【#映画感想文】『毛皮と赦しと沈黙と』〜レヴェナントとアメリカ神話の終わらない夜〜byオーマ【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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第1章 神は沈黙し、血が語る:レヴェナントにおける信仰の輪郭
キリスト教的倫理の中心にあるのは「赦し」の概念だ。旧約聖書「ローマ人への手紙」第12章19節にはこうある。「復讐するは我にあり。我これに報いん」。“Vengeance is mine; I will repay”――復讐の権利を手放すことは、神の正義にすべてを委ねることだと説かれている。
#レヴェナント の主人公ヒュー・グラスは、まさにその信仰の岐路に立たされている。雪に閉ざされた荒野、インディアンに襲われ、仲間に裏切られ、息子を目の前で殺されるという“受難”の只中で、彼は「復讐ではなく生存」を選び取る。しかしそれは単なる生命の延命ではない。彼は、復讐の業を自ら担うことを最後まで避け続ける。
この点で、グラスは単なる“復讐譚”の主人公ではない。彼はむしろ、キリスト教的モラルと暴力の間で引き裂かれる「聖なる異物」だ。荒野の中で繰り返される幻視と祈りのような独白、そして神の存在がただの言葉としてしか出てこないこと。それらはすべて、沈黙する神と対話を試みる孤独な信仰者の姿そのものである。
だが、ここで一つの矛盾が浮かび上がる。キリスト教は「すべての命に平等な価値がある」と説くが、その名のもとに行われたのは、ネイティブアメリカンへの迫害と土地の収奪だった。#マニフェストデスティニー(Manifest Destiny)という“神の意志”を標榜する思想は、「文明化の使命」として、異文化を“野蛮”と断じ、抹消することを正義として正当化した。
映画が描くのは、そうした“信仰と暴力”のねじれに晒された個人の物語である。グラスはイギリス系入植者でありながら、インディアンの女性と家庭を築き、彼らの言語を話す。つまり、彼は「文明」と「自然」、「支配者」と「被支配者」の境界に立つ存在だ。その“中間性”こそが、彼を象徴的に「キリスト」へと近づけていく。
グラスの言葉にある“神”とは、果たしてキリスト教の神なのか。それとも、もっと抽象的な“赦し”や“再生”の象徴なのか。彼の祈りは聞かれたのか、それともただ雪の中に吸い込まれただけなのか――私たちはこの問いに、いまだ明確な答えを持たない。
第2章 ユダは誰だったのか?信仰と裏切りの寓話としてのレヴェナント
『レヴェナント』というタイトルが意味するのは「亡霊」や「復讐のために蘇った者」。だが、この映画を観終わった後、私たちはそれを「赦しを引きずって現れた者」と読み替えることになる。#亡霊 とは、死んでもなお語られなかった痛みを抱え、戻ってくる存在のことだ。
キリスト教の文脈で見るなら、ヒュー・グラスの位置づけは明確だ。熊に襲われ、瀕死となり、土に埋められ、“死者”として扱われた彼が再び立ち上がり、自らの道を歩みはじめる。その姿は、キリストが受難を受け、死後に復活し、再び人々の前に現れたという“復活神話”をなぞる構造になっている。
だが、この神話における“ユダ”は誰なのか。
ジョン・フィッツジェラルドは金銭的報酬を動機としてグラスを見殺しにし、息子ホークを殺害する。これは、聖書の「イスカリオテのユダ」が銀貨30枚でキリストを売り渡したエピソードと重なる。映画の冒頭で、彼が「30枚で売った」と毛皮の価値を語る台詞も、皮肉のように響いてくる。
興味深いのは、裏切りの“あと”の描かれ方だ。ユダは聖書の中では悔い、罪悪感に押し潰されて命を絶つ。だが、フィッツジェラルドは逃げ、謝罪もせず、保身のために行動し続ける。「生き延びるためだった」と語る彼の言葉は、倫理ではなく生存を正当化する論理にすり替えられている。
この描写のズレが意味するのは何だろうか。
もしグラス=キリスト、フィッツ=ユダだとすれば、彼らの“関係の終わらせ方”には重要な違いがある。聖書の中でキリストは、ユダに対して怒りも報復もせず、黙して神に委ねた。その後、ユダは自ら命を絶ち、関係は断絶される。だが『レヴェナント』では、グラスは最後の瞬間まで報復を留保し、「復讐は神の手にある」と語る。そして、フィッツジェラルドの“処遇”をあくまでネイティブアメリカンたちの手に委ねる。
ここに浮かび上がるのは、“赦し”という概念を単なる道徳や宗教的美徳にとどめず、「誰が手を汚すか」という構造の問題として提示する姿勢だ。グラスは直接的な加害者になることを避け、信仰の言葉を最後に口にすることで、自らの“倫理”を確認する。
だがそれは本当に“赦し”だったのか?
