【#映画感想文】 #ディズニー アニメーション一気に批評 その21 『#コルドロン』知らない人は知らないし、知っている人は酷評する恐ろしい暗黒期の代表作 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓
第1章 暗黒期の代表作という名の呪物
1.1 冗談抜きでつまらないという恐怖
正直に言おう。
私はこの映画を観ながら、人生で初めて「今、自分は本当にディズニー映画を観ているのか?」と本気で疑った。
笑えない。
泣けない。
心が、まったく動かない。
その結果どうなったかというと、物語を追うより先に、私はパッケージを何度も確認していた。
「これ、別会社のB級ファンタジーを間違って再生してない?」
「ディズニーのロゴ、誰かが後から貼り付けた可能性は?」
そんな疑念の方が、画面上の展開よりよほどスリリングだった。
これは単なる退屈とは違う。
退屈な映画は眠れる。
眠れるということは、脳が“これ以上処理する価値はない”と判断してくれた証拠だからだ。
だが『コルドロン』は違う。
眠れない。
なぜなら、つまらなさの理由を考え始めてしまうからだ。
・なぜ物語に引力がないのか
・なぜキャラクターが感情を持たない記号に見えるのか
・なぜディズニーが最も得意としていたはずの「語り」が死んでいるのか
この「なぜ」が頭から離れない。
ここで思い出すのが、社会心理学者マーティン・セリグマンが1975年に提唱した「学習性無力感」だ。
彼はこう述べている。
“When people learn that their actions have no effect on outcomes, they give up trying.”
(自分の行動が結果に影響を与えないと学習したとき、人は試みること自体をやめてしまう)
―― マーティン・セリグマン
まさにこれが、観客の心に起こる。
期待しても報われない。
理解しようとしても意味がない。
感情を預けても、何も返ってこない。
結果、観客は「感じること」をやめる。
ディズニー映画としては、ほぼ致命傷である。
1.2 興行的失敗という数字の告発
感覚だけで叩くのは簡単だ。
だが『コルドロン』は、数字の上でも明確に失敗している。
制作費は約4400万ドル。
当時のディズニー長編アニメとしては、かなり思い切った投資だった。
しかし全米興行収入は約2100万ドル。
つまり、回収不能な赤字だ。
これは「少し滑った」レベルではない。
社内では、ディズニーという巨大スタジオの存続すら危ぶまれたと言われている。
ここで援用したいのが、社会学者ロバート・K・マートンの制度論だ。
彼は1938年の論文で、制度が本来の目的を見失ったときに起こる「逆機能(dysfunction)」について指摘している。
“Social structures may produce consequences that are detrimental to the system itself.”
(社会構造は、時としてその制度自体にとって有害な結果を生み出す)
―― ロバート・K・マートン
この時期のディズニーは、まさにその状態だった。
・ウォルト亡き後のビジョン不在
・古参アニメーターと若手の衝突
・80年代ハリウッドにおける「子ども向け表現」の迷走
本来、傑作を生み出すために機能していた組織構造が、
凡作を量産し、ついには怪作を生み落とす装置に変質していた。
『コルドロン』は、その逆機能が最も露骨に表面化した一本だ。
1.3 日本で「存在しない作品」になった理由
日本において、この映画は驚くほど知られていない。
ディズニー好きを名乗る人ですら、「ああ、タイトルだけは聞いたことある」という反応が大半だ。
唯一の例外が、かつて存在したシンデレラ城ミステリーツアーだろう。
なぜかラスボスがホーンド・キング。
判断基準は今なお謎だが、とにかく日本で『コルドロン』が可視化された、ほぼ唯一の場所だった。
しかし、そのアトラクションもすでに消滅した。
つまり今、日本でこの映画に辿り着くルートは、ほぼ断絶している。
文化人類学者クリフォード・ギアツ(1973)は、文化とは「意味の網の目」だと述べた。
人はその網の中で、物語を理解し、共有し、次世代へと手渡していく。
だが『コルドロン』は、その網に最初から絡め取られなかった。
・テレビ放映が少ない
・関連グッズが出ない
・語り継がれる文脈がない
結果どうなるか。
知らない人は一生知らない。
知っている人は、だいたい困った顔をする。
ディズニー作品としては、最も悲惨なポジションである。
