【#映画感想文】 #Netflix ドラマ『#ストレンジャーシングス』完結に寄せて 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓
第1章 すげえドラマって、たしかにある
――そして世界は、ひとつの物語に立ち止まった
世の中には、「すげえドラマだったな……」と、視聴後にしばらく言葉を失わせる作品が確かに存在する。
物語が終わったあと、次の映像を再生する気にもならず、エンドロールの余韻の中で、ただ天井を見つめてしまうようなやつだ。
海外ドラマブームの中で、私もいくつかそんな体験をしてきた。
脱獄という一点突破のギミックを極限まで引き延ばした プリズン・ブレイク。
スーツと会話劇だけで人を惹きつけた SUITS/スーツ。
善と悪の境界を溶かし尽くした ブレイキング・バッド。
そして、もはや海外ドラマの原風景と呼んでいい X-ファイル。
どれも共通しているのは、
・独自の世界観
・エピソード単位の完成度
・忘れがたいキャラクター
この三点だ。
一話だけ観るつもりが、気づけば夜が明けている。
時間が溶ける、という表現がこれほど正確な瞬間もない。
最高だ、としか言いようがない。
だが、その中でも――
世界規模で、人の心を鷲掴みにして離さなかったドラマがあった。
それが、ストレンジャー・シングス 未知の世界だ。
1.1 「完結」という言葉が、これほど重くなる作品
このドラマが最終シーズンを迎え、ついに完結した。
この事実は、単なる一作品の終了以上の意味を持っている。
なぜなら『ストレンジャー・シングス』は、
単に「面白いドラマ」ではなかったからだ。
それは体験だった。
共有される記憶であり、同時代的なイベントであり、
世界中が同じ夜に、同じシーンで息を呑む、稀有な瞬間の集合体だった。
配信ドラマの時代において、
「みんなが同じものを観ている」という感覚は、もはや幻想に近い。
視聴タイミングはバラバラで、感想も分断され、アルゴリズムは各々を別の場所へ連れていく。
それでもこの作品は、
人々を一箇所に集めてしまった。
これは偶然ではない。
物語の力が、文化として臨界点を超えた瞬間だった。
哲学者ウォルター・ベンヤミンは、物語についてこう語っている。
“Storytelling is always the art of repeating stories.”
「物語ることとは、つねに物語を反復する技術である」
『ストレンジャー・シングス』は、まさにこの反復の極致だ。
新しいことをやっているようでいて、実は驚くほど古い。
だからこそ、人は懐かしさとともに、安心して身を委ねられる。
1.2 なぜ、ここまで世界を掴んだのか
この作品が特異なのは、
決して革新的なアイデアだけで勝負していない点にある。
設定自体はシンプルだ。
田舎町、失踪事件、子どもたち、異界、政府の陰。
どれも、過去の映画やドラマで何度も見てきたモチーフだ。
それでも、この物語は圧倒的だった。
理由は一つ。
**「好きなものを、好きだと信じ切って作っている」**からだ。
作り手のノスタルジー、オタク的偏愛、
80年代カルチャーへのラブレター。
それらが一切の照れもなく、真正面から叩きつけられている。
アイロニーで逃げない。
冷笑もしない。
「これが最高なんだ」と言い切る、その態度が強い。
心理学者ドナルド・ウィニコットは、遊びについてこう述べた。
“It is in playing and only in playing that the individual is able to be creative.”
