フトニズムをぶっ飛ばそう
ブライトンでやらかしたあの日
2年ぐらい前、僕がイギリスの南海岸のブライトンに住んだ。その時、労働党が地元の選挙区の候補者選考を行い、投票権が当時あった。有名なコメディアンのエディー・イザードが議席を目指したことで全国の注目を集まったが、結局ほかの候補者が選考された。
その時、がっかりしたイザードさんを励ますため、「大丈夫、選挙区はあと649個あるから!」とうっかり話しかけた。ひたすら「チャンスが又あるから頑張って!」と言いたかったのに、反省すると、むしろ侮辱、いじめに聞こえたかもしれへん。イザードさん、マジ申し訳ございません。
そもそも何で解釈がそれほどあったか、何で「また649個あるから!」という事実を言い出すのが悪かったか。最近考え込んで、日英の現代民主主義のある傾きに気づいたと信じ、ここで書き出してみる。
題が多分手掛かりになったけれど、どんな傾きかがわかるのに、まずブライトンから数千キロ離れている街の政治を語って、比較しよう。
渋谷の人は誰なのか
近年、「渋谷ハロウィン」を巡る議論が東京都民や在日外国人の間に盛り上がってきた。渋谷ハロウィンは最初の頃、日本独特のロマンティックなクリスマスのように海外の伝統を曲げた、楽しい事例として思われたが、時間がたてばたつほど、車がひっくり返されたみたいな報道が増えれば増えるほど、住民の迷惑として社会問題扱いされてきた。
渋谷区は結局、ハロウィンを渋谷の魅力を宣伝する機会とするどころか、誰も来ないよう呼びかけ始め、結局のところ「禁止だよ!迷惑ハロウィン」みたいなスローガンで渋谷ハロウィンの廃絶を目指した。
へっ?祭りを全面的に禁止することは子ども小説の悪役の手や。皆がそうわかってるんやろ!
…でも結局のところ、渋谷区議会でも、たった一人の議員さんが禁止の反対票をしてくれた。(※1)
何この国…と肩を落とした人が結構あったに違いあらへん。
とはいえ、ある意味、禁止禁止と叫んだ渋谷区は普通に働いたと思う。ってか、渋谷区政の構造は必ずこういう矛盾を生んでいくと思う。
なぜかといえば、息苦しい生活を一晩忘れて、酔っぱらいながら渋谷の路上で居場所を見つけた人達のほとんどは「渋谷区民」とされていないから。
規則ばっかりに変なナイキ施設を作るために、区立公園から有名ながら追い出された野宿者さん達も…
ブライトンにも渋谷にも潜むフトニズムとは
ブライトンの件では、「地元愛」を欠けたと考えられたイザードさんが、地元を結構語ってきた候補者に負けた。ブライトンのことだけを考えると、これが健全に見えるけれど、イザードさんはコメディアンやから、長年居候に近い生活を送ってきて、定着した地元がそもそもあるわけないやん。
実はブライトンへ来た前、シェフィールド市でも同じ運命にあった。イザードさんみたいに定着の無い方々もいっぱいおるのに、完全小選挙区制のイギリスでは常に議会政治から排除されている。議会が定着の無い有権者のためにもそもそも動いているかも信じがたくなった。
渋谷の件では「渋谷の未来に関心があっても渋谷の住民票が無い」層が同様に排除されてきた。渋谷区はどうせ家賃が高いから、ハロウィンへ行く人では、東京の郊外とかちばらぎぐんたまから来て、終電や発電で帰る人が大半やろう。
その人たちの「居場所」が渋谷なら、住所の周りの政治より、渋谷の政治のほうに、生活が左右されかねへん。
僕も今上京区やけど、繫華街の中京区や大学施設の北区や仲間がいっぱいおる左京区の方に起きている時間を潰し、あそこの政治のほうに関心がある。幸いなことに京都市はそもそも特別区性がなくてこの問題に直面してないが、住所が向日市などの方がむしろ感じそうのでは。
要するに、ブライトンでも渋谷でも、「お前は布団を敷く場所の政治だけを気にしたほうがええ」態度を気づいた。これを「フトニズム」と呼んで、問題視していきたいと思う。
フトニズムは地元愛とどう違うか、そもそもなぜ悪いのか
フトニズムは政治的、殆ど地政学的な思考を示す言葉や。「人間は布団を敷く場所で世間や利害がほぼ決まっているとの思い込み」として定義づけると思う。
小選挙区または中選挙区に基づいた、世界の殆どの議会民主主義制度は、ある意味のフトニズムを念頭に置いて創られたと思う。恐らく、産業革命や大戦の後の大移住や家族形態の変化がまだまだな時代に作られたからのでは。
しかも、定着、結婚そして家庭づくりを縁遠く感じて常に移動する人が「非人」や「浮浪者」として構造的に酷い差別を受けた時代に多くの制度が作られた。女性さえ投票権がなかった社会を背景にしたら、「あんな人」をちゃんと人間扱いするどころでもなかったかもしれへん。
時代に伴って人生や家族の当たり前、特に移住の頻度の当たり前が変化し、幸いなことに居候するだけで人権を奪えばおかしいとの考えも少しだけ根付いてきた。地元以外の人間関係もあり得る、とだんだんわかって来られた。そんなのに、政治や選挙制度のフトニズムが全然変わらへんかった。
