『ファイト・クラブ』。IKEAの家具に埋もれた43歳の脳内に住むタイラーと、ヘレナ・ボナム=カーターの紫煙、そして世界の終わり(あるいは尿酸値の限界)について
43歳。
不眠症だ。
……嘘をついた。普通に寝ている。なんなら休日は昼まで寝ている。
だが、精神的な意味では、私は常に眠れていないと言っても過言ではない。
深夜2時。
Amazonを覗き、使うかどうかも分からない中華製の多機能キャンプ用品や、絶対に読まないビジネス書のKindle版をカートに放り込んでいる時、私は思うのだ。
俺は、IKEAのカタログの奴隷だったあの頃のエドワード・ノートンと、何が違うんだ?と。
デヴィッド・フィンチャー監督の傑作『ファイト・クラブ』
1999年、世紀末に投下されたこの劇薬は、資本主義に去勢された男たちの魂に火をつけた。
殴り合え。
痛みを思い出せ。
自己改善(セルフ・インプルーブメント)なんてマスターベーションだ。
自己破壊(セルフ・デストラクション)こそが答えだ。
ああ、分かるとも。
43歳の私の心には、いつだって暴力的な衝動が渦巻いている。
だが、私の拳は誰かの顔面を砕くためではなく、パソコンのエンターキーを強めに叩く(通称:ッターン!)ために使われている。
なんて情けないんだ。
そんな私の日常にも、奴は現れる。
タイラー・ダーデンが。
映画の中のタイラー(ブラピ)は、最高にクールだ。
赤いレザージャケット、割れた腹筋、ふてぶてしい態度、そして危険な石鹸の匂い。
彼は飛行機の隣の席ではなく、私の場合は渋滞にはまった国道沿いの助手席に現れる。
月曜日の朝、遅々として進まない車列の中で、脳内のタイラーが汚れたブーツのままダッシュボードに足を乗せて囁くのだ。
「おい、MAKOTO。お前は仕事じゃない。お前は銀行預金でもない。お前は5年ローンのハイブリッド車でもない。お前は、ただの燃費を気にしてアクセルをふんわり踏む世界のクズだ」
私は心の中で頷く。
そうだ、俺はクズだ。リッター何キロ走るかばかり気にしている。
タイラーは続ける。
「ハンドルを放せ。目を閉じてアクセルをベタ踏みしろ。前のミニバンに突っ込んでみろ。それが生の実感だ」
やめろ。
それは『生』の実感ではなく、等級ダウンによる保険料値上げの実感だ。そしてエアバッグの味なんて知りたくない。
私の脳内のブラピは、映画よりも少し生活感がある。
彼はおしゃれな廃墟ではなく、私のワンルームの散らかった部屋に住み着いている。
私が健康のためにサラダチキンを食べようとすると、タイラーが横からマヨネーズを大量にかけてくる。
完璧を目指すな。不完全であれ。カロリーこそが破壊だ
私がジムに入会しようとすると、彼は腹を抱えて笑う。
「その腹の贅肉を見ろ。それがお前の歴史だ。ジムに行って何になる? プロテインを飲んで、鏡の前でポーズを取って、それで誰が愛してくれる? 俺たちは消費者だ。ライフスタイルへの執着が生んだ副産物だ」
うるさい。黙れタイラー。
私はブラピの幻影と戦いながら、それでもジムの会費を払い続けている(行ってはいない)。
映画の名セリフ、「力一杯、俺を殴ってくれ」というシーン。
あれを真似したい欲求はある。
だが、43歳の私が誰かにそれを頼んだらどうなるか。
「力一杯、俺の肩を揉んでくれ」
これだ。
暴力ではなく、指圧を求めてしまう。
殴られたら痛いじゃないか。
骨粗鬆症が怖い。
私のファイト・クラブは、整骨院のベッドの上で開催されている。
そして、この映画を語る上で外せないのが、マーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム=カーター)だ。
ゴスファッションに身を包み、常にタバコをふかし、死に取り憑かれた女。
「私が死んでも気にしないで(I want to have your abortion.)」なんて言っちゃう、究極のメンヘラ・ヒロイン。
映画の中の彼女は、汚くて、退廃的で、どうしようもなく魅力的だ。
正直に言おう。
43歳の中年男性にとって、マーラのような女性は劇薬すぎる。
あんな女性が実際に目の前に現れたら、私は3秒で逃げ出す自信がある。
車内がタバコ臭くなるから窓を開けてくれとか古着もいいけど、一度クリーニングに出したほうがいいとか、小言を言ってしまうだろう。
私は彼女のカオスを受け止めきれない。
だが、だからこそ憧れる。
彼女のあの、常にアイラインが滲んでいるような、世界なんてどうでもいいという気だるげな視線。