心理学者エーリッヒ・フロムは、真の赦しとは「愛と自由を前提とした行為」であると説いた。つまり、恐怖や怒り、条件的な動機からではなく、自律的な意志による選択でなければならない。グラスの「神にゆだねる」という行為は、果たしてそのような自由な選択だったのか。それとも、自分の手を汚すことへのためらいの言い換えだったのか。
第3章 沈黙の中の祈り──ネイティブアメリカンの霊性と死者の声
『レヴェナント』のなかで繰り返し現れるのは、言葉にならない祈りである。雪の降る森、火のゆらぎ、水の流れ、動物の死体、そして夢の中に現れる妻と子。そのどれもが、#ネイティブアメリカン の霊性を象徴するかのように静かで、凍りついた世界に、かすかな熱を与えている。
この映画が持つもう一つの中核は、キリスト教と並行して描かれる“アミニズム”の世界観である。アミニズムとは、すべての自然物に霊性が宿るという信仰だ。山にも、川にも、動物にも、風にも、魂がある。その魂と共に生きるという感覚が、#アメリカ先住民 の文化の根底にある。
グラスが亡き妻の声を聞く場面、子どもの幻影に導かれるように進む場面は、その信仰に根ざした“祖霊との交信”に近い。これらの描写は、#シャーマニズム の儀式のようでもあり、死者の魂と生者のあいだにまだ通路があることを示唆している。
ここで注目すべきは、彼の“キリスト教的信仰”と“アニミズム的祈り”が交錯しているという事実だ。つまりグラスは、ただ神を信じているのではなく、“自然の中に神を見る”という態度を取っている。そしてそれは、彼がインディアンの女性と家庭を築き、その言語や習俗に親しんできたという背景と、深く結びついている。
このような“信仰のハイブリッド”は、単に宗教の混合ではなく、自己の再構築の営みでもある。死にかけ、裏切られ、全てを失った彼が、再び立ち上がる時、彼の祈りはキリスト教の“父なる神”への祈願ではなく、むしろ“森の精霊”に向かう沈黙であり、風に乗せたため息に似ている。
心理学者カール・ユングは、宗教体験を「象徴の体系を通じた無意識との対話」と呼んだ。つまり、目に見える儀式や言葉を介して、私たちは内なる深層とつながろうとしている。グラスが見る幻視や夢の中の家族は、そのような“象徴”としての無意識の声であり、彼の復活を支える原動力でもあった。
“Who looks outside, dreams; who looks inside, awakes.”
