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【#映画感想文】 ディズニーアニメーション一気に批評 その17 『#おしゃれキャット』 音楽もまた舞台装置と知らしめるアニメーション 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓



第1章 タイトル問題

――どうにもならないものは、確かに存在する

どうしてもこのタイトルを受け付けない自分がいる。
理由を理詰めで説明しようとしても、最終的には感情の問題に行き着く。
だが、まずは整理しよう。

原題は The Aristocats
言うまでもなく Aristocrats(貴族)ともじった言葉遊びだ。
貴族階級を気取る猫たち。
なるほど、英語圏では一発で通じる。

問題は、それを日本語に持ってきた瞬間に起きる。

仮に「アリストキャッツ」とカタカナで書いたところで、
日本人の頭に浮かぶのは巨大なクエスチョンマークだ。
アリスト? 何の?
貴族? 猫?
言葉遊びが、完全に宙に浮く。

では邦題の「おしゃれキャット」はどうか。
正直に言えば、これもまた別の地雷を踏んでいる。

「おしゃれ」という語が持つ軽さ、
ファンシーさ、
どこか商品棚の匂い。
映画の内容を知らない段階で、
すでに作品のトーンを一方向に固定してしまう。

結果として、
原題でも邦題でも、
どこかズレたまま日本に届いてしまった感が否めない。

1.1 タイトルが翻訳できない、という現実

ここで大事なのは、
「訳が下手だった」という話ではない。

これは、翻訳不可能性の問題だ。

言葉遊び、階級意識、文化的背景。
それらが一体になって成立しているタイトルは、
別の文化圏に移した瞬間、どうしても歪む。

哲学者ヴァルター・ベンヤミンは翻訳についてこう書いている。

“Translation is not the transfer of information but the transformation of meaning.”
「翻訳とは情報の移動ではなく、意味の変形である」

『The Aristocats』は、
その「意味の変形」がどうやっても避けられなかった例だ。

そして、その変形の結果として生まれたのが、
「おしゃれキャット」という、
どこか掴みどころのない名前だった。

1.2 タイトルが示してしまう、この映画の立ち位置

皮肉なことに、このタイトル問題は、
映画そのものの性格をかなり正確に予告している。

つまり、
どうにも評価しづらい

名作と呼ぶには引っかかりが多く、
駄作と切り捨てるには愛嬌がありすぎる。

この映画は、
最初から最後まで、
どこか「名前負け」ならぬ「名前迷子」の状態にある。

だが、だからこそ残り続けている、という見方もできる。
違和感がある。
ズレている。
それでも、消えない。

どうにもならないものってのが、この世の中にはある。
そしてこの映画は、
その「どうにもならなさ」を、
タイトルの時点ですでに抱え込んでいる。


第2章 あらすじ

――どこかで見た話を、猫でなぞるということ

物語の舞台はパリ。
富裕な老婦人に飼われている白猫ダッチェスと、その三匹の子猫たちは、何不自由ない暮らしを送っている。
音楽に囲まれ、屋敷で守られ、将来も約束されている存在だ。

だが、その「約束」が歪んだ形で露見する。
老婦人の遺産は、すべて猫たちに相続される。
それを知った執事エドガーは、自分よりも猫が優先されるという事実に耐えきれず、
彼らを屋敷から排除しようと画策する。

