【#映画感想文】 HanuMan 「力が欲しいか?」とと言われた後は byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 選ばれた男の映画なのか??
インドのスーパーヒーロー映画だと聞いて、正直なところ、最初はそういうものだと思って再生ボタンを押した。神話をベースにした超人譚。主人公が力を得て、悪を倒す。ポスターのビジュアルもそう見えるし、予告編だけならその印象で完結する。
ところが見始めると、どうも据わりが悪い。
何が引っかかるのかを考えながら観ていて、ひとつ気づいたことがある。この映画、「力を手に入れる瞬間」をあまり気持ちよく撮っていない。ヒーロー映画にとって、主人公の覚醒はカタルシスの核であるはずだ。「選ばれた」「目覚めた」「本当の自分になった」——そういう高揚として演出されるのが定石で、観客もそれを待っている。でもこの映画は、力を得た瞬間よりも、得たあとに何が起こるかのほうに、明らかにカメラの重心が寄っている。
監督のプラシャーント・ヴァルマがインタビューでこう語っている。「これは神と科学の優劣の話じゃない。スーパーヒーローであることをどう考えるか、その観が違う二人の人物の話だ」と。
ヒーロー観の違い。最初はふわっとした言い方に聞こえた。でも映画を最後まで見ると、この言葉がかなり具体的な対立として立ち上がってくる。力を自分のものとして所有したいのか、それとも誰かのために使うものとして一時的に預かっているのか。二人の人物が、その問いの両側に立っている。
ただし、これは映画が明言しているテーマだという話ではない。監督の言葉から先は、劇中の場面を並べていったときに一番筋が通る読み方として、こちらが立てる仮説だ。「この映画はこう言っている」ではなく、「こう読むと、かなり面白い映画になる」という立て方で進めていく。
見ていくのは三つ。敵役マイケルの力への執着、主人公ハヌマントゥの未熟さと変化、そして二人のあいだに置かれた輝石という装置の性質。この三つを重ねたとき、『HanuMan』がただの「強い男の話」ではないことが見えてくる。
第1章 「自分自身に宿る力が欲しい」
マイケルという人物は、最初の印象だとそこまで重い存在に見えない。コミカルな場面もあるし、いわゆる重厚な悪役として登場するわけではない。ただ、この人物の言動を丁寧に追っていくと、この映画の核心にいるのは実はこの人だと気づかされる。
マイケルはスーパーヒーローへの憧れを、子どもの頃からずっと手放せないまま大人になった人物だ。装備を揃え、技術を使い、ヒーローらしい活動をしている。見た目も動きもそれらしく整えている。でも、満足できていない。なぜかといえば、それは「ヒーローに見えること」であって、「ヒーローであること」ではないからだ。力そのものが自分の外側にある限り、どこまでいっても借り物でしかない。その限界を、彼自身が一番感じている。
だから彼は、本物の力を求めて動き出す。そのとき劇中で出てくる言葉が、「自分自身に宿る力が欲しい」というものだ。
この言葉を聞いたとき、一度立ち止まったほうがいい。「守るための力が欲しい」でも「誰かを助けたい」でもない。力の宛先が、最初から自分自身に向いている。力を使って何をするかではなく、その力が自分の中にあるという状態そのものを欲しがっている。
心理学にバンデューラの「道徳的離脱」という概念がある。自分の行動を「正しいこと」「必要なこと」として包み直すことで、欲望を欲望として直視しなくて済むようになる構造のことだ。マイケルのすべてにこれを当てはめるのは乱暴だが、彼がヒーローについて本気で語る場面には、この構造がちらつく。力が欲しいという欲求を、正義の言葉で語り直しながら進んでいく。だから自分では筋が通っているように見えている。だから止まれない。
「正義のため」「みんなのため」という言葉を使いながら、実際に動かしているのは、力を持つ側に立ちたいという欲求だった——そういう人物は、現実にも見覚えがあるはずだ。マイケルが特別に邪悪なのではない。力を欲しがるとき、人がやりがちなことを、かなりクリアに映し出してくれる鏡として置かれている。
第2章 コソ泥のヒーロー
ハヌマントゥを「最初から心のきれいなヒーロー」として語るつもりはない。それをやると嘘になる。
この人物は序盤、小悪党として始まる。賢いし要領もいい。でも志があるわけでも、誰かのために生きているわけでもない。そういう若者として物語に入ってくる。純粋さを最初から持っていた人物ではない。
ただ、マイケルと並べたとき、一つだけ決定的に違うことがある。
ヒロインを山賊から助ける場面。あの場面で、ハヌマントゥはまず助けている。体が先に動いている。そのあとで気を引こうとする。見栄が出てくる。ちゃっかりしている。動機が純粋かと聞かれれば、かなり怪しい。でも行動の順序として、「助ける」が先に来ている。