1.4 それでも眠れなかった理由
普通なら、私は途中で寝る。
本当につまらない映画というのは、意識が自然にフェードアウトする。
だが『コルドロン』は違った。
眠れなかった。
怒りで目が冴えたわけでもない。
むしろ、「なぜここまでズレたのか」を考え始めてしまったからだ。
この映画に漂うのは、悪意ではない。
情熱も、挑戦も、確信もない。
あるのは「決断しきれなかった痕跡」だけだ。
だから怖い。
『コルドロン』は、
誰かの暴走ではなく、誰も責任を取らなかった結果として生まれた映画なのだ。
娯楽としては致命的だが、
ディズニー暗黒期を語る上では、これ以上ない資料でもある。
だから私は眠れなかった。
つまらなさに絶望しながら、
同時に「暗黒期とは何か」を考え込んでしまったからだ。
第2章 あらすじ――説明すると余計に不安になる物語
2.1 一応、物語は存在する
まず大前提として言っておく。
『コルドロン』には、ちゃんと物語がある。
ないわけではない。
ただし、説明すればするほど「何を見せたい話なのか」が曖昧になるという、極めて珍しいタイプの作品だ。
舞台は剣と魔法のファンタジー世界。
主人公は少年ターラン。
豚飼い見習いとして魔法使いダルベンのもとで暮らしている。
ここで早くも違和感が生じる。
ディズニーの主人公としては、驚くほど欲望が薄い。
ヒーローになりたいのか。
冒険に出たいのか。
誰かを守りたいのか。
そのどれもが、はっきりしない。
物語の駆動力となるのは、
未来を予知する力を持つ豚・ヘン・ウェンと、
それを狙うホーンド・キングの存在だ。
設定だけ並べれば、実に分かりやすい。
・予言
・伝説の魔法の釜
・不死身の軍団
・世界征服を目論む魔王
だが、分かりやすいことと、面白いことは別である。
2.2 危機が共有されないという致命傷
ヘン・ウェンは作中で極めて重要な存在だ。
彼女が捕まれば、未来が読まれ、世界は破滅する。
理屈は分かる。
設定も理解できる。
しかし、観ているこちらは、まったく焦らない。
なぜか。
心理学者ポール・スロヴィックは、人が危機を「自分事」として感じる条件について、次のように述べている。
“People respond more strongly to concrete, emotionally vivid risks than to abstract statistical ones.”
(人は抽象的で数値化された危険よりも、具体的で感情的に鮮明な危険に強く反応する)
―― ポール・スロヴィック
『コルドロン』で語られる危機は、すべてが抽象的だ。
・世界が滅ぶ
・未来が変わる
・闇が広がる
だが、それによって
誰がどう不幸になるのかが描かれない。
だから、追われているはずなのに緊張感がない。
逃げているはずなのに、切迫感がない。
危機が設定上の文字情報として存在しているだけで、
感情として観客に渡されていない。
2.3 仲間が増えても物語が躍動しない理由
旅の途中で、ターランは仲間を得る。
おしゃべりな吟遊詩人フルーダム。
行動的で自立心のある姫・エイロンウィ。
そして、未来を予知する豚。
普通なら、ここで物語は一気に動き出す。
ディズニーは、仲間同士の掛け合いと役割分担によって、感情のリズムを作るのが得意だった。
だが本作では、なぜかそれが機能しない。
社会学者アーヴィング・ゴフマンは、人間関係を「役割の演技」として捉え、次のように述べている。
“A social role involves a set of expectations about behavior.”
(社会的役割とは、行動に対する一連の期待の集合である)
―― アーヴィング・ゴフマン
この映画では、その「期待」が成立しない。
誰が物語を引っ張るのか。
誰が感情を代弁するのか。
誰が観客の視点になるのか。
全員が中途半端に主役で、
中途半端に脇役だ。
結果、キャラクター同士の化学反応が起きない。
仲間が増えているのに、物語は軽くならない。
2.4 ホーンド・キングという“理由なき悪”
ホーンド・キングは、見た目だけなら印象的だ。
骸骨のような顔。
黒いローブ。
不死身の兵を操る王。
だが、決定的な問題がある。
彼が「なぜ」そうなったのかが描かれない。
哲学者フリードリヒ・ニーチェは、『善悪の彼岸』(1886)で次のように警告している。
“He who fights with monsters should look to it that he himself does not become a monster.”
