【読書】個人の意識も社会の側も変わらねば~『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(斎藤幸平)①~
職場の図書館にあったので、夏休みの宿題で読む1冊として借りました。
↑kindle版
理論の重要性を信じ、理論と実践とは対立しないと考えるからこそ、私の方がもっと実践から学ばなければいけない。つまり、「学者は現場を知らない」という印象を持たれてしまうのであれば、私はもっと現場から学ぶ必要がある。実際、「現場に行け」は、尊敬する環境経済学者の宮本憲一先生から頂いたアドバイスでもあった。
僭越ながら、以前の斎藤さんは何となく浮世離れしたイメージでしたが、ここ数年、地に足がついた感じになったなと思っていました。本書にまとめられている通り、意識的に現場に足を運んだことで得られた変化だったのでしょう。
NHKアカデミアでも、宮本憲一さんからのアドバイスのことを話していましたよね。
10代の頃からずっとパンクとかハードコアと呼ばれるジャンルの音楽を聴いたり、演奏したりしていた。それで大学生時代、原宿のパンクショップ・JIMSINNで売っていた10万くらいする革ジャンが欲しくて、建設会社の日雇い派遣バイトをしたことがある。
齊藤さんとパンクや革ジャン、建設会社の日雇い派遣バイトのイメージが結びつかなかったのですが、もともと全くもって浮世離れなんかしておらず、地に足がついた方だったのですね。私の偏見でした。
オンライン上でその場限りの仕事を請け負う労働形態は「ギグワーク」(ギグ(gig)はライブハウスでの一度限りの演奏を意味するスラング)と呼ばれるが、最低賃金や残業代、労働災害保険のような補償が与えられない形態が広がりつつあるのだ。
ギグワークはAIやロボットにやらせるとコストが高過ぎる作業を人間が埋めているような虚無感が残る。
私もちょこっとだけギグワークをしたことがあります。自分がやりたいと思える仕事を隙間時間にでき、なかなか良いかもと当初は思ったものです。しかし最後の方に契約していた人が、絶対に一度ではOKを出さず、ほぼ意味のないやり直しを求めてくる方で、時間ばかり取られて消耗したため、やめました。そもそも私がしていたのは主に映画や小説の感想を書くことだったので、今ならAIさんに任せても大丈夫そうですね。
学生たちは、バイト帰りの電車などで1.5~2倍速で、私たちの録画したオンライン授業を観ているらしい。効率化の努力はたくましいが、夜な夜な頑張って録画した教員としては、ちょっと切ない気持ちになる。
なるほど、そんなことが出来るのですね、と感心している場合ではありません。私のオンデマンド授業も、倍速で再生されているのかと思うと、ちょっとどころではなく切ないです(T_T)
たしかに「生産性」「効率化」という言葉は魅惑的だ。だが、一見無駄に見えるものこそが、実は社会や組織の人間関係や人々の幸福度にとって大切だったということが、なくなってからわかる。「生産性が向上した一方で、会社という共通の場にいたからこそできた何気ないやりとりの機会が失われる。それが長期的にどう影響してくるか」と朱も危惧する。
ほんと、対面での授業が出来ず、オンデマンド授業等で対応しなければならなかった2ヶ月間は地獄でした。同僚との何気ないやりとりの大切さを身に染みて感じたものです。なお「朱」とは、朱喜哲(ちゅひちょる)さんです。
企業や大学がブルシットジョブをなくそうと生産性を上げていけば、労働者は端的に不要になっていく。デジタルトランスフォーメーション(DX)を推し進めた先にある「ポスト資本主義」の未来に待っているのは、1%の持つ者と99%の持たざる者が決定的に分断される社会、「デジタル封建制」である。
暗い気持ちになります。
大学の新陳代謝は早い。4年たてば学生はほとんど完全に入れ替わる。「大学の文化」は継承されないと、あっという間に失われてしまうのだ。
