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あなたに出会えてよかった

 ”あなたに出会えてよかった”

 そう思える出会いはあっただろうか?人間が好きな私だが、出会いは少ない。今日はある先生の事について話そうと思う。先生、という職業は本当に特殊だし、それを生きがいにしている人間は本当にすごいと思う。

 人生で初めて自分を受け持ってくれた先生は、幼稚園のS先生だった。私は妹が生まれる4歳まで一人っ子だったので、一人遊びが好きな子供だった。大勢の人間の前に立つと、何もしゃべれなくなるような引っ込み思案な子供だった。だから、初めての集団生活もうまくいかなかったんだと思う。何もしゃべらないけれど、観察はしていたらしく幼稚園のバスから降りると、その日園であった事をお母さんに色々話して聞かせた。だから何も知らないお母さんは安心して次の日も私を送り出すのだ。しかし、S先生は違った。幼稚園の片隅で一人黙々と遊ぶ私を見て、喋らせようと必死だったのだろうか?連絡ノートに不安気な記述が残っている。そしてしびれを切らしたS先生は、幼稚園だが実質的には保育園の異例ともいえる家庭訪問で我が家に乗り込んできた。私は、いつもはみんなの先生だが、なぜか今夜は私の家に来てくれている、私だけの先生だ!と思い、浮かれてしまった。そしていつも家でやっているように、色々なことを先生に説明してあげたりしたもんだから、先生は驚いてしまって、その次の日の連絡ノートであんなにしゃべるまみすけちゃんを見たのは初めてだというような事が綴られていた。今思うに、私は場面緘黙だったんだと思う。その先生とは私が小学校に上がってからでも文通をする間柄だった。幼稚園の先生から、小学校の先生になったそうだ。

 先生との初めての出会いは、よかった。しかし、それからが最悪だった。私立の幼稚園から、公立に移った私は、バスの送り迎えから、歩いて通学することになった。片道三十分の道のりである。同じ学年の子が地区にはあまりいなかったので、一人で通学したり、大きなお姉さんたちと通学したりしていた。夏の暑い日や、荷物が重い日なんか、通学は苦痛でしかなかった。近道もあるのだけれど、通学路を通りなさいと耳が痛くなるほど言い聞かされていた。たまにふざけて友達と近道を通っていると、見つかって、先生に言いつけてやる、と他の子に言われたもんだ。

 公立の幼稚園の先生は、あまり思い出がない。というか、よく思い出せない。何せ小学一年生の時の担任があまりに強烈すぎて、その前後のことがあまり思い出せないのだ。

 小学一年生、新しいランドセル、お道具箱に並ぶ新しい文房具、私は算数セットが夢のように思えた。父の職場から入学祝に色々一式もらったのだが、それも夢のようだった。夢は、入学式に崩れ去った。小学一年生、先生は優しい女の先生で、新しいクラスでは友達がたくさんできる!そんな夢を抱いておった私の前に現れたのは、背の高い、神経質そうな男の先生だった。前年度の受け持ちは6年生だったらしい。しかし、そんな先生がなぜだか新一年生の担任をやることになるなんて、何かやらかしてしまったのだろうか?毎日毎日緊張しながら学校に通っていたことしか記憶にない。あとは、何かをやらかした男の子たちが、先生の前に並ばされて、順番にビンタを食らわされていたこと。順番に叩かれて、アニメのように男の子たちが飛んでいくのは、恐怖以外の何物でもなかった。そして、いつかその恐怖が自分にも降りかかってくるのではないかと、ハラハラしていた。

 今でもよく覚えている。その恐怖が現実になった日のことを。何だったかよく覚えていないが、その日忘れ物をした生徒が多くて、みんなの前に立たされて、説教されていた。その後自分の机に戻り、他の忘れ物をしていないか調べなさい、と言われた。私は調べたけれど、大丈夫だったのでほっとしていたら、周りのみんなも他の忘れ物はしていないようだった。そして次の授業が始まった。そしたら、無いのだ。教科書が。もう、死にそうだった。死んだほうが楽だと思った。小学一年生がそんなことを考えるのであろうか?そんな気持ちにさせられたのだ。もう頭の中では、みんなの前でビンタをくらわされる自分がちらついている。手をゆっくり挙げ、死にそうな声で震えながら教科書を忘れたことを告げた。先生の顔がこわばるのが分かった。それからの出来事はおぼろげだが、ビンタは免れて、両こめかみ辺りをぐりぐりやられたのは覚えている。