こうして、
安全な家の内部から、
外の世界へと放り出される。

この導入だけを見ると、
本作は極めてディズニー的だ。
「守られた場所」から「危険な外部」へ。
そして再び「帰るべき場所」へ。

2.1 富裕層と自由な貧困層という、見慣れた対比

屋敷の外でダッチェスたちが出会うのが、
野良猫のトーマス・オマリーだ。
自由で、気ままで、責任を負わない。
住む場所も定まらず、だが誇り高い。

この構図は、正直に言って新しくない。
富裕層と貧困層。
管理された安全と、危険だが自由な生活。

ディズニーはこの対比を、
これまでも何度も使ってきた。
構造としては、
わんわん物語と
101匹わんちゃんの中間地点にあると言っていい。

要は、
「家に帰るために、外の世界を冒険する動物たち」の話だ。
猫になっただけで、骨組みはほとんど変わらない。

2.2 物語が既視感を拭えない理由

この映画を観ていると、
「次に何が起こるか」が、かなりの確率で読めてしまう。

裏切りは起きる。
助けは入る。
最後は元の場所に戻る。

物語はその期待を、大きく外さない。

そのため、本作のストーリーは、
驚きや発見を提供するものではなく、
安心してなぞるための線として機能している。

悪い言い方をすれば、
それ以上でも以下でもない。
良い言い方をすれば、
余計な緊張を生まない。

2.3 では、なぜこの映画は残ったのか

ここで疑問が浮かぶ。
これほど既視感の強い物語なのに、
なぜ『おしゃれキャット』は消えなかったのか。

理由は単純だ。
この映画は、
ストーリーで記憶されていないからだ。

残ったのは、
キャラクターであり、
音楽であり、
雰囲気である。

物語は骨組みにすぎない。
本作は、その骨組みの上に、
別の魅力を乗せることに徹している。

だから、あらすじを語ろうとすると、
どうしても平板になる。
だが、それは欠陥ではなく、
最初からの設計だ。


第3章 人気キャラクター・マリー

――この映画は、いつの間にか「彼女のもの」になった

3.1 本作といえば、マリー

おしゃれキャットと聞いて、
真っ先に何を思い浮かべるか。

多くの人にとって、その答えはマリーだろう。
白い毛並み、ピンクのリボン、ちょっと気取った仕草。
ディズニーキャラクターの中でも、極めて商品適性が高い存在だ。

正直に言えば、
それくらいしか知られていない作品と言ってもいいのではないか、という気もする。

マリーのぬいぐるみ。
マリーのカチューシャ。
マリーの文房具。

それらを身につけている人のうち、
果たして何人がこの映画を最初から最後まで観ているのか。
一度、真剣に調査してみたいところだ。

3.2 マリーは、物語を背負っていない

面白いのは、
マリーが「物語的に重要な役割」を担っているわけではない点だ。

彼女がいなければ話が進まない、という場面はほぼない。
成長の軸になるわけでもない。
選択の象徴でもない。

にもかかわらず、
彼女は圧倒的に記憶に残る。

理由は単純だ。
造形と性格が、即座に理解できるからだ。

・見た目が完成されている
・性格が一目で伝わる
・説明がいらない

これは、キャラクターデザインとしては最強に近い。

3.3 キャラクターが作品を追い越すとき

マリーは、映画を飛び越えて生きている。
もはや彼女は、『おしゃれキャット』の登場人物というより、
「ディズニーのマリー」という独立した存在だ。

これは、作品として見れば、
かなり複雑な状況だ。

キャラクターが有名で、
作品が語られない。
記憶されているのは、文脈ではなくアイコン。

だが、ディズニーにとっては、