「遊びの中でのみ、人は創造的でありうる」
『ストレンジャー・シングス』は、
大人が本気で遊んだ結果、生まれた作品だ。
だから、観ているこちらも童心に引き戻される。
1.3 完結した今だからこそ、語る意味がある
物語が終わったあとで語る、という行為には意味がある。
リアルタイムの熱狂が冷めた場所で、
初めて見えてくる輪郭があるからだ。
最終シーズンに対しては、賛否もある。
それは当然だ。
だが、それだけ真剣に受け取られた証拠でもある。
作品が人の人生の一部になったとき、
「気に入らなかった」という感情は、
失望ではなく、愛情の裏返しになる。
『ストレンジャー・シングス』は終わった。
だが、語るべきことは、まだ山ほど残っている。
この先の章では、
・ノスタルジーという魔法
・モンスター造形の美学
・オカルトと超能力ブーム
・少年たちの冒険譚
・SNS時代の鑑賞態度
これらを順にほどいていく。
なぜなら、このドラマは、
私たちが何にワクワクし、何を失い、何を引きずって生きているのかを、
あまりにも正直に映してしまったからだ。
第2章 あらすじ
――ホーキンスという町で、世界はひっそりと裂ける
物語の舞台は、1980年代のアメリカ・インディアナ州ホーキンス。
どこにでもありそうな地方の小さな町だ。モールがあり、学校があり、退屈な日常が流れている。
この「どこにでもある感じ」が重要だ。なぜなら、異変はいつも、特別でも何でもない場所から始まるからだ。
少年マイク、ダスティン、ルーカス、ウィル。
彼らは放課後に集まり、TRPGで遊び、冗談を言い合いながら夜道を自転車で帰る。
この時点で、作品は観る側に一つの約束を交わしてくる。
これは、少年たちの物語だ、と。
だが、その帰り道でウィルが姿を消す。
理由はわからない。痕跡もない。
ただ一つ確かなのは、町の「裏側」で、何かが起きているということだけだ。
2.1 日常と異界は、紙一重で重なっている
ウィルの失踪をきっかけに、物語は二層構造を持ち始める。
一つは、母ジョイスや保安官ホッパーを中心とした現実世界の捜索。
もう一つは、少年たちが直感と好奇心で踏み込んでいく未知の領域だ。
やがて彼らは、「裏側の世界(アップサイドダウン)」の存在を知る。
現実と酷似しながら、腐敗し、歪み、異形の生物が徘徊する世界。
それは異世界というより、現実のネガだ。
この構造は、ホラーやSFの文脈では決して新しくない。
だが本作が巧みなのは、異界を「遠い場所」に設定しなかった点にある。
壁一枚、空間一層、ほんの少しのズレ。
世界は、すでに裂けている。
哲学者ガストン・バシュラールは、空間についてこう述べている。
“Space contains compressed time.”
「空間は、圧縮された時間を内包している」
アップサイドダウンは、恐怖の世界であると同時に、
この町が抱え込んできた不安や抑圧が、形を持った空間でもある。
2.2 イレブンという存在がもたらすもの
物語のもう一つの軸が、謎の少女イレブンだ。
言葉が少なく、感情表現も乏しい彼女は、
政府の秘密研究によって生み出された存在であり、強力な超能力を持つ。
重要なのは、彼女が「兵器」である前に、子どもであるという描かれ方だ。
能力は祝福ではなく、傷の延長線上にある。
力を使うたびに、彼女は消耗し、痛みを引き受ける。
ここで作品は、80年代的な超能力幻想をそのまま肯定しない。
超能力は、万能ではない。
むしろ、世界の理不尽さを早く知ってしまった者が背負う、重荷として描かれる。
心理学者エリク・エリクソンが述べた発達理論を思い出す。
“In the social jungle of human existence, there is no feeling of being alive without a sense of identity.”