こうして見たら地元愛との違いがわかるかな?地元愛はボトムアップで地元の定義を作りあうことで、かなり排他的になり得れば、移住してきた人を含む、より進歩的な力を出すこともできる本能や(※2)。他方で、フトニズムは権力が定める区域で主権者性が定まる、トップダウンの仕組みや。
しかし、フトニズムが地元愛と違っても、地元に対する気持ちが強い人と強くない人には影響がそれぞれ違う。
移住をいっぱいしたことのあり、仲間が北海道から沖縄まで散らかっていたら、自治会の人とかが「○○地区のために動こう」と励まされても、あまりにもどうでもよく感じる確率が高いのやあらへんか。
ただ、その地元で生まれ育ったり、仲間に囲まれたり、家でよく時間をかけたりする人なら、むしろ一生懸命その地元のために働こうと思うかもしれへん。
尚、自治会であれ地元の政治団体であれ市民運動であれ、こんな地元活動に成功するのに時間もかかるし、地元単位で作られたこういう団体の権力を、地元に最も定着している人が当然握ってくるのよ。(※3)
結局のところ、フトニズム的に作られた政治構造によって、権力が布団で定義された「自分の地元」に時間も気力もいっぱい使う人に集中されてくるのよ。
渋谷の情勢が示す、地元と居場所の関係の問題を念頭に置かなければいけなくても、地元愛が報われること自体は、もちろん悪くない。しかし、国政を小選挙区制度で営んだりすることで、《全部》の権力構造を地元別にする場合を考えよう。地元と関係の薄い生き方を選んだ、又は社会経済的な理由で選ばされた人は、上に書いた過程で投票以外の「参政権」が奪われるのではあらへんか。
その「場合」はイギリスの現実で、日本の現実にもかなり近いと思う。
フトニズムに負けへん政治構造をつくろう
渋谷ハロウィンの件では、どこかの居場所への愛着がありながらその居場所はたまたま布団の場所と違うみたいな、軽症やと思う。その軽症は今の制度の中でも直すかもしれへん。
例えば、職場や学校の位置、それとも生の訪問数で関係性の証拠があれば、投票する場所を住所の自治体以外に移す制度を作ったらどうやろうか。
現在の非道な住所要件を消す意味で野宿者の参政権の保証にも、地元愛がいっぱいあるのに経済的な理由で涙ながら離れなければならへん人が「ふるさと投票」できる制度にもなり得る。
ただ、ブライトンのイザードさんの丸ごと参政を保証するために、こんな調整で済むわけではあらへん。
正に前々回だけに逆出羽守の話をしたが、日本はもう、いかなる地元と関係なく挑戦できる、素晴らしい反フトニスト的な権力源がある。なにかは言うまでもないかもしれへんが、参議院の全国比例区のことや。
全国比例区の現制度はよく組織票の基盤として批判を受けがちや。しかし、経済的立場であれ組合であれ宗教であれ、地元と関係がなくても同じ利害関係を持つ人が議員をつくることは、代表民主制の普通の動きではあらへんか。
組織が全部古くさいわけでもなく、山田太郎や赤松健がアニメオタクをさえ組織化して表現の自由問題を取り上げてきた。(自民党になっちゃったのはちょい痛いけど。)
やから、処方が当たり前や。参議院の選挙区を廃止して、全てを全国比例区にすることや。こうして、地元と関係がある権力と無い権力がようやく少しだけ平等に近づける。
もちろん、こうすることだけでフトニズムの問題が解決できるとは思わへん。特に全国比例区の制度は政党が必要やから、全国比例区を扱う各党の組織も、地元制にならへんよう油断してはいけへん。
ただ凄くええ一歩、さっきの関係人口票に合わせたら二歩やろう。
フトニズムは恐らく快適に柔らかい布団ほど太い
以上、フトニズムの入門と一番手っ取り早い対策を解説してみた。何らか考えになったら嬉しい。
フトニズムは少なくとも議会民主主義自体ほど古い現象で、しかもそれよりも古い偏見に基づいているかもしれへん。なので、他の社会問題と一緒に考えたりして、この地元愛の裏側をより探って行きたい。勝手に決められた自治体の区切りとその自治体の政治への関心(※4)について考えていきたい。
地元を愛するのが素晴らしくても、地元あらへん人の人生も同じで大切やから。
(※1)後ほど禁止運動の本格化の議決の時に、子供の悪役をしたくなかった議員がゼロに減った。初回反対してくれた議員さんがよりでかい会派に編入されたせいかもしれへん。
(※2)イギリスの議会民主制の歴史では、産業革命都市マンチェスターの人たちが自分の選挙区を求めて権力にまさか大勢に殺された「ピータールーの虐殺」が目立つ。みんなが立ち上がった理由が地元愛とどれほど関係があるかは知られてないが、少なくとも、あり得るのでは。
(※3)あと一つの例を掲げると、アメリカのカリフォルニア州が如何に進歩的なイメージがあっても、家賃がマジで高くて規制などが借家人や野宿者より金持ちの家持を優先しがちで、政治参加は構造的に家持を優先しているからやって声が高まってる。
(※4)京都市という単位は確かにいろんな面で生活と関係あるが、東京都民や大阪の郊外の住民はどれほど人生を自治体レベルで考えているのかな。そうゆう友達にいろいろ聞きたくなっちゃった。