それもまた成功の形だ。

映画は一度きりだが、
キャラクターは生き続ける。
商品となり、記号となり、
新しい世代に届く。

その意味で、
『おしゃれキャット』は、
映画としてではなく、キャラクター供給源として長生きしている

3.4 それでも、空虚ではない

では、この現象は不幸なのか。
私は、そうは思わない。

物語が強くなくても、
キャラクターが生き残ることはある。
そして、そのキャラクターが誰かの入口になることもある。

マリーから入って、
いつか映画を観る。
観た結果、
「思ってたのと違うな」と感じる。

それでいい。

映画は、必ずしも
全員に完全な体験を提供する必要はない。
断片的に、部分的に、
誰かの記憶に引っかかれば、それで役目を果たす。

『おしゃれキャット』が今も残っている理由の一つは、
このマリーという強すぎる断片にある。


第4章 やはり音楽

――ジャズが、この映画をただ者ではなくしている

4.1 この映画を特徴づけているのは、間違いなくジャズだ

『おしゃれキャット』を語るとき、
結局ここに戻ってくる。
音楽が、やたらと強い。

物語は既視感があり、
構成は安定しているが驚きは少ない。
それでも本作が記憶から消えないのは、
音楽が感情の芯を直接つかみに来るからだ。

中でも決定打になるのが
Everybody Wants to Be a Cat。

これはもう、文句のつけようがない。
一音目から空気が変わる。
リズムが跳ね、身体が勝手に反応する。

アニメーションと音楽が完全に噛み合った瞬間だ。

4.2 問題のある描写を飲み込んでしまうほどの完成度

ここは避けて通れない。
この楽曲の中には、
現在の基準で見れば明確に問題のある描写が含まれている。

箸でドラムを叩く猫。
アジア人のステレオタイプに基づいた造形と演出。
擁護の余地はない。

だが、それでもなお、
このシーン全体のパフォーマンスは、
観る側の意識を音楽へと強制的に引きずり込む。

これは怖いことでもある。
優れた音楽とアニメーションは、
倫理的な引っかかりさえ一時的に覆い隠してしまう。

だからこそ、
「当時は仕方なかった」で終わらせず、
今の視点で見直す必要がある

それでも同時に、
楽曲とアニメーションの完成度が
今なお色褪せていない事実も、否定できない。

4.3 クラシックとジャズ――音楽で描かれる階級

本作が面白いのは、
音楽が単なる気分盛り上げ装置に留まっていない点だ。

屋敷で流れるのはクラシック。
秩序、伝統、富裕層の文化。
一方、屋敷の外で鳴り響くのがジャズだ。

即興性。
混沌。
身体性。

この対比は、
ダッチェスたちの立場そのものを、
音楽で説明している。

ジャズは、もともと黒人文化の中で育った音楽だ。
周縁から生まれ、
正統とされない場所で磨かれてきた。

それを、
「自由な猫たちの音楽」として配置する判断は、
かなり意識的だ。

物語が語らなくても、
音楽が語ってしまう。
アニメーションにおいて、
音楽もまた立派な語り部になり得ることを、
本作ははっきり示している。

4.4 音楽が映画の格を一段引き上げる

もし『おしゃれキャット』が、
凡庸な楽曲で構成されていたらどうなっていただろうか。

おそらく、
「可もなく不可もない一本」として、
静かに忘れられていたはずだ。

だが、ジャズがある。
名曲がある。
耳に残るリズムがある。

それだけで、
映画は一段、別の場所へ押し上げられる。

この映画が「迷作」で済んでいるのは、
音楽のおかげだ。
逆に言えば、
音楽がなければ、
迷作にすらならなかったかもしれない。


第5章 子供向け?