「人間社会というジャングルにおいて、自己同一性なしに生きている感覚はない」
イレブンの戦いは、世界を救うための戦いである以前に、
自分が何者であるかを取り戻すための闘いだ。
2.3 シーズンを重ねるごとに変わる「物語の重さ」
シーズンが進むにつれ、物語はスケールを増していく。
モンスターは増え、被害は拡大し、町全体が巻き込まれていく。
だが、核心は変わらない。
常に中心にいるのは、少年少女たちだ。
成長とともに、彼らの選択は重くなる。
友情は揺らぎ、恋愛が入り込み、大人の世界が侵食してくる。
冒険は、少しずつ「無邪気さ」を失っていく。
それでも彼らは、前に進む。
なぜなら、戻れないことを知ってしまったからだ。
『ストレンジャー・シングス』のあらすじは、
異界と戦う物語であると同時に、
子ども時代が終わっていく過程を、ゆっくりと描いた記録でもある。
第3章 ノスタルジー詰め合わせ
――懐かしさは、記憶ではなく感覚を直撃する
3.1 このドラマは、最初から「懐かしい」
ストレンジャー・シングス 未知の世界の魅力を一言で言うなら、やはりノスタルジーだ。
ただしそれは、単なる年代再現ではない。
80年代の小道具や音楽を並べただけの、安易な回顧趣味でもない。
本作がやっているのは、感情の記憶を直接呼び起こすことだ。
・スピルバーグ的なジュブナイル冒険譚
・仲間内で囲むTRPGという閉じた宇宙
・超常現象と超能力がまだ夢として許されていた時代
・ホラーゲーム的な異界空間
・70年代後半〜80年代前半のファッションと生活感
これらは、必ずしも視聴者全員が「体験した記憶」ではない。
にもかかわらず、どこか懐かしい。
この感覚が重要だ。
3.2 体験していないのに懐かしい、という現象
正直に言えば、私はアメリカの80年代を生きてはいない。
それでも、この作品の空気には強烈な既視感がある。
それはなぜか。
理由は単純で、このドラマが呼び出しているのは
個人の記憶ではなく、文化的に共有されたイメージだからだ。
映画史を振り返れば、80年代は「少年冒険譚の黄金期」だった。
郊外、子ども、自転車、夜、秘密。
これらの要素は、数えきれないほど反復され、
物語の鋳型として私たちの中に刷り込まれている。
哲学者フレドリック・ジェイムソンは、ポストモダン文化をこう定義した。
“Nostalgia is a substitute for genuine historicity.”
「ノスタルジーとは、本物の歴史性の代替物である」
『ストレンジャー・シングス』が提示する80年代は、
史実としての80年代ではない。
物語として理想化された80年代だ。
だからこそ、世代を超えて機能する。
記憶の有無は関係ない。
重要なのは、「この世界に入ったことがある気がする」という錯覚だ。
3.3 異常だが、居心地がいいという矛盾
冷静に考えれば、この作品の世界はかなり異常だ。
子どもが失踪し、怪物が徘徊し、政府が暗躍する。
安心できる要素は一つもない。
それでも、なぜか居心地がいい。
これは致命的な矛盾だ。
理由は、物語の中心が常に「仲間内」にあるからだ。
外の世界がどれほど狂っていても、
ダイナー、地下室、部屋の中では、会話と冗談が続く。
心理学者ジョン・ボウルビィの愛着理論を思い出す。
“The presence of a trusted companion can reduce fear.”
「信頼できる仲間の存在は、恐怖を軽減する」
本作においてノスタルジーが機能するのは、
過去の時代そのものではなく、
かつて信じられた人間関係のあり方が描かれているからだ。
仲間がいれば、世界はなんとかなる。
この感覚は、現代ではもはや神話に近い。
だからこそ、強烈に刺さる。
3.4 ノスタルジーは、逃避ではなく装置である
ノスタルジーという言葉は、ともすれば逃避と同義で語られる。
現実がつらいから、過去に逃げる。
だが本作は、そこに留まらない。
懐かしさを足場にして、
その上で恐怖と喪失を描き切る。
それが、このドラマの誠実さだ。
過去は美しい。
だが、永遠ではない。
少年たちは成長し、関係は変質し、
あの空間は二度と戻らない。
ノスタルジーは、
「戻りたい場所」を示すためのものではなく、
失われたことを自覚させるための装置として機能している。
だから、この作品は甘いだけでは終わらない。
懐かしさの奥に、必ず痛みがある。
第4章 魅力的モンスターたち
――名前を借りられた怪物と、その美しさについて
4.1 デモゴルゴンという「誤用」から始まる物語
ストレンジャー・シングス 未知の世界を象徴するモンスターとして、まず名前が挙がるのがデモゴルゴンだ。
ただし、ここで一応、きちんと確認しておかなければならない。
本来のデモゴルゴンは、主人公たちが遊んでいる実在のTRPG、ダンジョンズ&ドラゴンズに登場する存在であり、
劇中に出てくる怪物とは、見た目も設定もまったく別物だ。
少年たちは、正体不明の怪物を前にして、
「とりあえずそれっぽい名前」としてデモゴルゴンを引用する。
これは学術的な命名でも、神話的な正確さでもない。
子どもが理解できる枠組みで、未知を把握しようとする行為だ。
この雑さがいい。
むしろ、この雑さこそがリアルだ。
皮肉なことに、本作が世界的ヒットを飛ばした結果、
現実世界における「デモゴルゴン像」そのものが、
ストレンジャー・シングス側へと引き寄せられてしまった。
TRPG古参からすれば苦笑ものだろうが、
文化史的には非常に示唆的な現象だ。
4.2 異形なのに、どこか美しいという矛盾
この怪物の造形は、冷静に見てかなり洗練されている。
花のように開く頭部、歯列の配置、皮膚の質感。
「怖い」のだが、「気持ち悪い」だけでは終わらない。
どうしても日本人の感覚として、
岩明均の『寄生獣』を思い出してしまう人も多いはずだ。
顔が割れる、内部が露出する、
生物としての論理を踏み外した構造。
だが決定的に違うのは、
デモゴルゴンがどこから来たのかわからない存在として描かれている点だ。
寄生獣が「共存」を内包した物語だったのに対し、
こちらは徹底して異物だ。
哲学者ジュリア・クリステヴァは、嫌悪についてこう述べている。
“The abject is what disturbs identity, system, order.”
