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ニヒリズム、ラカン、意味ってないよね


ある精神科医が「虚無感に目を向けたい」といった趣旨のツイートをしていたので、虚無感というものについて考えていた。
そもそも人間の心のベースとなっている(ラカン風にいえば象徴界)の言葉というもの自体も虚構だ。母という言葉は母、という関係性を現しているだけであって、母という言葉を覚えた時点で現実の母と向き合うことは人間には叶わない。
言葉がシニフィアン(ただの音)から、関係性によって意味を付与されたもので、そしてそれが、自分たちの認識の唯一の手段であるならば、この世界は虚構と嘘でできているとすら思う。
現実の母はもう自分視点に存在しない。
だから「虚無感」というものは元々自分には解釈しずらかった。虚無であるってなんだろう。この世界は虚無で満ちているのではないか?と。

『苦痛の心理学』という本を流行っていたから読んでいたのだけど、飽きてしまった。著者の主張は一貫してこうだった、
「人間は意味がある時のみ、苦痛を求めることがある。無意味な時の苦痛は良いものではない。」

著者は人間は快楽主義者ではなく、「意味を求める存在」、意味主義者とも論じている。
全くピンと来ない。

確かに苦しんだ経験に、いや全ての事象に、意味を付与することは可能だと思う。それは後天的に頭を使って、事象を解体して「各々の視点からすることが可能」という話であって、そもそも意味を求めて世の中が回っているはずがない。そして意味だけを求めて人間が動いているとしたら、気味が悪い。

自分は「自称ニヒリスト」なのだけども、現在縁があって所属している哲学サーバーにはニヒリストが多くて安心している。
自分がニヒリストな理由は、多分ただ、弱いからだけだ、とも思うのだけれども。
ニーチェを読んでいると叩かれる風潮だけはやめて欲しい。叩かれる。よく分からない。

例えば、今、自分はこの文章を書いている。快/不快でいえば、快に近い。でも、文章を書くという行為に意味があるだとか、評価をされたい、だとかは微塵も思っていない。結構どうでもいい。書きたいから書いている訳でもない。書くから書いている。本当に意味が無い、可能性だってある。
個人的なことも沢山書いているし、恥をずっと晒している感覚で怖い、とすら思う。

意味を付与することは可能だ。
例として、5年後の自分がこれを読んだら恐らく成長を感じられるのだろう、とか、思考を言語化することで構造の解像度が上がって生きやすくなっているのだろう、だとか。
でも文章を書いていない自分も結局のところ同じなんだと思う。

それで言うと、自分は受験勉強、算数数学を7年本気でやったけれども、意味はなかった。
後付けで言うならば、論理的整合性への吟味する能力が上がった、だとか、
難解ななにかに手を出す時、数3を短時間で独学しなくては行けなかったプレッシャーよりマシ、と思えることや、
他には何があるのだろうか。強いていえば数学は好きだった、と医学部で小ネタにできることくらいだろうか。

受験勉強が自分に残してくれたものは精神疾患だった。本当に苦しませてくれている。自殺しようとすら思い、今も思っている。

だから、「苦しんだ過程には意味がある」という言葉は気に入らない。自分にとって、
「受験勉強は無意味であった」
苦しんだことを無意味でいいと許容し始めた瞬間、少し楽になった。

独我論を信じている友人がいる。そして、自殺したいと思っているらしい。とてもよく理解できる。自分も「この世界には自分視点しかない」とよく思う。自分視点が消えることはさして問題ではない、と。
ニヒリズムによって少しは解消された。自分視点そもそもに意味もない、苦しむことにすら意味もない。

生きていれば苦痛の方が大きい。そしてニーチェは「苦悩は認識の道具」と言ったらしい。認識力が上がったならそれに越したことはないが、意味が無い、でもいい、と思う。

肝心なのは、「意味を付与すること」も、「無意味であった」ことも、どちらも認める姿勢なような気がする。
自分の小中高時代には意味がなかった。それが1番納得できる結論だと思う。学んだことはあったかもしれない、なかったかもしれない。

それでも生きてきた過程で出会った人物達をもっと愛していけたら気持ちがいいのかなとも思う。

意味は求めていないけれども、「知る」という体験は気持ち良かった。知的好奇心というものは人を活かす原動力になり得るのだなと思った。
自分は「真理を知りたい」と言えるほど哲学向きの人間では無いから、人間を知りたい。心理の真理を知りたい。



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