――中途半端な悪役が、映画を救っている

5.1 この映画、誰向けなのか問題

おしゃれキャットを観ていると、
時々立ち止まりたくなる瞬間がある。
これは、誰向けの映画なのだろうか、と。

ストーリーラインは極めて使い古されている。
子どもが観ても理解できる単純さ。
だが、題材として扱っているのは「遺産相続」だ。

正直に言って、生々しい。
猫が遺産を相続する、という設定自体はファンタジーだが、
その背後にある感情は、大人のそれである。

子どもがこの物語を観て、
「相続」という概念をどこまで理解できるだろうか。
たぶん、ほとんど伝わっていない。

この時点で、本作はすでに少しズレている。

5.2 エドガーという、どこか踏み切れないヴィラン

このズレを象徴しているのが、
ヴィランである執事エドガーだ。

彼は明確な悪人ではない。
権力者でも、怪物でもない。
ただの、小心者だ。

自分よりも遥かに多い遺産を、
猫が相続すると知った瞬間、
理性が折れる。
だが、それでも彼は、
殺すところまでは行けなかった

子猫たちを川に捨てる。
ひどい行為だ。
だが、致命的ではない。

ここに、本作の「子供向け配慮」が見える。
完全な悪を描くことを、意図的に避けている。

同時に、
この中途半端さが、
エドガーというキャラクターを妙に人間臭くしている。

5.3 悪に染まりきれなかった男

もしエドガーが、
最初から冷酷無比な悪役だったらどうだろう。
この映画は、もっと単純な勧善懲悪になっていただろう。

だが、彼は違う。
卑怯で、ずるくて、焦っている。
そして、どこか情けない。

これは、
「悪の象徴」ではなく、
小さな欲望に飲み込まれた人間の姿だ。

哲学者ハンナ・アーレントが語った
「凡庸な悪」という言葉が、
ここでは妙にしっくりくる。

“The sad truth is that most evil is done by people who never make up their minds to be good or evil.”
「悲しい真実だが、多くの悪は善人でも悪人でもない者によって行われる」

エドガーは、
悪になりきれなかった。
だが、善人でもいられなかった。

その曖昧さが、
この映画のトーンと不思議に噛み合っている。

5.4 チグハグさが、生んだ憎めなさ

子供向けのようで、
大人向けの題材を扱い、
完全な悪を描かず、
でも勧善懲悪には持ち込む。

構造としては、かなり歪だ。
だが、その歪さこそが、
『おしゃれキャット』を憎めない作品にしている。

この映画は、
誰かを本気で怒らせるほど尖っていない。
だが、
誰かの記憶から完全に消えるほど無味でもない。

エドガーという中途半端なヴィランは、
作品全体の中途半端さを、一身に背負っている。

そしてその結果、
この映画は「子供向けか?」という問いに、
はっきりと答えないまま終わる。

だが、それでいいのだと思う。
はっきりしないものほど、
後からじわじわと効いてくることもある。


第6章 見返すか、と言われると。

――この映画は、記憶の中に置いておくくらいがちょうどいい

正直に言おう。
改めて「もう一度最初から観るか?」と問われると、
私は少し迷ってしまう。

嫌いではない。
むしろ好意的だ。
だが、強く引き寄せられるかと言われると、そうでもない。

これは、作品の質が低いからではない。
すでに、必要なものは受け取ってしまったからだ。

6.1 音楽は、いつでも取り出せる

ディズニーの名曲たちは、
もはや映画の中に閉じ込められてはいない。

配信サービスを開けば、
いつでも、どこでも聴ける。
数タップで
おしゃれキャットの音楽体験の核心に触れてしまえる。

そして不思議なことに、
音楽を聴くだけで、
アニメーションは脳内で自動再生される。

猫たちの動き。
ジャズセッションの熱量。
夜のパリの空気。

それらはもう、
映像を再生しなくても、
こちらの中にある。

6.2 「もう観た」という感覚の正体

この映画には、
何度も噛みしめたくなる構造的な深みは、正直あまりない。
発見が重なっていくタイプの作品ではない。

一度観て、
空気を吸って、
音を浴びて、
キャラクターを記憶する。

それで、ほぼ全部だ。

だから、
「もう一度観たら、別の景色が見える」
という期待は、
最初からそれほど持たれていない。

これは欠点でもあり、
同時に、誠実な設計でもある。

6.3 精神世界に残る映画、という在り方

私はこの作品を、
今後、自分の精神世界にのみ留めておくことにする。

思い出したときに、
音楽だけを聴く。
断片的なシーンを思い返す。
「ああ、ああいう映画だったな」と、軽く頷く。

それで十分だ。

すべての映画が、
繰り返し観られる必要はない。
すべての映画が、
人生に食い込んでくる必要もない。

『おしゃれキャット』は、
一度通り過ぎて、静かに残るタイプの作品だ。



podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

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