「今日は死ぬのに持ってこいの日だ」──魂の歓びで生きる今この瞬間
『今日は死ぬのに持って来いの日だ』
ネイティブアメリカンの言葉でこのようなものがある。説明を加えようとAIにリサーチしてもらったら次のような詩の一部であることを発見した。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
「今日は死ぬのに持ってこいの日だ」が教えてくれたこと
死を終わりではなく、宇宙の循環としてとらえる、ワンネスが息づいた詩となっている。死を恐れるのではなく、今ココこの瞬間を生きる悦びが、生き生きと伝わってくるようだ。そして、五次元意識で見ている世界、つまり自然や宇宙との一体感、心の静けさ、そして人生の完成を物語っていると感じる。
昨日のLOVE YOUR BODYおがすみ会長との対談TikTokLIVE『終末論をつまみにオトナが語る、愛と未来の話』では様々な気づきがあった。終末論というワードにフォーカスを当てるとRAS(脳の証拠集め機能、賦活系毛様体)の働きで、いろんな情報が引き寄せられ、自分の中にあった死生観をあらわにすることになるかもしれない。そんな中で、心理学講座でもあった話だが『人は命が限られている』とわかると何をするかと言えば、実験の結果、多くの人に感謝を伝えにいくということがわかっているのだと言う。
そして、私たちが死を前にして行うことは本当は魂のやりたいことであり、もうそれ以外は全て自我が形成した、偽の願いのような気がする。過去の記憶の延長からくる、不安と恐れという幻想が生成した幻想の願い。つまりわたしたちがこの地球に生まれてきたのは、何かを成したいからでもなくシンプルに『この肉体を使って愛と感謝を表現したい』という魂の具現化のためではないかと気づいたのだ。
そうだ、そうだった。私の魂がうんっと喜んだ。本当にしたいのは魂の表現だけなんだ。生活のためにお金を稼ぎたいのでもなく、誰かに何かを教えたいのでもなく、誰かを助けたいのでも導きたいのでもなく、純粋に魂の表現をしていきたいのだ。そしてそれにもっとも情熱を感じていて、もうそれだけで十分なのだと言っている気がする。ああ、そうだった。もうそれ以外何も見えなくなるくらいに、愛と感謝に没入したいのだ。涙が込み上げてきた。
報酬よりも大切なものに気づいたとき、魂は歓びに震える
今のわたしは発信が好きで、それが直接誰かのお役に立ったり報酬を生み出したりするとはとうてい思えないが、でも何も気にしないでいいとするなら、やっぱりそれをやっていたい。ぶっちゃけ、話もうまくなければ文章が得意なわけでもない。好きこそものの上手なれなんて嘘だけど、下手でもいいからやっていたいと、魂は叫んでいる。自我が「こんなレベルで趣味にも満たないんじゃない」なーんて、裏でこっそりささやきかけていたけれどね。
しかし徐々に…特にTikTokでは、日々誰かから送られる真心こもった感謝のメッセージだったりLIVEのギフトだったりと、愛と感謝が誰かの愛と感謝と共鳴し合い、エコーのように還ってきているのを感じる。きっとこれが拡大していくのだろうとうっすらわかる。しかし今までは目先のお金に焦って、すぐに報酬に繋がらないと困るからと、なんとなく集中できなかった。けれど昨日再認識したのは、自分や同じ愛と感謝で共鳴できる人たちとの共同創造としてのクリエイティブ、発信にそろそろ夢中になってもいいんじゃない?ってことだった。売れないアーティストたちがそれでも好きなことに没頭するあの生き方にどこかシンパシーを感じていたんだ本当は。でも物欲まみれのわたしは、あんな生活が辛そうだからちゃんと高い報酬が得られるものがいいよねと自分に言い聞かせて、遠まきに見ていたのかもしれない。
努力ではない。突き動かされるような情熱の感覚
魂が欲しているものに没頭するとき、傍から見たら頑張ってるよね~な状況だとしても、こちらからしたら頑張ってるのではなく、突き動かされているだけで頑張りでも努力でもない。そしてまるで宇宙が手を貸してくれているかのように、不慣れなこともすぐに習得したり、苦手だと思い込んでいたものがすぐにできたりと奇跡のような体験をすることとなる。昨日のわたしも苦手なパソコン作業に没頭して、LIVEの告知をあっというまに作り上げた。今までなら、いやすぎて数日要しただろう作業が思いのほからくーにできたのだ。ああ、コレだ…この感覚だってようやく情熱を思い出したのだ。
苦手意識や不慣れ意識も過去の産物。わたしコレ苦手だからやりたくないなと考えているのは自我の声で、記憶を持たない生まれたての自分になれば、おもちゃを手にした子供のようにワクワクと取り組めるのだ。そう、そこにあるのが『愛と感謝を表現する機会』の創造、つまりライブやセミナーの告知業務だった。