大学のタテカン文化が廃れたことへの考察ですが、なるほどと思いました。
そもそもタテカンを見たことがなければ、作ろうとすら思わないだろう。(中略)タテカンの失われた景観が当たり前になれば、新入生たちは規制する側ではなく、作る側に対して疑問を持つようになるのかもしれない。古い文化にノスタルジーを感じているだけではないか、市や大学の決めたルールにあらがうなんてエリートの特権意識をこじらせているのではないか、と。
ありえますね、と感心している場合ではありません。タテカンだらけの大学に行ったもので、タテカンのないきれいなキャンパスなんて、大学ではないと思ってしまいます。
京大は「自由な学風」をいつまで守ることができるだろうか。数年後の京大生は、さらなる規制も「ルールだから」という理由ですんなりと受け入れてしまうかもしれない。その先に待つのは、「グローバルエリート」養成機関としての京大であり、そうしたルールに従うエリートが作り出すのは、香港やシンガポールのような管理社会なのか。
京大も他の大学も、「グローバルエリート」養成機関にならないことを切に祈ります。
貨幣の集中とともに、プレーヤーの権力が増大していく。元々はみんなの島だったのに、お金があれば橋や階段の設置場所も私が勝手に決められるし、建設に邪魔な住民の家を強制移住させられる。好みでない外見のキャラクターを追放さえできる。
あつ森って、そんなゲームだったんですか。怖いですね~。
三週間ほど遊んでいると、コミューンが目指したはずの平等で公正な社会は、もはやどこにもない。資本主義が嫌で無人島に移住してきたはずなのに、いつのまにか、自分がすべてを金の力で決める島の独裁者になっている。ニューハーモニーは、スターリン主義に転化する!
こうして島は全体主義的な性格を強めていくが、その暴力の痕跡は、島がきれいに整備されていくことで、見えなくなる。
斎藤さんならではの考察ですが、たかがゲームに大袈裟な、とは言えない気がします。
菊池さんは勤め先の工場での事故で若いころに利き腕の右腕を失っている。左腕にも障害がある。荷物は高いところに上げられず、その代わりに色々な荷物を床に置くためのスペースが必要だった。霞ヶ丘アパートの間取りは2DKだったそうだ。「だから新居は同じ程度の環境にしてほしい」。それがせめてもの願いだった。ところが、独り身であることを理由に1DKの部屋に移るよう命じられた。さらに追いうちをかけたのが都からの補償金だ。その額はわずか17万1000円。引っ越し代にもならない。金が全てではないがオリンピックの開催には総額3兆円もかけているのに、こんな理不尽な話があるだろうか。
菊池さんは、東京オリンピックのために国立競技場を建て替えた際、立ち退きの対象となった都営霞ヶ丘アパートの住民の一人です。本当に理不尽ですよね。お金の使い方がおかしいです。霞ヶ丘アパートのことを知らなかったことが恥ずかしいです。でも言い訳ではありませんが、この件、充分に報道されたのでしょうか。
「メイクはストレッチになる」と語る。単に雑誌とかテレビで理想とされるものに近づくためではなく、なれる自分の幅を広げられることに気が付くための手段だというわけだ。シャワーを浴びれば化粧は落ちる。けれども、「自分は変われる」という心の変化が生き方の変化につながっていく。それが、西村さんのメイクが目指すものなのである。本当の自分を抑圧し、マジョリティに同化するのがメイクではない。
西村さんというのは浄土宗の僧侶でもあるメイクアップアーティストの西村宏堂さんです。このようにメイクを考えたことがなかったので、なるほどと思いました。
資本主義の利益優先と、社会的弱者への負担のしわ寄せ。これが公害問題の定めだ。大気汚染、震災、そして石炭火力発電所と、住民たちは何度も何度も闘わないといけない。