「アブジェクトとは、同一性・体系・秩序を乱すものだ」
デモゴルゴンは、まさにこのアブジェクトだ。
理解できない。
分類できない。
交渉もできない。
それなのに、目が離せない。
この矛盾が、造形の強さにつながっている。
4.3 亜種たちが示した「生態系」の広がり
物語が進むにつれ、
デモゴルゴンの亜種のような存在が登場する。
犬型のデモドッグ、
蝙蝠型のデモバット。
これによって、アップサイドダウンは
単なる「怪物の巣」ではなく、
独自の生態系を持つ異界として立ち上がる。
ここは非常に重要なポイントだ。
怪物が一体だけなら、それは恐怖の対象で終わる。
だが複数種が存在すると、世界になる。
この感覚は、ホラーとSFの分水嶺でもある。
恐怖が「点」から「面」へと拡張された瞬間だ。
ただし、正直に言えば、
最終シーズンではこのモンスター群の扱いがやや控えめだった。
スクリーンタイムが減り、
脅威の中心が別の存在へと集約されていく。
物語的には理解できる判断だが、
ビジュアル面の快楽という意味では、
少し物足りなさが残ったのも事実だ。
4.4 怪物は「敵」ではなく、世界の歪みそのもの
本作におけるモンスターは、
単なる倒すべき敵ではない。
それらは、
この町が抱え込んできた歪み、
政府の暴走、
管理されなかった欲望、
見ないふりをされてきた不安――
そうしたものが、形を持って現れた存在だ。
だから、倒しても終わらない。
新しい形で、必ず戻ってくる。
怪物が象徴しているのは、
外部から侵入してきた悪ではなく、
内側で育ってしまった異常なのだ。
この点で『ストレンジャー・シングス』のモンスター造形は、
極めて現代的だと言える。
敵はいつも、すでにこちら側にいる。
第5章 超能力研究というオカルト
――嘘だと知っていて、なお熱狂できた時代
5.1 オカルトが「可能性」として扱われていた頃
やっぱり、オカルトブームって良かったよな、とこのドラマを観ていると思わされる。
それは決して、超能力が本当に存在すると信じている、という話ではない。
重要なのは、当時の空気だ。
超常現象や超能力は、「科学でいずれ検証されるかもしれない可能性」として、
半ば本気、半ば冗談で語られていた。
テレビには超能力者が出て、
スプーンが曲がり、念力が飛び、
子どもたちは目を輝かせ、大人は眉に皺を寄せながらもチャンネルを変えなかった。
現代から見れば、かなり危うい。
だが、あの時代には
嘘だとわかっていて楽しむ余白が、確かに存在していた。
今では、霊的な話題は即座に霊感商法や疑似科学と結びつけられ、
メディアから排除される。
それは当然の防衛反応だ。
だが同時に、遊び場も一緒に失われた。
5.2 超能力は、夢であり、武器であり、傷だった
ストレンジャー・シングス 未知の世界における超能力は、
単なる派手な能力ではない。
イレブンの力は、
・研究対象として管理され
・軍事的価値を見込まれ
・人格と切り離されたものとして扱われる
ここにあるのは、80年代オカルトの明るさとは裏腹の、
かなり冷酷な現実だ。
能力は祝福ではない。
むしろ、世界の暴力性を最初に引き受けてしまった者の徴だ。
哲学者ミシェル・フーコーが指摘した「知と権力」の関係が、
ここでは極めてわかりやすく描かれている。
“Knowledge is not made for understanding; it is made for cutting.”