これは地味だけれど重要な差だ。マイケルは「力を持つ自分になりたい」という内側の欲求から動く人物だった。でもハヌマントゥは、動機が混じっていても、まず外側の誰かに向かって体が動く。出発点が違う。
そしてもう一つ、決定的な場面がある。姉を助けようとする場面だ。
ハヌマントゥは石の光を姉に当てようとして、山頂まで動く。全力で間に合わせようとする。でも、間に合わない。姉が死ぬ。力を持っていたのに、救えなかった。
そのあと、ハヌマントゥは石を手放す。
これを「力を諦めた」と読むのは少し違うと思う。力があっても届かないものがあった。その経験を経て、石との関係が変わった瞬間として見たほうがいい。「持っていれば何とかなる」という前提が、自分自身の手の中で崩れた。力を失ったのではなく、力というものの輪郭が変わった。
立派だから手放したのではない。救えなかったから、握りしめていられなくなった。その違いは大きい。未熟な人間が、未熟なまま、力との距離を測り直し始めている。
第3章 太陽が隠れたら使えない力
ここまで二人の人物を見てきた。力を所有したい人物と、未熟だが助ける側から始まる人物。この章では、その二人のあいだに置かれた輝石そのものを見る。この石がどういう力なのかを正確に見ると、映画の問いがかなりはっきり浮かび上がってくる。
まず確認しておきたいのは、この力の性質だ。ハヌマントゥが手にする輝石の力は、いわゆる「選ばれし者の覚醒」とは構造が違う。石を太陽にかざし、その光を受けることで力が発動する。一度きりの儀式ではなく、使うたびにその動作が繰り返される。つまりこの力は、外部の条件を毎回必要としている。夜や曇天の場面では、力がうまく機能していない描写も重なる。
ここから見えてくるのは、この力が「本人の内側から自然に湧き出るもの」ではないということだ。石があり、光があり、条件がそろったときにだけ作動する。どれだけ欲しがっても、条件がなければ動かない。最初から「自分のもの」になりきれない力として設計されている。
そしてこの設計が最も鮮明に効いてくるのが、姉の場面だ。力を持っていたのに、全力で動いたのに、救えなかった。映画はここで自分自身を崩している。「力さえあれば全部解決する」という話を、映画自身が否定してみせる。ヒーロー映画の文法では、力を得た主人公は基本的にそれを使って問題を解決する側に回る。失敗があっても「まだ使いこなせていない」という段階の話であって、「力があっても届かない」という根本的な限界として描かれることは少ない。でもこの映画はそこに踏み込んでいる。
だからこの石は、ヒーロー認定の証ではない。未熟な人間に条件つきの大きな力を渡して、その人間がどう変わるかを映す装置として読んだほうが、ずっと筋が通る。
少しだけ現代の話をすると、SNSの影響力もこれに似た構造を持っている。フォロワー数、拡散力、バズの経験。それはその人の力でもあるけれど、同時にアルゴリズムやタイミングや場の空気にかなり支えられている。条件がそろったときにだけ大きく機能する力を、人は「自分の本当の強さ」だと思いやすい。そしてそう思い込んだ瞬間、使い方への問いが薄くなる。マイケルが危うかったのは、力が強すぎたからではなく、条件つきの力を「自分のもの」として握りしめたからだ。
終章 力は預かりもの
ラーマーヤナのハヌマーンは、「俺は強い」を見せるために動く存在ではない。ラーマに仕え、探し、運び、助けるために力を使う。力の向きが、最初から自分の外側に向いている。そしてこの映画のタイトルがHanu-Manである以上、その像は背景として静かに効いている。
この映画は、その力を二人の人物のあいだに置いた。
マイケルは「自分自身に宿る力が欲しい」と言った。力を内側に取り込み、自分のものにしたかった。動機を正義の言葉で包み直しながら、力の主体になることそのものを目的にしていた。一方ハヌマントゥは、力を持ったあとで姉を救えず、石を手放した。立派だったからではない。握りしめていられなくなったからだ。その経験を経て、力との関係が変わった。
所有か、預かりか。
この映画が問うているのは、力を持てるか持てないかではない。持ったとき、それを何だと思うか、だ。自分のものだと思えば、使い方を問う声が遠くなる。預かりものだと思えれば、使う相手のことを考える余地が残る。
輝石の力が太陽の光に支えられていたように、力はそもそも条件つきのものだった。自分の内側から湧き出る絶対的な強さではなく、外部の条件がそろったときにだけ大きく機能する。それを知ったうえで、なお誰かのために使おうとする。そこにようやく、神話のハヌマーンが体現してきた「力」の像が重なってくる。
強さの話ではなく、力との距離の話。この映画が妙に引っかかるのは、たぶんそこだ。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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