それは、私たちが社会生活を送る上で、徹底的に排除してきたノイズだ。
彼女は、私の平穏で退屈な日常の対極にいる。
コンビニの床に座り込んでコーヒーを飲んでいる彼女を見たら私はきっと恋に落ち、そして胃潰瘍になるだろう。
映画の後半、物語はプロジェクト・メイヘム(騒乱計画)へと加速する。
金融ビルを爆破し、クレジットカードの記録を抹消し、世界をゼロに戻す計画。
これこそが、資本主義社会で窒息しかけている我々の究極の夢だ。
私も、私なりの「プロジェクト・メイヘム」を実行している。
……いや、笑わないで聞いてほしい。
例えば、会社の給湯室で、自分のではない部署のコーヒー豆を勝手に使うこと。
例えば、燃えるゴミの日に、プラスチックのキャップがついたままのペットボトルを捨てること。
例えば、TSUTAYAの返却期限を1日過ぎてから、夜間ポストにねじ込むこと。
小さい。あまりにも小さい。
タイラー・ダーデンが見たら、私の顔面に硫酸をかけてくるレベルの小ささだ。
だが、これが私の精一杯の抵抗なのだ。
管理社会への、ささやかすぎる中指。
「俺はルールには縛られないぞ!」という、震えるような自己主張。
だが、そんな小市民的な私の中にも、確かに「彼」はいる。
ある日、ルームミラー越しに自分の顔を見た時、一瞬だけニヤリと笑った気がした。
私の顔じゃない。
もっと野蛮でもっと自由でもっと傷だらけの顔。
そう、私は知っている。
私こそが、タイラー・ダーデンだということを。
映画の終盤、主人公は自分自身に向けて銃の引き金を引く。
自らの脳内の怪物を殺すために。
エゴを殺し痛みを受け入れ、本当の意味で生まれ変わるために。
43歳の私もまた、毎日自分自身を殺している。
今日も会社に行きたくないという自分を殺し、
若いままでいたいという自分を殺し、
ポテトチップスをもう一袋開けたいという自分を殺し(これはたまに失敗する)、
なんとかスーツを着て、社会という名のリングに上がっている。
血は流れていないかもしれない。
でも、私の心はいつだって、地下室のコンクリートの上で、半裸の男たちと殴り合っているのだ。
上司の理不尽な要求。
部下の冷ややかな視線。
将来への漠然とした不安。
それらすべてが、私にとっての対戦相手だ。
殴られ、
蹴られ、
歯を折られ、
それでも私は立ち上がる。
なぜなら、ここはファイト・クラブだからだ。
生きている限りゴングは鳴り続ける。
さあ、クライマックスだ。
映画のラストシーン。
ビル群が次々と崩落していく。
Pixiesの『Where Is My Mind?』が流れる。
「ウー、ウー」というコーラスが、世界の終わりを祝福するように響き渡る。
私は今、脳内でその光景を見ている。
崩れ落ちていくのは、金融ビルではない。
私の車のローンだ。
私の健康診断の結果(E判定)だ。
私の積み上がった未読メールだ。
そして、私の世間体という名の牢獄だ。
すべてが爆発し、粉塵となって消えていく。
なんと美しい光景だろう。
私は、隣にいる(であろう)マーラの手を握る。
彼女の手は冷たくて、少しカビ臭くて、とても愛おしい。
私の手は脂ぎっていて、痛風のせいで関節が少し腫れているが、それでも強く握り返す。
「変な時に出会ったな(You met me at a very strange time in my life.)」
私は自分自身に向かってそう呟く。
そうだ、43歳。人生の折り返し地点。
車はファミリーカーで、夢は摩耗して小さくなったし、腹は出ている。
最高にストレンジな時期だ。
だが、悪くない。
ビルの崩壊を眺めながら、私は思う。
これから何が起きるか分からない。
明日、会社が爆発しているかもしれない(してない)。
明日、宝くじが当たっているかもしれない(買ってない)。
あるいは明日、痛風の発作でアクセルが踏めなくなるかもしれない(これはあり得る)。
それでも、私はこの世界のすべてを笑って見届けてやるつもりだ。
口の中の血の味と硝煙の匂いを感じながら。
タイラーの幻影が、瓦礫の向こうで親指を立てているのが見える。
私の脳内では今、完璧なエンドロールが流れている。
曲はもちろん、Pixiesだ。
さあ、ボリュームを上げろ。カーステレオが壊れるまで。
世界の終わりはこんなにも静かでこんなにもうるさい。
私のファイト・クラブは、まだ終わっちゃいないのだから。
(暗転)
(ここで、サブリミナル的に男性器の画像が一瞬だけ映る……ような気がするが、それは私の疲れた網膜が見せる幻覚だろう)
