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メンタルヘルス、愛、考え方



ストレスでチック症になり、両目を安定して開けずらくなったから、読書も執筆も控えていた。やはりメンタルヘルスの問題はあまりに水物で、腫れ物で、いよいよどうしようもないとも思った。

元々右半身が痙攣するから行動に縛りがあるのに、目すらやられると、もう自分の生きる道は断たれているのではないか、と思う。チックは気にしなくなると治るので、眼帯生活をしたり、外したりを繰り返しているのだが、1/3の視界が無くなる感覚は興味深い。意識しないと右に誰が立っているのか分からない。この場合の「意識」は「クオリアの認識体」でなく、「注意」の意味で使っている。

「世界は認識である」vs「世界は行動である」 論争をどこかの小説で読んだような気がするが、その論争自体無意味であって、行動と認識は相互作用しているように思う。
「認識の上に行動がある」とするのが西洋的感覚で
「行動の上に認識がある(認識に執着しない)」とするのが東洋的感覚のように思う。

自分が運営している哲学鯖で、友人が「愛」についいて議論していたので、自分が思う西洋的感覚と東洋的感覚を引いておきたい。

①西洋的思想
身体的感覚、型というよりは「キリスト教の思想」が根本にあると思うのでアガペー(神からの愛)が全てである。要するに不貞行為を行う、ミスをする、矛盾などを神に投げる、などがあっても「神への信仰」(私自身は神への信仰というものはとことん誠実であること/醜い部分を曝け出す勇気があることと考えている)。それが対人関係であれ告解であれ、「誠実である」という基準の適応とみなす。
「誠実さ」をベースに挨拶、対話が行われる為、東洋とまた感覚が違う印象を受ける。
「愛を示す」

②東洋的思想
生じる矛盾を身体で受け止めながら重力に従って通し流す。言葉も詩的な言語/表現は、ラテン語ベースの言葉より多いように思う。縁起、挨拶、型などを通じて愛を表現するというか体現する。1番上に神という存在がいない分、自分の体感覚を通じて「愛を通す」



「愛を示す」「愛を込める」という言葉はよく使われるけれども、「愛を通す」という表現はあまり聞かない。自分が1番誠実な愛だと感じるのは「愛を示す」行為では少なくともないとここ数年で思った。

例えば自分は最近、彼氏と交際1年記念日を一緒に過ごせないことに頓着していない態度を見せてしまったこと、で喧嘩をしたが、なぜ記念日にそこまで拘るのかがさっぱり分からなかった。3/2だったのだが、自分にとっては3/2を一緒に過ごすのも6/28を一緒に過ごすのも同等である。セックスをするのも手を繋ぐのも同等である。彼にとってはセックスをすることや記念日を共にすること、が、「愛を示す」ことらしい。

しかし、自分もまた、彼を愛している。ただ、「これは愛」というものが分からない。「心でその人のことを少しは考えている状態」が「愛している」状態ということで良いのではないか、とずっと思っている。
そして、メンタルヘルス的には自分に居ていいと言ってくれた人達のことを猜疑心を捨てて浅く広く愛する方が良い、と思う。

「猜疑心」は無力感から生まれる

エーリッヒ=フロム


人は自分に力がなく、無力感から来る防衛機能により猜疑心を発動させる。自分も「友人全員に嫌われているのではないか」という猜疑心を発動させていることが多いが、必ず己の虚無感、不安、非自立性が強い時だった。メタ認知能力を高めて、行動する。西洋の「型」だと思う。認知行動療法はこれに近い。ひたすらにロジカルな点は好きだが、ロジカルでない部分を否定していくと人間は自殺に行き着くと思うので、東洋的な、「自我を削ぐ行動」の先の「自分」を見ないと演繹法ではどうにもならないものがあるように思う。



「愛」と言えば「恋」が類似語として挙げられるが、これも人生で何度か味わった。恋状態は、自分の感情の昂りが強い以上、自己視点の肥大、又は過剰な自己投影が行われる傾向にある為、ネガティブな要素が強かった。相手の反応も迷惑そう、もしくは波長を理解して欲しい、といったものが多かったように思う。基本的には避けたい。


「仕方ない」と努力が報われなかった矛盾を受け入れ続ける態度を取るには、友人への、世界への、「愛」が必要だった。
高校退学時の4年前より鍛えられたとは思うが、もっと絶望しないと、強くならないように思う。もっと挫折し、絶望し、苦悩したら、メタ認知レベルでも人間を愛せるようになる気がする。ただ不思議とこういったことが起こる。


自分は人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。

『カラマーゾフの兄弟』-ドエトエフスキー


人ひとりに対しての執着、こだわり、が落ちていって、愛しているのか愛していないのかにすら懐疑的になる。独我論に落ちた、とまでは言わないが、他者のことを、一般的に「嫌いでない他者」と思い、自己投影しなくなってから雑になったように感じる。配慮が薄くなり、人ひとりに対する思い入れがどこかへ行ってしまった。そもそも自分の目の前にあるのは解剖書だけだよ、ともっと念じかけられる。
果たしてこの姿勢は正しいのだろうか?


自分に挫折、苦悩を味わわせるなら医学一本で生きていくのがベストなのだと思う。と書いているが何度も医学部は辞めようと思ったし、今も思っている。でも結局は辞めないと思う。医師免許を取る過程と心中する覚悟でいる。沢山の人間と相談して「逃げてもいい、自分の意思なのか?」と何度も詰問されたが、よく分からない。

そもそも自我というものはあるのだろうか?
「しの」という人間はもう20年生きてきたのだから他者視点の「しの」でもあると思う。独我論に悩んだけれど、やはり自殺をしない為には、独我論に染まることは避けなければならなかった。
誰かから見た「しの」もこれを書いている「しの」も「しの」でしかない。
ならば、「「私個人」の意見が尊重すべきである」というロジックは存在しない、そして、「私の意見はない」というのは正当である。
よく、「自分に対して嘘をついた」という表現が散見されるが、「そんなものはないだろう」と思う。他者に洗脳されようがそれも自分だと思う。

「傾聴」<「助言」<「説教」<「洗脳」

とできるが、これの「どこからが悪い」というのは認識でしかない。全てグラデーション的なスケールの話であって、善悪というのを付けるのは不可能だと思う。中庸を目指すのが1番手っ取り早く好かれる道なのだと思うが。

「自分の意見というものがない」
というのは、多視点で理解する能力がある証拠で、善い営みだと思う。
その上で責任を自分だけに発生させるのなら、生きるのは楽では無いが。



片目が開けないし身体が思うように動かないせいで話がとっ散らかった。論点と趣旨が自分でも不明瞭なので反省している。また心脳の快復が見られたら各々の話題について1本ずつ書くと思う。
ちなみに、これをまた自分は左手で、右目を閉じながら書いていた。このようにまずは完璧でなくても書く、動く、運動する、話す、所からはじめて行きたい。
演繹法でトラウマを落とす作業は恐らく最後で、現在できるベストは行動してから自視点意識を削ぐ/メタ認知することのように思う。

もう少し東洋思想(医学)と西洋思想(医学)が融合すれば、人類は強くなれそうな気がする。




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