 二年生ではクラスの子といざこざがあったみたいで、いじめに発展して、私の一年分の記憶は闇の中だ。当時どうやって学校に毎日通えていたのかが不思議なくらい、本当に記憶が抜け落ちているのだ。先生のことも、どんな授業を受けたかも、毎日の出来事も、何も覚えていない。

 三年生の担任は、優しかったが、すぐに産休に入ってしまった。その代わりに来た先生は男の先生で、まだ若く、ぶかぶかのスーツが印象に残っている。学年の終わり頃、クラスの一人一人に小さな竹とんぼを手作りで作ってくれて、渡してくれた。

 四年生の先生は最悪だった。年のいった女の先生で、気に入った生徒にはすごく優しく、後の生徒には意地悪だった。何かにつけて、硬い木の床に正座をさせられ、漢字の書き取りをやらされた。気の短いすぐ怒る先生だった。

 そして、私は五年生になった。この思春期の初めに私の運命を変えるような先生と出会ったのだ。その先生はK先生といい、まだ三十代で若く、ピンクのスーツが優しい印象を引き立てていた。新しく来た先生で、前の学校は特殊なところで、いわゆる問題児が行く学校で英語の先生をしていたそうだ。そんな先生が小学校の先生として、私の担任になったのだ。結婚して、小さな子供もいた。今の私がもし先生だったら、どうだろうか?一クラス35人ほどだとして、一人一人に気を配れるだろうか?あの嫌だった、年のいった先生みたいにヒステリックになるかもしれない。ましてや子育ての最中である。自分の子のほうがかわいいに決まっている。

 しかし、K先生は違った。クラスの一人一人を気にかけ、中学生日記や、灰谷健次郎の小説のように、クラスに熱い何かが芽生えた。私たちのクラス、という特別な空間が出来上がった。先生がみんなをやさしい目で見て、思いやりを持って接すると、不思議なことに、生徒たちも周りのみんなにやさしくなるのだ。私たちは、クラスの人間について話し合ったり、誰かに嫌なことがあり、逃げ出したりすると、みんなで授業そっちぬけで探し回ったりした。K先生は、言葉だけでなく、行動で私たちを諭してくれた。時に厳しく、しかし愛情をもって叱ってくれる。自分の思い出話とともに、先生の好きなものを共有してくれる。一人一人のいいところを探して、それをほめてくれる。先生の前では、みんながその他大勢ではなく、一人ひとり個性あふれる人間だった。私は、自分が初めて他人に認められた気がしてうれしかった。

 K先生は、英語の先生だったこともあってか、よく空いた時間に英語の映画を見せてくれた。吹き替えでなく、字幕の映画は私の興味をそそって、映画にはまるきっかけを作ってくれたりもした。サウンド・オブ・ミュージックのマイ・フェイバリット・シングスのメロディの美しさに泣きたくなり、ビートルズの音楽を聴いてみんなで英語で歌ってみたり、茶話会と称してお菓子を持ちより、お茶を飲むのが本当に楽しかった。

 私がアメリカ文学にはまるきっかけを作ったのも彼女だった。教室には、みんながお勧めの本を持ち寄って自由に読めるようにしている本棚があった。そこにはK先生のお勧めの本もたくさん並んでいたのだが、私が手に取って読んでみたのは、ローラ・インガルス・ワイルダーの「大きな森の小さな家」だった。皆さんは、大草原の小さな家をご存じだろうか?それの第一作目に当たるのが「大きな森の小さな家」なのだ。私は近所の図書館でシリーズのほとんどを読みつくし、レシピ本で本に出てくる料理に挑戦してみたりもした。バターを作るレシピがあり、何も知らない私は植物性生クリームを死にそうになるまで瓶に入れて振りまくったのだが、結局本に書いてあるようなバターはできず、結婚したアメリカではじめて植物性と動物性の生クリームがあることを知った。

 それからは、日本の小説には目もくれず、母の勧めてくれたエドガー・アラン・ポーの小説を読んでみたり、マーク・トウェインのハックル・ベリー・フィンの冒険にはまったり、イギリス文学に魅せられて、妖精のいる湿った森に迷い込む妄想を膨らませたり、近所のビデオ屋で、100円レンタルの日に大量に借りて、映画を片っ端から見たりした。(普通にセーラームーンや、金魚注意報にもはまってはいたけど。)