(怪物と戦う者は、自分自身が怪物にならぬよう注意せよ)
―― フリードリヒ・ニーチェ
この言葉が成立するためには、
怪物が「人間的な論理」から生まれていなければならない。
だがホーンド・キングは違う。
最初から最後まで、設定としての悪でしかない。
主人公が彼と対峙することで、
何を学ぶのか。
何を選び、何を捨てるのか。
その問いが立ち上がらないため、クライマックスも空虚になる。
2.5 あらすじを語り終えて残る違和感
ここまで、私は確かにあらすじを語ってきた。
出来事も、登場人物も、敵も、目的も説明した。
それなのに、
「なぜこの物語が存在しているのか」が見えてこない。
これは語り手の失敗ではない。
物語そのものが、そういう構造をしている。
第3章 まとまりがなさすぎる――物語が分裂したまま接合されている
3.1 物語の芯が、どこにも存在しない
『コルドロン』最大の問題は、派手さでも暗さでもない。
物語の芯が見当たらないことだ。
主人公ターランは旅に出る。
敵は世界征服を企む。
仲間も揃う。
危機も用意されている。
それなのに、話が一向に「前に進んでいる感じ」がしない。
理由は単純で、
この物語が「何についての話なのか」が定義されていない。
成長譚なのか。
運命への反抗なのか。
力の誘惑と倫理の話なのか。
そのどれもが、途中まで示唆され、途中で放り出される。
物語論の古典として知られるアリストテレスは『詩学』(紀元前4世紀)で、物語の統一性について次のように述べている。
“A whole is that which has a beginning, a middle, and an end.”
(全体とは、始まり・中間・終わりを備えたものである)
―― アリストテレス
『コルドロン』には、場面としての始まりと終わりはある。
だが「中間」、つまり意味が積み重なっていく過程が存在しない。
出来事は起こる。
しかし、それが次の出来事を必然的に呼び込まない。
結果、物語は進行しているようで、実はずっと足踏みをしている。
3.2 原作はきっと面白い、という逃げ道
本作はロイド・アレクサンダーの児童文学『プリデイン物語』が原作だ。
原作ファンの間では評価も高い。
だからこそ、擁護の常套句が生まれる。
「原作は面白い」
「映画は要素を詰め込みすぎた」
「尺が足りなかった」
確かに、それは事実かもしれない。
だが、それは映画の評価を免責する理由にはならない。
メディア論の研究者マーシャル・マクルーハンは、メディア変換の本質についてこう語っている。
“The medium is the message.”
(メディアそのものがメッセージである)
―― マーシャル・マクルーハン
原作がいくら優れていても、
アニメーション映画として成立していなければ意味がない。
『コルドロン』は、
文学の複雑さを映像に落とし込む覚悟も、
映像向けに再構成する決断も、
どちらも中途半端だった。
その結果、
原作を知らない人には分からず、原作を知っている人には物足りない
という最悪のポジションに陥る。
3.3 キャラクター造形が全員「途中下車」
キャラクターもまた、全員が未完成のまま放置されている。
ターランは成長しきらない。
エイロンウィは主体的な女性像になりきれない。
フルーダムはコメディリリーフとして機能しない。
全員が「これから面白くなりそうだ」という段階で、
物語が次の場面へ進んでしまう。
心理学者エリク・エリクソンは、発達段階におけるアイデンティティ形成について、次のように述べている。
“Identity is never ‘established’ as an ‘achievement’ in the sense that it is permanent.”
(アイデンティティは、永続的に完成する成果として確立されるものではない)
―― エリク・エリクソン
重要なのは、「揺れ」や「葛藤」が描かれることだ。
だが本作では、葛藤が始まる前に場面が切り替わる。
観客は、
「悩みそうだな」と思った瞬間に置き去りにされる。
その繰り返しが、
キャラクター全員を記号に変えてしまう。
3.4 マスコットとして失敗した“予知する豚”
ここで、どうしても触れなければならない存在がいる。
ヘン・ウェンだ。
未来を予知する能力を持つ豚。
物語の起点であり、争奪戦の中心。
なのに、
その能力がどう物語に作用しているのかが分からない。
予知する。
される。
だから狙われる。
それ以上でも以下でもない。
記号論の祖フェルディナン・ド・ソシュールは、記号の意味について次のように述べている。
“In language there are only differences without positive terms.”
