薩長同盟はなぜ生まれたのか——捕虜の扱いが変えた幕末の歴史
昨日は禁門の変まで書きました。
今日はその続き——なぜ長州と薩摩がくっついたのか、そして幕府はなぜ権力を失っていったのか。
秋田の話になる前にかなり前置きが長くなるけれど(笑)、ここを知らないと出来事を知るだけで終わってしまう。もうちょっとついてきてください(笑)
捕虜の扱いで分かれた、薩摩と会津の違い
禁門の変の後、長州兵の大部分は長州へ逃げ帰りましたが——戦が起きれば必ず生まれるのが捕虜。
この捕虜の扱いで、薩摩と会津には大きな違いがありました。
薩摩の場合——
長州の捕虜を軟禁状態にして保護し、西郷隆盛が長州征伐で参謀として出向く際に同行させて、長州藩に引き渡したのです。
会津の場合——
長州の捕虜に対して爪をはいだり、頭に針を刺したりと、惨いことをしたと当時を記した文献に残っています。
この差が——
その後の薩長同盟に繋がり。 戊辰戦争での長州による執拗な会津いじめに繋がる。
なぜ薩摩は捕虜に優しかったのか
薩摩島津家には、戦国時代から大切にしている文化があります。
「戦が終わればノーサイド。敵味方関係なく慰霊する。」
300年前の藩主の想いが、文化として根付いていたのです。
一方の会津は——徳川家からの要請であり、天皇家を守る立場から朝敵の長州に対して一生懸命職務を遂行しただけ。どこの藩でも同じようなことをしたと思うし、薩摩が特別だったのです。
西郷隆盛が拳を下ろした理由
長州征伐では武力で完全に潰すことができたのに——西郷隆盛は長州藩を説得しました。
その証拠に長州藩は、藩主に次ぐ最高権力者の家老3人を切腹させて謝罪したのです。
なぜ説得したのか——その理由が興味深い。
薩摩のお殿様からの指令があったのです。
「日本人同士で内戦をして体力を消耗させることで、西洋列強たちにつけ入るスキを与えるな。」
当時、藩が一つの国だった日本を俯瞰して、こんな着眼点を持っていた島津のお殿様——
ハンパないですね(笑)
「薩賊会奸」——長州人の合言葉
この時から長州人の合言葉が生まれました。
「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」
薩摩と会津を憎み、肚の中は収まらず——「いつか見ていろよ」という憎しみが膨れ上がっていったのです。
捕虜を丁寧に扱った薩摩は憎まれず、手荒に扱った会津は徹底的に憎まれた。そして薩摩と長州は同盟を結ぶことになる——
歴史の因果関係とは、これほどまでに深いものなのです。
歴史の裏の裏の裏
薩長同盟も明治維新も、その後の新しい日本の形も——すべてここから始まっています。
歴史とは表面的な出来事ではなく、裏の裏の裏に深い因果関係がある。
今の日本があるのは、先人たちの選択によって成り立っている。
だからこそ歴史は面白い——そしてもっと深く学びたいと思わずにはいられないのです。
次回はいよいよ秋田の話です!お楽しみに!!!!!!!!!!
【今日の本質】
歴史とは複雑であり多面的であり、複眼的に観なければ理解できないことばかり
当時は藩が一つの国であり、独自の文化を作り上げてきた
今の日本があるのは先人たちの選択によって成り立っている
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