「知は理解のためにあるのではない。切断するためにある」
研究という名の下で、
人は簡単にモノになる。
イレブンの超能力研究は、オカルトの顔をした管理と支配の物語でもある。
5.3 それでも、血が沸騰した理由
それでも、だ。
超能力バトルのシーンでは、どうしても胸が熱くなる。
力を持つ者は少数で、
全員が使えるわけではない。
だからこそ、使われる瞬間に意味が生まれる。
これはプロレスに近い。
勝つか負けるかより、
どういう文脈で技が出るかが重要だ。
イレブンが力を使う場面は、
ほとんどの場合、誰かを守るためだ。
自己顕示ではない。
見せびらかしでもない。
この構造が、観る側の感情を正確に掴む。
強いから拍手するのではない。
耐えてきたことを知っているから、沸騰する。
5.4 オカルトは、想像力の訓練場だった
オカルトブームの本質は、
真偽不明な現象を通じて、
「世界はまだ説明し尽くされていないかもしれない」と考える余地を残していた点にある。
それは科学への敵意ではない。
むしろ、科学への入口だった。
わからないものがある、という前提が、
想像力を刺激し、物語を生んだ。
『ストレンジャー・シングス』は、
その余白をもう一度、現代に呼び戻す。
もちろん、無邪気には描かない。
だが、完全に否定もしない。
超能力研究というオカルトは、
人間が「説明できないもの」に惹かれてきた歴史の縮図だ。
だからこそ、このドラマの超能力描写は、
古臭くならない。
それは、力の話ではなく、
人間が夢を見ることをやめなかった時代の記憶だからだ。
第6章 少年たちの冒険
――戻れない時間が、なぜこんなにも輝いて見えるのか
6.1 主人公が少年であるという、決定的な条件
私たちが本能的にワクワクするのは、物語の主人公が「少年たち」であるときだ。
これは偶然ではない。
冒険譚の歴史を振り返れば、主人公の多くは常に未完成で、未熟で、そして若い。
ストレンジャー・シングス 未知の世界も例外ではない。
大人たちは存在するが、主導権を握るのは常に子どもたちだ。
判断が未熟だからこそ、恐れを知らず、理屈より先に身体が動く。
ここには、私たちがすでに失ってしまった感覚がある。
「考える前に動いてしまう」という、あの衝動だ。
心理学者ジャン・ピアジェの発達理論に照らせば、
子どもはまだ世界を固定的なルールとして捉えていない。
だからこそ、未知を未知のまま受け入れ、踏み込める。
大人になるとは、世界を理解することではない。
世界を既知だと誤解することなのかもしれない。
6.2 冒険とは、世界ではなく「関係」が壊れること
この作品における冒険は、
モンスターを倒すことや、異界を閉じることだけを意味しない。
むしろ本当の冒険は、
友情が揺らぎ、
距離が生まれ、
言葉にしなかった感情がズレを生む瞬間にある。
成長するということは、
同じ場所にいられなくなる、ということだ。
ダスティンとルーカス、マイクとウィル。
彼らはいつまでも同じ地下室でTRPGを遊び続けることはできない。
それを、誰よりも彼ら自身が理解している。
哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう述べた。
“Man is condemned to be free.”
「人間は自由の刑に処されている」
自由であることは、
同時に選び続けなければならない、ということだ。
少年たちの冒険は、
怪物との戦いである以前に、
選択を迫られる物語へと変質していく。
6.3 少年時代が輝いて見える、本当の理由
少年時代がいつも煌めいて見えるのは、
楽しかったからではない。
もう二度と戻れないと知っているからだ。
時間は、体験している最中には重さを持たない。
重さを持つのは、過ぎ去ったあとだ。
失われたと認識された瞬間に、過去は宝物になる。
社会学者モーリス・アルブヴァックスは、記憶についてこう語っている。
“Memory is reconstructed in the present.”