(言語においては、実体的な意味はなく、差異だけが存在する)
―― フェルディナン・ド・ソシュール
本来、マスコットキャラクターは
「他のキャラとの差異」によって意味を持つ。
だがヘン・ウェンは、
可愛さも、滑稽さも、感情の代弁も担わない。
ただの“機能”だ。
豚の予知能力って何だよ、という素朴な疑問が、
最後まで解消されないまま物語は終わる。
3.5 なぜ、ここまで散らかったのか
ここまで見てきて分かるのは、
『コルドロン』が一つの映画として作られていないという事実だ。
複数の方向性。
複数の狙い。
複数の理想像。
それらが整理されないまま、一本に押し込まれている。
結果、
物語は分裂したまま接合され、
観客はどこに感情を預ければいいのか分からなくなる。
第4章 コテコテのファンタジーがすべてを殺した
4.1 全部入りセットが一番つまらないという話
『コルドロン』を改めて眺めると、要素だけは異様に豪華だ。
剣と魔法。
伝説の武器。
不死身の軍団。
分かりやすい魔王。
怪しげな魔女。
行動力のある姫。
男の子が好きそうなものを、これでもかと詰め込んでいる。
RPGの序盤で見たことがある光景が、次から次へと流れてくる。
問題は、全部見たことがあるという点だ。
驚きがない。
違和感もない。
「ああ、はいはい、こういうやつね」という理解が、感情より先に来る。
美学者テオドール・アドルノは、大衆文化の消費構造について次のように述べている。
“The culture industry perpetually cheats its consumers of what it perpetually promises.”
(文化産業は、約束し続けるものを、永遠に消費者に与えない)
―― テオドール・アドルノ
『コルドロン』は、まさにそれだ。
ファンタジーの約束事はすべて提示される。
だが、その先にあるはずの感動や発見は、どこにもない。
4.2 80年代ファンタジーの「呪われた文法」
この作品が作られた1980年代半ばという時代も、無視できない。
当時は、
・『スター・ウォーズ』の成功
・テーブルトークRPGの普及
・剣と魔法の世界観の定型化
が一気に進んだ時代だった。
つまり、ファンタジーは「新しい表現」ではなく、
すでに消費され尽くした記号になり始めていた。
記号論者ジャン・ボードリヤールは、現代社会における表象の問題を次のように語っている。
“The simulacrum is never that which conceals the truth—it is the truth which conceals that there is none.”
(シミュラークルは真実を隠すものではない。真実が存在しないことを隠すのだ)
―― ジャン・ボードリヤール
『コルドロン』のファンタジー要素は、
もはや現実や人間の問題を映す鏡ではない。
ただ「ファンタジーっぽいから置かれている」だけの装飾だ。
その結果、世界観は厚みを持たず、空洞化する。
4.3 わかりやすい悪が、物語を平坦にする
ホーンド・キングは、極めてわかりやすい悪だ。
見た目も、行動原理も、目的もシンプル。
だが、この「わかりやすさ」が致命的だった。
なぜなら、
主人公が彼と対峙することで、
何も揺さぶられないからだ。
哲学者ハンナ・アーレントは、悪の本質について次のように述べている。
“The sad truth is that most evil is done by people who never make up their minds to be good or evil.”
(悲しい真実は、多くの悪が、善悪を考えない人々によって行われるということだ)
―― ハンナ・アーレント
だがホーンド・キングは違う。
彼は最初から最後まで、
「考えなくても悪だと分かる存在」として配置されている。
その結果、
主人公も観客も、倫理的な葛藤を一切経験しない。
ただ倒すべき敵がいるだけ。
それは物語ではなく、作業だ。
4.4 ディズニーが本来得意だった“ずらし”がない
ディズニーの黄金期作品を思い出してほしい。
『白雪姫』は、可憐さの裏に恐怖を忍ばせた。
『ピノキオ』は、教育の名の下に残酷さを描いた。
『ダンボ』は、弱さを差別のメタファーとして使った。
つまりディズニーは、
定型をそのまま使わないスタジオだった。
ところが『コルドロン』には、それがない。
剣は剣のまま。
魔王は魔王のまま。
姫は姫のまま。
社会学者ピエール・ブルデューは、文化表現について次のように述べている。
“Taste classifies, and it classifies the classifier.”
