張を行う。それがつまり時代が変わってもロックは「僕にとって正しい人の,僕にとって正しい声でいる.」ということではないだろうか。
游ぶ指先や睫毛や
髪留めがあなたたちの姿を覚えている
煌めきと暗闇の層に踊り入る僕のことを誰かが見てる
安心して,僕は帰らない,ほらね
前半2行は歌い出しの流れを汲んで、かつての観客の姿を覚えているバンドサウンドの様子である。
そして、この解釈における「煌めきと暗闇の層に踊り入る僕」とは輝かしいばかりではない負の側面もある歴史を抱えるロックのこととも、全盛を過ぎてゆくバンドサウンドの栄枯盛衰のこととも考えられる。だが何にせよ、それらのことを現代でも「誰かが見てる」のである。
そしてそのジャンルのファンである「誰か」に対し、「安心して,僕は帰らない,」と宣言し、「ほらね」という呼びかけに答えるように激烈なギターソロが炸裂する。ギターが大きな音で鳴っていると気持ちがいい。ロックが好きになった最初の感覚に立ち返るような気分にさえなる。バンドサウンドは依然終わってなどいないことが、実際のバンドサウンドをもって伝えられるのである。
実際、この曲が実装された頃twitterが騒然となり、多くの人たちが「『サンフェーデッド』が好きならぜひこの曲を!」とたくさんの名曲を紹介していたことを覚えている。その流れを見ても、やはりジャンルそのものが終わることなどないな、と思う。
以上から、『サンフェーデッド』はバンドサウンド礼讃の曲であるとも言えると思う。
3.sunfadedとは何なのか
(th-th-th-th-th-things made me who I became today without knowing who made them,tapes,records,books,everything I found great was sunfaded.)
これは『サンフェーデッド』で篠澤広の歌唱が終わったあと、彼女の声ではない声で読み上げられる英文である。下手なりに翻訳させてもらうと「誰が作ったのか分からないけれど今日のわたしを形作るものたち、テープ、レコード、本、わたしが見つけた素晴らしいものすべては日光に色褪せた」だろうか。この曲においては他に日焼け止めを塗らないままでいた「僕(篠澤広)」も日光に色褪せる対象となるだろう。
日光に色褪せた、という意味だけ取れば「sunfaded」という単語にはマイナスなイメージが浮かぶ。だが、この曲は篠澤広の決意表明であり、バンドサウンド礼讃であると今まで書いてきた。この文脈で「sunfaded」がマイナスな意味を持つ単語として使われていると言うのは無理があるだろう。
ではこの曲における「sunfaded」とは何なのか? 本やレコードは本来高温多湿を避け、直射日光の当たらないところで管理するのが望ましい。日焼けしてしまったのであれば、ふさわしくない環境に置きっぱなしにしていたということになる。ところで、ここまで読んだ方ならふさわしくない環境に自らの身を置くことで喜びを感じているアイドルを1人知っているはずだ。

それはもちろん篠澤広である。彼女は日焼け止めを塗らないままでいた。塗り忘れていたのではなく、「塗らないままでいた」のである。自ら日に焼かれることを選んだのだ。日陰に隠れることもしない。「日が差す方で,僕は」と歌う。
つまりこの曲における「sunfaded」とは、困難な環境にあってもブレないもの、といったようなニュアンスを含むのではないだろうか、と私は考える。バンドサウンドについても、「ロックは死んだ」などと何十年も前から言われ続けたり、新しい音楽が今この瞬間も発展していたり、音楽シーンのメインストリームでなくなったりしても、その成長は止まっていない。現代でも少し探せば良いロックバンドは見つかるものだ。この曲を歌う篠澤広も、まだ未来ある15歳の少女である。そして身を焦がしながらも太陽、すなわち大きな光に手を伸ばす。「わたしが見つけた素晴らしいものすべて」もまた、それがたとえ誰が作ったのか分からないほど昔のものだったとしても、時代の流れに屈しなかったものたちのことを指すのではないだろうか。
・サンフェーデッドをもっと聴こう!
私の『サンフェーデッド』に関する妄言はこれで以上です。確率とか和訳とか書きましたがもしかしたら間違っているかもしれません。
ここまで読んでくださる方がいらっしゃるのか分かりませんが、『サンフェーデッド』という楽曲をより楽しむ一助にでもなれましたら、幸いです。
では、良きサンフェーデッドライフを。

よろしくお願いします