― Carl Gustav Jung(カール・グスタフ・ユング)
「外を見れば夢を見る。内を見れば目覚める。」
文明社会が“死んだ”と見なす存在に、まだ“語られるべき声”があるのだとすれば――グラスは、その声に耳を澄ませながら進んでいった亡霊だったのかもしれない。
そして、あのラストショット。彼がこちらを見返す瞬間、私たち自身が試されている気がする。誰の声を無視してきたのか。どの祈りを、聞こえなかったふりをしてきたのか。沈黙は、まだそこにある。
第4章 マニフェスト・デスティニーという暴力──“開拓神話”の裏にある黙殺と加害
『レヴェナント』の物語の舞台は、19世紀初頭、アメリカ西部開拓の黎明期。だがこの時代背景を踏まえたとき、映画に漂う“静かな暴力”は、単なるサバイバルや復讐の物語をはるかに超えて、アメリカの建国神話の陰影にまで踏み込んでいく。
#マニフェストデスティニー (Manifest Destiny)――これは19世紀のアメリカで広まった、「この地は神に与えられしものであり、白人がそれを征服・支配するのは天命である」という思想である。言い換えれば、宗教的運命論を盾にした、政治的・文化的な侵略の正当化だ。#開拓神話 の美名のもとで、数多の#先住民文化 が破壊され、土地が奪われ、言語と信仰が「矯正」されていった。
『レヴェナント』に登場するトラッパーたちは、その歴史の末端に生きる者たちだ。彼らは毛皮を手に入れるために奥地へと進み、ネイティブを“障害”として排除しながら、それを経済活動として当然のこととして受け入れている。フィッツジェラルドが語るように、「インディアンは皆殺しにするしかねえ」という価値観は、単なる狂人の戯言ではなく、当時の社会の支配的な感情を象徴している。
さらに、『レヴェナント』では「インディアン同士の争い」や「フランス人との取引」など、白人だけでなく多様な勢力が絡み合う複雑な構図も描かれる。だが、その背後に一貫して漂うのは、「土地は誰のものか」「誰の声が歴史に残るのか」という問いである。
アメリカ建国神話における“英雄”は、フロンティアを越えて道を切り拓く白人男性だった。だがその陰で、黙って消えていった人々がいた。土地の精霊とともに生きた人々、踊りで季節の巡りを祈った人々、死者の声を“サークル”として継承してきた人々。彼らの「声」は、“開拓”の名の下に奪われ、消されていった。
グラスの存在は、その構造に対する小さなノイズだ。彼は入植者でありながら、先住民の妻を持ち、彼らの言葉を話す。つまり彼は、加害と被害、文明と自然、白人と先住民、そのどちらにも属しきれない“裂け目”の人物だ。彼のサバイバルは、ただの個人的な闘いではない。彼の歩みは、アメリカの近代化が引き裂いていった人間関係と自然との繋がりの、残された断片を拾い集める旅でもある。
“The most dangerous creation of any society is the man who has nothing to lose.”
― James Baldwin(ジェイムズ・ボールドウィン)
「どんな社会においても最も危険なのは、何も失うものがない者である」
だとすれば、グラスとは、“失った者”なのか、“奪われた者”なのか。あるいは、“そのどちらでもない”語られなかった歴史の代弁者だったのか。
私たちは今も、「文明」という言葉のもとに、何かを正当化し、誰かを黙殺していないだろうか。
第5章 父を殺すという物語──レヴェナントと近代の終焉
『レヴェナント』はサバイバル映画である。復讐劇であり、信仰の葛藤の物語でもある。だが、もう一つの読み方があるとすれば、それは「父を殺す物語」だ。
ここでいう“父”とは、単なる家族関係ではない。それは#近代社会 が作り上げてきた「権威」の象徴であり、正義を独占する構造そのものだ。#父性 の象徴とは、秩序を保つ者、罰する者、進むべき道を指し示す者。グラスが追うフィッツジェラルドも、表向きは“仲間の一人”だが、ある種の暴力的な“父性”の象徴として描かれている。
彼は息子ホークの命を奪い、グラスから“未来”を奪った人物である。ここでの“息子”は希望であり、継承であり、文化と信仰の橋渡しでもある。ホークの存在は、白人と先住民をつなぐ象徴でもあり、その死は、両者の和解の不可能性を告げるかのように描かれる。
心理学的には、#父殺し(patricide)はフロイトによる精神分析における中心的概念である。人が自己を確立するには、絶対的な他者――すなわち“父”を乗り越える必要がある。だが『レヴェナント』で描かれるのは、殺すことへの欲望ではない。それはむしろ、「殺さないことによって殺す」という倒錯的な構造だ。