(趣味は対象を分類すると同時に、それを持つ者自身をも分類する)
―― ピエール・ブルデュー
この映画のファンタジーは、
「こういうのが好きなんでしょ?」という安易な分類に留まっている。
だから観客の側も、分類されたまま動かない。
感情も、価値観も、更新されない。
4.5 コテコテは、逃げでもあった
なぜ、ここまで定型に寄りかかったのか。
それはおそらく、
ディズニー自身が何を信じていいか分からなくなっていたからだ。
新しいことをやる勇気がない。
かといって、過去の成功法則も通用しない。
その結果、
「とりあえず全部入れる」という判断が下される。
だが、全部入れた結果、
何一つ強調されない。
『コルドロン』は、
ディズニー暗黒期の不安と迷いが、
そのままファンタジーの皮を被って現れた作品なのだ。
第5章 シンデレラ城ミステリーツアーという人生の不条理装置
5.1 映画より先に刷り込まれた“恨み”
ここで、どうしても私的な話をしなければならない。
なぜなら『コルドロン』という映画に対する私の感情は、
スクリーンの中だけで完結していないからだ。
この作品に対する私の評価には、
明確な私怨が混ざっている。
シンデレラ城ミステリーツアー。
今はもう存在しない、日本オリジナルのディズニーランド・アトラクション。
なぜかラストに立ちはだかるのが、
ホーンド・キングとコルドロン。
映画を観たことがなくても、
このアトラクションで初めて
「なんかヤバそうな敵」として刷り込まれた人も多いはずだ。
問題はそこじゃない。
問題は、選ばれる子供である。
5.2 選ばれし者は、いつも自分じゃない
クライマックスで、案内役のお姉さんが言う。
「あなた、剣を持って前に出てください」
選ばれた子供だけが、
稲妻を放つ剣を手にし、
ホーンド・キングに立ち向かう。
私は何度もこの場面を体験した。
毎年のようにディズニーランドへ行く家庭だったからだ。
だが、一度も選ばれなかった。
いつも、誰か別の子供が前に出る。
基準は分からない。
背の高さでもない。
だったら6歳時点ですでに130cmを超えていた私は圧倒的だから選ばれて然るべきである。
年齢でもない。
声を出したかどうかですらない。
ただ一つ確かなのは、
努力や回数は、一切関係がないということだ。
社会学者マックス・ヴェーバーは、合理性の限界について次のように述べている。
“Not every process can be rationally controlled.”
(すべての過程が合理的に制御できるわけではない)
―― マックス・ヴェーバー
このアトラクションは、
子供にそれを容赦なく叩き込む。
5.3 努力が報われない世界を、最初に教えてくれた場所
学校では、努力すれば報われると教えられる。
頑張れば評価される。
続ければ結果が出る。
だがシンデレラ城ミステリーツアーは違う。
・何度通っても
・真面目に話を聞いても
・心の中で強く願っても
選ばれないものは、選ばれない。
哲学者アルベール・カミュは、不条理についてこう書いている。
“The absurd is born of this confrontation between the human need and the unreasonable silence of the world.”
(不条理とは、人間の欲求と、世界の理不尽な沈黙が衝突することで生まれる)
―― アルベール・カミュ
あの空間で、私は初めてそれを体験した。
世界は、こちらの期待に答えない。
理由も説明しない。
ただ、結果だけを突きつける。
5.4 メダルをもらえなかった者の倫理観
選ばれた子供は、
メダルをもらい、
拍手を浴び、
ちょっとした英雄になる。
選ばれなかった子供は、
静かに拍手をする側に回る。
ここで重要なのは、
悔しさを表に出すと空気が壊れるという点だ。
ディズニーランドは夢の国である。
不満や嫉妬は、歓迎されない。
だから、
「おめでとう」と言う。
笑顔を作る。
何事もなかったふりをする。
社会学者エミール・デュルケームは、社会的規範について次のように述べている。
“Society is not a mere sum of individuals.”
