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歴史妄想 #孫堅 #三国志 #三国志演武

史実概略

考察

孫堅は、後に「武烈皇帝」と賞されるほどの武将だった。
決して、猪突猛進ではない。
では、なぜ簡単に「流れ矢」で戦死したのだろうか?

まず、孫堅が戦死した戦いは、何だったのか?
物資が豊富な荊州(劉表の領地)を袁術(孫堅の主)が、物資欲しさに攻めた。
その総司令官が孫堅だった。
つまり、袁術の利己的な理由で孫堅が振り回されたのだ。
そして、劉表は、後漢(朝廷)にとって、重要な南方の拠点である荊州を守る要人だった。

袁術:物資が足りないから、荊州せめちゃえ
劉表:え?なに後漢に喧嘩売ってるの?

袁術にとっては、軽い動機での始まりだったかもしれないが、劉表にとっては、朝廷を背負った負けられない戦いだった。
しかも、劉表は荊州に就任して間もなくで、混乱していた統治をまとめることもしなければならなかった。

そして、孫堅は、「流れ矢」で戦死。
(第一次)荊州争奪戦は終了した。

「流れ矢」の最大のメリットは、孫堅を討ったのが、誰か不明になる点だ。
「事故死」であれば、孫家も仇討ちを声高に袁術へ主張できない(実際には、劉表軍の司令官だった黄祖を仇討ちとして倒しているが)。

孫堅の事故死で、袁術も更なる敗北で面子を潰さないため、鉾を収めるしかなかった。

劉表にしてみれば、荊州内部がゴタついているのに、袁術VS劉表を決定的にして、全面戦争をしたくなかった。

本当に死因が「流れ矢」だったのかは、歴史の謎だが、誰にとっても都合が良かったのは事実だ。
(無責任に妄想すれば、裏切った配下の情報で置いた伏兵に、無防備に撃たれたのでは、と思う。即死しないだろうから、止めは更に配下がやったとか)

そして、孫堅の死後。
(以前に孫堅が発見した伝国璽が原因で)袁術が皇帝を名乗って後に滅亡、孫家は離反して、一大独立勢力に。
そして、孫権が江夏(荊州の一部)で、仇の黄祖を討ったことで劉表陣営は弱体化し、背後を気にせず曹操と対峙できるようになり、また劉表に保護されて動けなかった劉備は逃亡、曹操VS赤壁連合軍(劉備&孫権)の戦いとなった。

「流矢中額而死」のたった一文、つまり孫権の戦死が、後の三国への真のプロローグとなったのだ。
(自分のたてた仮説を判断するため、情報をAIで調べています)


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