フィッツジェラルドの最期を直接手にかけないという選択。それは、倫理的には“赦し”のように見えるが、実質的には“排除”であり、“断絶”でもある。彼はもう、グラスの世界には戻れない。死なないまま、歴史からは姿を消す。沈黙の中で“生きながら死ぬ”ことを強いられる。
ここには、「父を殺すことなく、神をもたずに倫理を持つ」ための苦闘がある。神の名のもとに復讐せず、法にも頼らず、怒りに飲まれることもない。その代わりに彼が選んだのは、「誰も正義を持たないまま、世界に居続けること」だった。
そしてこの構造は、21世紀を生きる私たちにも突きつけられている。
制度、国家、宗教、そして家族――かつて絶対だった“父性”の構造は、いまや不信と疑念の対象でしかない。それでも私たちは、倫理を求めている。責任の所在が曖昧な社会の中で、「正しさ」をどうやって作り上げるのか。グラスが選んだ「殺さない」という選択は、その問いに対する一つの応答だったのかもしれない。
“To forgive is to set a prisoner free and discover that the prisoner was you.”
― Lewis B. Smedes(ルイス・B・スメデス)
「赦すとは、囚人を自由にすること。そして、その囚人が自分だったと知ること」
私たちはいま、何を殺すことで、何を守ろうとしているのだろう。
第6章 そして、あなたが見ていた空──“復讐の物語”から“観る者の物語”へ
(ラストシーン)グラスが静かにこちらを見る。
見上げる空に、誰の姿も映らない。ただ雪と風と、沈黙だけがある。
『レヴェナント』の最後に、グラスはカメラ――つまり“私たち”を見つめる。そこには言葉も怒りもない。ただ静かに、こちらを見ている。そのまなざしは、もはや“物語の登場人物”ではなく、“物語を見ている私たち自身”を問い返しているように見える。
この瞬間、#復讐劇 は終わる。そして「誰の物語か」が反転する。
私たちは映画の冒頭から、グラスの身体を通じて「復讐の正当性」や「生存の強さ」に共感しようとしてきた。だが彼の最後の眼差しは、それを突き放す。復讐を成し遂げた快感も、神への信頼の証も、そこにはない。ただ“疲弊し尽くしたひとりの人間”のまなざしがある。
そして思うのだ。彼が見ていた空は、私たちが見ている空と、同じだったのだろうか?
あの空の色、風の冷たさ、積もる雪の重さ――私たちは本当に、彼の“痛み”を理解できたのだろうか。それとも、それらを消費し、感動し、“いい映画だった”と切り離してしまっただけなのだろうか。
本作は、私たちの「#見ること」そのものを揺るがす。誰の目線で見ていたのか? 誰の倫理に乗って物語を読んでいたのか? フィッツジェラルドの視点に共感しないまでも、“生き延びるための選択”として受け入れてしまってはいなかったか。ホークの死を“必要なプロット”としてやり過ごしてはいなかったか。
この物語は、暴力を描いているのではない。暴力に慣れきった私たちを、そっと裏返しているのだ。
心理学には「#脱個人化(deindividuation)」という概念がある。集団や物語のなかで、個人としての感覚が薄れ、無自覚に加害や傍観に加担してしまう状態を指す。映画を“観る”という行為もまた、脱個人化の回路に入り込みやすい。だが、グラスのまなざしは、その無自覚を突き刺す。
彼が最後に振り向いたのは、物語の終わりではなく、“問いの始まり”だったのかもしれない。
“The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes.”
― Marcel Proust(マルセル・プルースト)
「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、新しい目を持つことだ」
私たちはいつの間にか、“見る者”としての責任から逃れていたのではないか。
グラスはあなたかもしれない。
フィッツジェラルドもあなたかもしれない。
そして何より、「何もせずに見ていただけの者」が、私たち自身なのかもしれない。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
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