(社会は、単なる個人の総和ではない)
―― エミール・デュルケーム
個人の感情より、
場の秩序が優先される。
このアトラクションは、
感情を内面化する訓練装置でもあった。
5.5 なぜ、ホーンド・キングだったのか
ここで立ち返るべき問いがある。
なぜ、この役割を担う敵が、
ホーンド・キングだったのか。
答えは皮肉だ。
彼は映画の中でも、
理由もなく、
説明もなく、
ただ“立ちはだかる存在”として現れる。
だからこそ、
理不尽の象徴として完璧だった。
倒される理由が分からない。
立ちはだかる理由も分からない。
だが、前にいる。
人生で出会う理不尽は、だいたいこの形をしている。
だから私は、
この映画より先に、
このアトラクションで
『コルドロン』という作品を理解してしまったのかもしれない。
第6章 そんなわけで――これはクソ映画だ、だが資料としては完璧だ
6.1 結論から言おう、クソ映画である
ここまで長々と語ってきたが、
まずは結論をはっきりさせておく。
『コルドロン』はクソ映画である。
擁護の余地は少ない。
感動もしない。
キャラクターにも愛着が湧かない。
物語はまとまらず、テーマも定まらない。
ディズニー作品として期待されるもの――
物語の快楽、感情のカタルシス、余韻のあるラスト。
そのどれもが、ほぼ存在しない。
視聴時間分、
人生の可処分時間が静かに削られていく。
これは誇張ではない。
娯楽作品として見た場合、
失敗作と言って差し支えない。
6.2 それでも“意味がない”とは言えない理由
だが、ここで話を終えるのは簡単すぎる。
なぜならこの映画には、
別の意味での価値が、異様なまでに詰まっているからだ。
それは、
ディズニー暗黒期を理解するための、ほぼ完璧なサンプルだという点である。
・方向性を失った組織
・決断できない制作体制
・安全策としてのテンプレ依存
・原作改変の失敗
・ファンタジー記号の空洞化
これらが、一本の映画にすべて詰め込まれている。
社会学者ロバート・K・マートンが言う「逆機能」は、
ここでは理論ではなく、映像として観測できる。
“Social structures may produce consequences that are detrimental to the system itself.”
(社会構造は、その制度自体にとって有害な結果を生み出すことがある)
―― ロバート・K・マートン
『コルドロン』は、
ディズニーという巨大システムが、
一時的に自分自身を傷つけてしまった痕跡なのだ。
6.3 暗黒期を語りたい人間にとってのマスターピース
ここで視点を反転させよう。
もしあなたが、
「ディズニー暗黒期とは何だったのか」
「なぜルネサンス期が必要だったのか」
それを語りたい人間ならどうだろう。
この映画は、
履修必須科目である。
これを観ずして、
『リトル・マーメイド』の革命性は語れない。
『美女と野獣』の完成度も実感できない。
『ライオン・キング』の自信に満ちた語り口も理解できない。
哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、
歴史について次のように述べている。
“The only thing that we learn from history is that we learn nothing from history.”
(歴史から我々が学ぶ唯一のことは、人類が歴史から何も学ばないということだ)
―― ヘーゲル
だが少なくとも、
ディズニーはこの失敗から学んだ。
その証拠が、
90年代のルネサンスである。
6.4 我慢できずに再生したあなたへ
ここまで読んで、
「そこまで言われるなら一度観てみるか」と思い、
我慢できずに再生ボタンを押したあなた。
残念だが、
あなたはもう後戻りできない。
途中で違和感を覚え、
キャラクターに感情移入できず、
「これ、いつ面白くなるんだ?」と考え始めた瞬間。
その時点で、
あなたはディズニーオタクの入り口に立っている。
なぜなら、
普通の観客は途中で止める。
考察しようとしない。
暗黒期という言葉に興味を持たない。
それでも観続け、
それでも意味を探し、
それでも語ろうとする人間だけが、
この映画を必要としてしまう。
6.5 クソ映画は、時に入口になる
最後に、少しだけ優しいことを言って終わろう。
『コルドロン』は、
多くの人にとっては
「存在しなくても困らない映画」だ。
だが一部の人間にとっては、
・ディズニーを深く知る入口であり
・創作における失敗の教材であり
・人生の理不尽を思い出すトリガーでもある
それだけで、この映画は完全に無価値だとは言えない。
私はもう一度は観ない。
だが、語ることはやめない。
なぜなら、
暗黒期を直視できる人間だけが、次の黄金期を語れるからだ。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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