「記憶は、現在の中で再構成される」
私たちは、少年時代をそのまま思い出しているわけではない。
今の自分が必要とする形に、過去を組み替えている。
だから、あの冒険は美しい。
だから、あの友情は強く見える。
それは事実ではなく、現在からの視線が生んだ像だ。
6.4 エンディングが残した、静かな力
『ストレンジャー・シングス』のエンディング演出は、
決して派手ではない。
だが、強い。
そこにあるのは、勝利の高揚ではなく、
「続いてしまう人生」の気配だ。
冒険は終わる。
怪物はいなくなるかもしれない。
だが、時間は止まらない。
少年たちは大人になり、
私たちもまた、次の場所へ進む。
この終わり方は、優しいと同時に残酷だ。
なぜなら、物語が終わったあとに残るのは、
観る側自身の時間だからだ。
エンディングが胸に残るのは、
それが「別れ」をきちんと描いたからだ。
別れは、喪失ではない。
変化を引き受けることだ。
第7章 SNS時代の作品鑑賞
――物語が終わったあと、僕らはどう振る舞えばいいのか
7.1 語れるようになった世界は、確かに良くなった
私は今こうして、レビューになり損ねた所感メモを書いているわけだが、
視聴者が自分の言葉で感想を発信できるようになったこと自体は、
間違いなく進歩だと思っている。
かつて、作品の評価は批評家や雑誌が独占していた。
観た人が何を感じたかは、せいぜい飲み会の席で共有される程度だった。
それが今では、
観た瞬間に、感じたことを、そのまま世界に投げられる。
これはすごいことだ。
物語が「消費」で終わらず、対話の種になる。
ストレンジャー・シングス 未知の世界が
ここまで巨大な作品になったのも、
この共有の回路があったからこそだろう。
感想が連鎖し、考察が生まれ、
一人で観ていたはずのドラマが、
いつの間にか集団的な体験へと変わっていった。
7.2 批判と誹謗中傷は、似ているが別物だ
ただし、だ。
これは使い方を間違えなければ、という前提つきの話だ。
最終シーズンの配信以降、
SNSには失望の声や批判が溢れた。
それ自体は何もおかしくない。
物語の結末に納得できない、
キャラクターの扱いが気に入らない、
展開が性急に感じた。
どれも、自然な感想だ。
問題は、それが
誰かを殴る言葉に変わった瞬間だ。
「つまらなかった」と
「作り手は無能だ」は違う。
「好みじゃない」と
「台無しにされた」は違う。
この線を越えた途端、
感想は意見ではなく、ただの攻撃になる。
社会学者リチャード・セネットは、公共空間についてこう述べている。
“Incivility is treating other people as though they were not there.”
「無礼とは、他者が存在しないかのように扱うことだ」
画面の向こうにいる人間を消すと、
言葉は簡単に暴力へ変わる。
7.3 納得できなかった、その先をどうするか
正直に言えば、
最終シーズンに対して、全員が全員、満点をつける必要はない。
そんな作品の方が、むしろ信用できない。
大切なのは、
納得できなかったときに、どう振る舞うかだ。
物語は終わった。
公式の続きは、もう用意されない。
だからこそ、
その先は、こちら側に委ねられている。
納得できないなら、
自分の中で続きを考えればいい。
あのキャラクターは、その後どう生きただろうか。
あの選択は、別の可能性を孕んでいなかったか。
思えば『ストレンジャー・シングス』そのものが、
過去の名作群の文脈を寄せ集め、
編み直すことで生まれた物語だった。
つまりこの作品は、
「物語は引き継がれるものだ」ということを、
構造そのもので示していたとも言える。
7.4 完結とは、終わりではなく、受け渡しだ
物語が完結するというのは、
世界が閉じることではない。
作り手から、観る側へと、
想像力のバトンが渡される瞬間だ。
次の世代がこの作品を観て、
また別の物語を紡ぐ。
別の憧れ方をし、
別の怪物を生み出す。
それでいい。
むしろ、それが健全だ。
『ストレンジャー・シングス』は終わった。
だが、私たちが感じたワクワクや違和感まで、
終わる必要はない。
物語を愛するというのは、
褒め続けることでも、守り続けることでもない。
受け取って、考えて、次へ渡すことだ。
そう考えれば、
このドラマの完結は、
どこか希望に満ちている。
世界は続く。
物語も続く。
今度は、こちらの番だ。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
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