 小学校に上がって、毎日の宿題であのねノートなる日記を毎日書かされていたのだが、K先生も毎日の宿題に日記を書かせた。私は当時物語を書いたり、絵本を作ったりすることが好きで、魔女にはまっており、少しダークなものに興味を持ち出したのもその時期だった。他のクラスに意地悪をする女の子たちもいたが、自分のいたクラスでは穏やかに毎日が過ぎてゆき、クラス替えや担任も変わらないまま六年生になった。

 そのころ、毎日のように宿題の日記のノートに詩を書いて提出していた。ある日、帰りの会の時先生がみんなの前で、私の詩を読んでくれたのだ。そしてあろうことか、先生は涙を流したのだ。それは、確か卒業も近く、その事についての心情や先生への思いを書いたものだったのだと思うのだが、それを読んで涙を流す人間がいた。この世の中に、私の書いたものを読んで涙を流してくれる人間が、私以外に存在している、という衝撃のような喜びが、私をもっと書きたい、という気にさせた。

 なんで詩、だったのかよく思い出せないが、私は詩を書くのが好きだった。もっぱら定型詩ではなく、自由詩であるが、その自由に曖昧なことを書いてもいい感じがするのが好きだった。物語のようにかしこまったり、終わりを考えたりしなくてもいい。思ったまま、感じたことを抽象的にでも、具体的にでも、ちょっと謎めいた感じにでも書けるのが好きだった。そして、感情をぶつけれる場所が、書くことだった。思春期であり、反抗期であり、感情の起伏が激しい時期である。いくらクラスでは控えめな人間というイメージの私にもそういう時期は、他の人間と同じように訪れていたわけで、母親にちょっと反抗的な態度を見せたり、部屋に閉じこもってみたりもしたもんだ。

 これはK先生とは全く関係のない話になるのだが、その頃近所のお姉さんが就職か何かで引っ越すことになり、少女のころ使っていた洋服やら、おもちゃやら、本やらを大量にくれたのだ。その時私が手に取ったのが4冊の漫画本で、紡木たくのホットロードだった。それが衝撃で、今まで読んだ少女漫画なんて、目がキラキラで、夢見る少女やハッピーエンドのものばかりだったし、まあ、そんなものは特に興味がなかったのだが、しかし父の買うジャンプやマガジンの少年漫画とも少し違う。紡木たくの描く漫画は、おそろしく詩的だった。それも私が詩を書くのが好きなのに関係しているのではないかと思う。

 先生が私の書いた詩に涙を流した日、私は漠然と将来の夢を作家と決めた。それからは、誰にも見せることなく物語や、詩や、シナリオなんかを書き続けていたのだが、いまだに作品は世に出ていない。

 10年ほど前、私は小さな頃の出来事をモチーフに結構自分でもいいなと思える大作を書き綴っていたのだが、パソコンが故障してしまい、バックアップとかもとっていなかったので、すべてのデータが消えてしまった。作品に合わせて写真とかも撮ってみたり、本当に自信作だったのだ。もうショッキングでそれから10年ほど書けなかった。

 あの頃は本当に鬱状態だったし、自暴自棄になったりしていたし、自分の周りでひどいことが起こっていたし、関わった人が沢山死んだし、本当にどん底だった。だから、今ここで私が書けているということは、当時の私からしてみれば、本当に奇跡に近いのだ。

 なぜだか横道にそれてしまったが、小学校を卒業した私たちはクラスのつながりあいが結構強く、たまに先生の家をみんなで尋ねたりした。K先生は私たちが卒業した後、私たちにあまりにも思い入れしすぎたとかいう理由で、次の年からはクラスを受け持たず、音楽の先生になったらしい。私たちがK先生の特別だったように、K先生も私たちの特別だった。そういえば、K先生はいわさきちひろの絵が大好きで、それに似た優しい線の絵で、クラスのみんな一人一人に似顔絵を描いてくれて、卒業前に贈ってくれた。

 高校卒業間近、都合のつく生徒で集まり、久しぶりにK先生に会いに行った。いつもの優しい笑顔で、一人一人に接してくれ、成長を喜んでくれた。それがK先生に会った最後だったと思う。まだ教師をしているようで、いつか日本に帰ったらお会いしたい。そして、まだ書いていますよ、と伝えたい。

 K先生、あなたに出会えて本当によかった。

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