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小1で万引き、いじめ、父の沈黙──幼少期の闇と悟りに至る魂の旅


万引きが語る、本当の叫びとは

万引きをして捕まり、学校にバレた。教師からは万引きは悪いことだとコンコンと説教されたが、小1のわたしはそんなことすでにわかっていて「そんな話じゃないんだ。わたしたちがなぜそれをしたのかってこと、先生は全く興味がないんだな…」と、ちっとも心に入ってこない遠い世界の教師の話が、眼の前に流れているのをただぼんやりと感じていた。

連れ立って複数回「泥棒ごっこ」をしていたAちゃんがいた。未就学児のときから、目の前に住む同じ年のAちゃんとはよく遊んでいた。
わたしの家はちょうど学区の境界線で、東小学校を選んでもいいし、西小学校を選んでもいいんだよって、小学校の選択権がある珍しい現象がおきていた。仲良い二人だったが、Aちゃんは西小、わたしは東小を選んでいた。
どちらの小学校も見学に行ったけど、なんとなく西小には当時いじめてきていたサイコパス味のある怖い怖いいじめっこが居そうな気配がして、東小を選んだのだった。

いじめと孤独、大人が見ない苦しみ

ちなみにそのいじめっこには、どっかのアパートの最上階の踊り場に連れて行かれ、そこから頭を捕まれ手すりに押し付けられた。そして階下に広がるコンクリートの地面を見ろとぐいぐい押されて、落とされるという恐怖におののき抵抗すると、頭をごつごつと壁に打ち付けられた。この人は私を殺そうとしている…!という恐怖に、足腰はくだけ失神しかけたくらいだった。しかし言語化できないながらも、なぜその子に標的にされたかわかっていた。親に愛されていないと感じるとてつもない孤独感や生まれてきてよかったのかと感じるほどの自己価値の低さが共鳴しあい引き寄せあった。行き場のない悲しみや寂しさをどうしていいかわからなかったが、彼女は私と自分を同一化して、自害の代わりにわたしを害していたのだと思う。
そしてうっすらと彼女のその苦しみがわかっていたので、彼女のことを大人に報告したくはなかったのだ。私を死の恐怖に追い込むほどの相手なのに、彼女を守っていたわたし。しかしこれをうまく言語化できないから、大人目線で見れば、仕返しを恐れて大人に言えずいじめられている被害児童ということになるのだろう。違う、そうではない。わたしの中にあるのは「こうせざるを得ない私達の苦しみを、大人はもっとわかって」ということだ。
しかし大人から「言えなかったんだよね?」と聞かればうんとうなづき、「怖かったんだよね?」と言われればうんとうなづき「あの子がいじめたのね?」と聞かれればうんとうなづき、「もう二度としないように叱っておくね」と言われればうんとうなづくしかなくて、結局自分でも大人たちの言うように「いじめが解決すれば問題はなくなるんだ」と誤認してしまうという流れになってしまう。そうしてわたしたちは、嫌なことをされたら相手が悪いから、その行動をやめてもらうだけという学習を繰り返してしまう。
でも本当に私達が表現したかったのは、愛を感じることのできない苦しみだったのだ。そんなことがわかるからこそ、大人には言えない…わかってなんてもらえないというのを、わずか6歳7歳のときにすでに感じている子どもだった。

Aちゃんとわたし、秘密の「泥棒ごっこ」

Aちゃんのママはシングルマザー。うちの親とは違い若くてきれいで優しくて華やかで、わたしは大好きだった。こんなお母さんがいいなぁ、なんて思っていた。わたしがキャンディーズのすーちゃんが好きということを「すーちゃんってぽっちゃりしてかわいいよね☺❤」と言っていたと聞いて。内心めっちゃときめいた。Aちゃんママはわたしの好みをわかってくれる…!ってね。当時はらんちゃんが圧倒的センターで人気で、みんなたいていらんちゃん派だったので、変わっているとよく言われたから、Aちゃんママの肯定的はな言葉が嬉しかったのだと思う。だからそんな素敵なママだった。 
しかしAちゃんはパパのいない寂しさや、ママはお仕事しているからAちゃんにべったりなわけにもいかず、いろいろと我慢することも多かったのだと思う。そしてAちゃんが泥棒ごっこを教えてあげるよとわたしに言ってきたとき、あかんやろと知りつつも、彼女のちょっぴりいたずらな瞳のワクワクに同意したくてうんと言った。A
ちゃんはわたしのうちよりもお小遣いが制限されていて、あまりお菓子とかは食べれなかった。きっとAちゃんはお菓子を思い切り食べてみたいと思っていたと思う。小学校が離れて、なんとなく距離も遠くなっていきつつあった二人。しかし、Aちゃんののぞみを二人で叶えるんだとばかりに、万引きを決行した。Aちゃんとの秘密の悪だくみは、小学校が離れた二人の心の距離を縮めてくれて、まるで冒険ごっこのように楽しめた。
罪悪感とバレる怖さの間で、デパートの婦人服コーナーの服がたくさん陳列してある中に隠れて、取ってきたお菓子をまるで戦利品のように、笑いながら食べていた。
今考えるとバレバレだったのだろうけど、大人たちは多めに見てくれていたんだと思う。気づかないふりして、見逃してくれていたのだと思う。しかしそんなこと幼い子どもは気づくよしもなく、大人たちへのささやかな反抗と勝利の嘲笑いで、まさにちっちゃなヒーローにでもなった気分だった。悪いことなんてわかっている。でもそれよりももっと大切なことがわたしたちの中にあったのだ。調子にのって何度も何度も繰り返していたので、やがて店員さんから注意を受けるようになり、それでもやめなかったので学校に連絡が言ったという流れだ。