石炭火力発電所の新設は、本来、気候変動に直面する日本社会全体の問題である。本来であれば、エネルギーが高騰し、電力がひっ迫する中で、どのようにして持続可能な社会への転換ができるのか議論しなければならないはずだ。ところが、一部の人々へと負担をしわ寄せすることによって、問題は「私たち」から見えなくなっている。
目と鼻の先に石炭火力発電所が建設された、新在家南住宅に関する章からの引用です。阪神淡路大震災の被災者が入居した新在家南住宅のこともまた、恥ずかしながら知りませんでした。発電所の増設と稼働の差し止めを求めた住民たちの「『気候変動を受けない権利』は裁判で認められることはなかった」(p.84)そうです。
「日本人の食べ残しを使い、日本人が食べない虫を作り、輸出するだけでは、エコという名のもとで「ゴミ」を途上国に押し付けているにすぎない」
昆虫科学を専門とし、国内で食用コオロギの養殖に成功した徳島大の渡邉崇人助教の言葉です。コオロギを積極的に食べたいかと言われると微妙ですが、途上国に「ゴミ」を押し付けるようなことはしたくないです。
社会問題をビジネスで解決することを目指す、いわゆる「ソーシャルビジネス」である。
獣害に悩む京都府笠置町で鹿の狩猟から解体、販売までを行う会社「RE-SOCIAL(リソーシャル)」のような会社のことです。少し前のNHKの番組で、知床で熊が人里に出てくるようになった原因の一つに、狼がいなくなったことで鹿が増えすぎ、熊が春先に食べる草を鹿が根こそぎ食べてしまうことがあると言っていました。コオロギは無理でも、せめて鹿を食べる文化が根付けば、熊の問題も解決に向かうかもしれません。
工場への搬入量は年間5000万点以上。1社でこの数字だ。それでも「弊社を含めリサイクルに回される古着は全体のわずか25%ほど」と担当者は説明する。残りは焼却処分されるというのだ。それを日本では「サーマルリサイクル」と呼ぶが、インチキである。
だが、ここでの真の問題は低いリサイクル率ではない。どう考えても、そもそもの物量が多すぎるのだ。アフリカもこんなに大量の洋服を押しつけられたら迷惑だろう(BBCのガーナの映像をネットで見てほしい)。しかも実態としては私たちは大量の「ゴミ」を途上国に引き取ってもらっているにもかかわらず、それらを「商品」として売っているのだ。結局リサイクルと名のつくものがまったく持続可能ではないというのが、現在のやり方の最大の矛盾なのである。
サーマルリサイクルのことは知らなかったので、衝撃でした。古着として生かされない分は繊維に戻っているのかと、お気楽に考えていたことを反省します。私は同年代の女性と比較して圧倒的に服を買わず、捨てる服もほとんど出ないタイプですが、より一層心がけたいと思います。
バブル期と比較すると、衣服の供給量は年20億点から40億点程度へと倍増する一方、売り上げは15兆円から10兆円程度に減少。単価が下がれば、ブランドも利益を出すために、過剰に服を作らねばならない。競争が激化し、作り手の思いもむなしく、セールで投げ売りされ、安く買ったものは簡単に捨てられる。
人口も減っているし、第一不景気なのに、衣服の供給量が増える意味が分かりません。みんな、広告に踊らされ過ぎです。
個人のできることに格差があるからこそ、個人の意識ではなく、社会の側を変えていく必要がある。
環境問題についての言葉です。私もとあるバイト先で、たった1日でありえない量のゴミが、かつ分別が不充分な状態で出るのを見て、「ひとりひとりの努力」を積み重ねていっても、環境問題に真剣に取り組まない企業が一つあるだけで台無しじゃないか、と徒労感に駆られたことがあります。でも個人の意識も、当然変えるべきです。低すぎる人が、あまりに多いので。そもそも企業での分別がいい加減なのも、一人一人の社員がその都度ちゃんと正しく捨てれば良いだけのことのはずだし。
いささか長くなり過ぎので、続きは②にすることにします。
↑単行本
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