多くの人に来てほしいとか、どうやったら目につくかなとか、そういう意図すらももはやどうでもよい。創り上げていく今ココこの瞬間にある魂の悦び、ただそれだけ。意図が完全に滅した純粋意識、ああ、コレだわコレ。何かのために何かをするのでなく、ただそれをする。意味や意図や結果を全く要せずに。
禅が教えてくれた「目的も意味も超えた世界」
以前座禅の記事を書くときに、参考図書を探しに図書館に行って出会った本。そこには西洋的マインドフルネス瞑想と座禅の違いが書いてあり、わたしは魂が震えた。西洋のマインドフルネス瞑想は、目的と結果を優先する。瞑想の効果というものが証明されていて、その効果や結果を得るために瞑想をする。しかし座禅は効果や結果は全く求めず探さず証明もせず『ただ座る』。いうなれば座るためにただ座るのだそう。わたしはその禅の姿勢に感銘しときめいた。わかる、その感覚わかるって。
わたしもコロナ渦よりずーっと瞑想が続いているがなぜかって、ただ気持ちいいから。最初は全くそんなことなくてじっとしているのが苦痛で、もぞもぞする感覚だったし、それまで幾度となく瞑想にチャレンジしたけど、全て継続はできなかった。しかし今回は大好きだからやってしまうという感覚。なので、何かの結果や何かの目的は滅し、ただ座るに近しい。気持ちよくないときもあるし、でもそれがなんだって言うのって感じで、ただ座る。振り返れば副次的にこのような効果があるなとか、こういう結果に繋がったなと考えれば山ほどメリットあるけれど、もはやそんなこといちいち気にも留めないし、特段誰かに進めることもなければ、それを飯のタネにするつもりもない。この純粋意識だけで一日を過ごしていたあの頃に戻ろうと、魂はわたしに語り掛けているかのようだ。その生き方がマインドフルネスってことなんだと思う。
今ココこの瞬間に生きるとは、腐るほど聞いた耳タコの言葉だけれど、五次元意識にシフトしてからは、もう体感でそれが真実でそれしかないのよーって腑に落ちた。時間と言う概念はほとんどなく、時計を気にしない生活に変わった。時間やスケジュールに追われて日々を過ごしていたあの頃が、蜃気楼のようにかすんで見える。太陽の昇り落ちすらも無関係で、ただ自分の内側の時計に忠実に過ごすので、寝る時間だから寝て起きる時間だから起きるというのもなくなった。それは傍から見ればめちゃくちゃ不規則な生活だろうけど、わたしとしてはとてつもなく心地いい。魂になにひとつ我慢させていないから。今、ココこの瞬間の"感じ"が、自分で阻みさえしなければ無限に広がっていき、そこに過去も未来も誰かの生き方も同時に存在し、自由に浮かび上がってくる。時間が直線で流れるのではなく、球体のように広がっていく生き方に変わった。今ココこの瞬間に生きる、未来のために今を犠牲にするでもなく、過去の記憶の延長を生きるでもなく、真新しい生まれたてのこの瞬間の連続が生命なのだと知っている。素粒子が消滅しては誕生するように、わたしも地球も実は今ココこの瞬間の真新しい魂なのだ。そしてこの感覚を共有できる人と、今に共鳴し合う幸せを感じたいのだ。
「今日は死ぬのに持ってこいの日だ」と笑える在り方へ
終末論というムーブメントのおかげで、わたしたちの意識も変容していく。今日は死ぬのに持って来いの日だと天を仰いで清々しく笑える、そんな在り方に戻っていいのだと。魂は…宇宙は…微笑んでわたしたちを見ている。
つまりいつこの世界が終わったとて、なにひとつ怖いことなどない。自然の循環の中の自然な営みに感謝こそあれど、なにひとつ不満もないからだ。生命の終わりを一番感謝できるのが、真実なのかもしれない。死の苦しみも過去の情報の影響で生まれた幻想だと気づくだろう。
1人発信や1人LIVEは他者の介入や阻みがなく、自由だから大好きだけど、誰かとだから起こる化学反応がまたたまらない。共同創造の真の悦びの領域にようやくたどり着いた。わたしはずっと願ってた。誰かとの共同創造を。
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あなたとの魂の共鳴を心から楽しみにしております。
この記事の背景にある次元論の定義や、構造的解析の全データはGitHubにて公開・更新しています。https://github.com/marnakatani-bot/maria-dimension-map-
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