父の背中が教えてくれた「沈黙の愛」

教師が父親に連絡を入れ、父親にわたしの状況を話した。そして話はついて、もう二度としないと約束させられ、父親と帰路についた。わたしは父親に叱られるとビクビクしていたし、きまづいのもあって何も言えずに父親の後ろを歩いた。しかし父親はなんと何も言わず叱りもせず、ただその背中を見せながらわたしの前を静かに歩いていた。わたしはなんとも言えない気分になり、嬉しかった。何も会話せずともわかってくれている、父はわかってくれている、わたしたちのこときっとわかってくれているんだって、そう感じのだ。そして強く心に刻まれた『沈黙という愛』言葉を介さなくても伝わるすべて。下手な共感的声掛けをするよりももっと深くもっと大きい愛が沈黙の中にある。語らずともすべてが通じ合う体験、あのときの衝撃は55歳になった今もこうして息づいている。

静寂の真実はワンネスへの回帰

図らずしてこうして悟りの道を歩みだしたわたしに、今訪れているのは静寂の中にこそある真実というフェーズだ。今のわたしはにがやかでおしゃべりで、時々口から生まれてきたと言われることもあるくらいよくしゃべる。ライブをしていても4時間しゃべりっぱなしとかは自然にできる。頭の中も言語が次々生み出され、そのおしゃべりたるやとどまることを知らない。常に頭がフル回転してきていたわたしが、自動思考を鎮めて静寂の中にいる時間を増やしている。なにも言葉が生まれない、言葉をまだ知らなかった時代に戻るかのように、ただ観るということをやっている。これは「リンゴです」などとひとつひとつ単語を教わって認知を深めて言ったわたしたちだが、それを知る前はそれが丸いとも赤いともわからず、ただ興味深く見ていた。リンゴが有るという感覚ではなく、リンゴと認識しないからむしろ有るも無いもない世界だった。リンゴか机かとか、リンゴかリンゴ以外かという概念もない、ワンネスの世界を生きていた。母親のことすら母という概念もなく、母と自分は一体だった。そうした境界線のない時代…時間ということも知らないから時間の概念もない、今ココがすべての時代。その純粋だった時代に戻るように、今日を生きていくようになった。
わたしは思う。すべてが削ぎ落とされた静寂の中にこそ、浮かび上がるものが今ココの真実で、それ以外はすべて幻想だと。覚者の先人たちがみな口を揃えて同じことを言っているが、それは本当に魂の真実なのだとわかる。
そしていつか肉体から出ていき沈黙の中に還っていくとき、、一瞬の夢から覚めたような感覚になるのだと思う。長い長い100年を生きていると思うのだが、実は一瞬なのだ。というのも先日、お風呂に使ってお湯に溶けていたとき、ふーっと勝手に言葉が語り始めた。

一瞬の人生という、宇宙からの贈り物

「この宇宙を100億周するフィルムの中のたった一粒の米粒。その大きさほどの一瞬が、わたしの一生なんだよ。そしてフィルムはこの瞬間にもどんどん新たな物語を創造して、増え続けているんだ」ということを語ってくれた。そしてきっとその宇宙が真のわたしたちということなんだと思う。心のわたしたちの米粒ひとつの大きさの切り取られた瞬間が、この人生なんだと。その壮大さに意識もゆったり広がって、何もかも心配することなんてなかったのに、そしてそれを知っていたのに、あえて心配や不安を楽しんでいたんだなってわかった。思い切り心配して遊ぶがいい。米粒は無限にあるのだ。これしかないんじゃない。この人生しかないんじゃない。無限の豊かさの中に今が有る。ほんとにほんとに豊かになのに、貧しいを思い切り楽しむためにお金ってものが作り出されたのかもしれない。豊かさを感じるためじゃなく、貧しさを感じるためにね。だとしたら、金銭的なまずしさはこの地球の遊びを楽しむためのおもちゃでしかない。そのおもちゃがみんな好き。楽しいからね!

私達がこの世界を抱いている

子供の頃感じてた寂しさと貧しさは同じようなもの。わたしたちはこの壮大な豊かさの中で、寂しさや貧しさを感じて感じて感じ尽くしている。背後にあるこの豊かな愛に同調する静寂の時間が、抱き続けられていることを思い起こさせてくれる。わたしたちは抱かれた子どもであり、すべてを抱いている母なのだ。わたしたちの内側を映す鏡がこの現実であり、現実を映し出す鏡がわたしたちの姿なのだ。荘厳で神聖な存在は外にあるのではなく、わたしたちそのものだった。

この記事の背景にある次元論の定義や、構造的解析の全データはGitHubにて公開・更新しています。https://github.com/marnakatani-bot/maria-dimension-map-

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意識の次元マッピング研究者|ORCID登録・論文著者|中谷まり亜 ありがとうをチップで伝える