見出し画像

身体の中心性〜内に向かう力が外に向かう力へ転じる〜

かれこれ15年ほどヨガに取り組んでいるのですが、思い返してみると、波はあれど長らく「どことなく苦しい」と感じていたような気がします。

ここ最近は、まとわりつくような苦しさが取れて、どこか軽く、シンプルで晴れやかな気持ちで常に取り組めているように思います。

この「軽ろやかさ」はどこからやってくるのだろう。

そう思っていると、「Eureka!」が訪れたのです。
(Eureka: 「見つけた」「分かった」を意味する古代ギリシャ語)

変化したのは、意識を向ける先。

ここ最近、ヨガに取り組んでいる時は「身体の中心・中心軸」に意識を集中させています。

ここでいう身体の中心はいわゆる、おへその下の「丹田」辺りでしょうか。

身体の左右で異なる形を作り、非対称的な状態でも、中心軸は変えないように対称性を保ち続けている感覚、微細な感覚が感じ取れるようになってきたのです。

すると、中心性を保つように身体の各部位に働く内へと向かう力が、次第に背骨を中心とする軸を伝わり、頭の先から爪先まで、上へ下へと同時に外に向かって力強く抜けてゆくのです。

「内に向かう力が外に向かう力に転じる」

目や耳で「見る」ことを緩めることで、身体の内側を「観る・察る」こと、「内観」が深まります。

すると、全身の余計な力が抜けて、必要な場所に、必要十分な力のみが働くようになる結果、「身体の軽やかさ」を感じられるようになったのかもしれません。

私は、今日も変わり続けています。

私が「自在」の二字を用いて「自由」という文字を避けたのは、人々の口に上る「自由」の一語は余り乱用されて決して真の自由を意味してはいないからである。何故ならその自由は自己本位の自由の意であって、仮令他からは自由であっても、自分自身からの自由が見られないのである。真の自由は先ず自らの自由でなければなるまい。それでこの誤りを避けて、私は「自在」の文字を用いる事にしている。自在は自らで在るもの、自らの掣肘をすら受けないその解放を指すのである。仏者は好んで「無碍」なる言葉を用いたが、この「碍り無し」という方が、自在の面目をよく現した言葉だと思える。実に自由という障りさえない謂なのである。そうして実にこの無碍の相こそは美の真相なのである。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

かくして曰く言い難いのが美の特質だと云える。故に「自在美」は常に言葉を超える秘義が裡にこもる。故にこれを「妙美」と云ってもよかろう。さてこの妙は玄妙とか幽妙とかの句が示唆する様に、或概念で限定出来ない性質があって、分別の対象とはなり得ないのである。これを対象としたら、もう美の真面目からは遠のいて了う。

柳宗悦『仏教美学の提唱』
書肆心水オフィシャルサイトより

いいなと思ったら応援しよう!