見出し画像

【#映画感想文】 #ディズニー アニメーション一気に批評 その13 『#眠れる森の美女』――プリンセスストーリーで、芸術をの巻 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


ディズニーアニメーション一気に批評 その13

眠れる森の美女――プリンセスストーリーで、芸術をの巻


第1章 ディズニーこだわりの一品

1.1 「文化財」になってしまったアニメーション

『眠れる森の美女』は、もはや「名作アニメ」という言葉では足りない場所にいる作品だ。
本作はアメリカ国立フィルム登録簿に登録され、「文化的・歴史的・芸術的にきわめて高い価値を持つ」と公的に認定されている。つまりこれは、娯楽作品である以前に保存すべき文化財として扱われている。

ここまで来ると、もはや評価は確定している。
だが、重要なのは「なぜそこまでの評価に至ったのか」だ。

制作当時のディズニーは、この作品に異常なほどのコストと時間を投入している。
それもそのはずで、『眠れる森の美女』は当時のディズニーとして最も制作費をかけた長編アニメーションの一つだった。
しかも、これは実験作ではない。
ディズニーにとっての「本命」だった。

“Quality will out.”
「本物の質は、必ず最後に残る」
――ジョン・ラスキン(19世紀美術批評家)

結果だけ見れば、その賭けは成功した。
ただし、時間差で。


1.2 初公開では振るわなかった、という事実

意外に思う人もいるかもしれないが、『眠れる森の美女』は初公開時には興行的に振るわなかった作品である。
制作費が莫大だった分、期待値も高く、その落差はスタジオにとって小さくない痛手だった。

しかし、この映画は再上映を経て評価を取り戻す。
そして時代が進むにつれ、評価はさらに更新されていく。

これは、いかにも「芸術作品的」な運命だ。
即効性はないが、時間をかけて価値が浸透していく。

“Art is long, life is short.”
「芸術は長く、人生は短い」
――ヒポクラテス(紀元前4世紀)

アニメーションという形式でありながら、本作はこの言葉にやけに似合っている。


1.3 見返して分かる、表現力の異常さ

正直に言うと、私はこの映画を子どもの頃に観ていない。
当時の私は、「プリンセスストーリー? 興味ねえよ」と思っていたタイプの人間だ。
剣も魔法も好きだが、ドレスと恋愛にはピンとこなかった。

だからこそ、大人になってから観返したときの衝撃が大きかった。

アニメとしての表現力が、明らかにおかしい。

画面の密度、色彩設計、動きの精度。
どれを取っても、1959年の作品とは思えない。
いや、下手をすると現代のアニメーションと比べても、なお異様だ。

私は初期ディズニー作品について、
『白雪姫』を「化け物映画」と呼んだことがある。
技術も表現も、常識のラインを軽々と踏み越えているからだ。

『眠れる森の美女』は、そこに並ぶ。
しかも、方向性を変えたうえで


1.4 初期ディズニーの到達点として

初期ディズニーの特徴は、端的に言えば「容赦がない」ことだ。
動きは写実的で、背景は情報量過多、色彩は強烈。
観る側に寄り添うというより、「これが最高だが?」と突きつけてくる。

『眠れる森の美女』は、その精神を極限まで洗練させた作品だと思う。
荒々しさは抑えられているが、代わりに芸術としての完成度が異様なレベルに達している。

ここから先、ディズニーは徐々に「親切」になっていく。
観客に分かりやすく、感情移入しやすく、消費しやすい方向へ舵を切る。

その意味で本作は、
ウォルト・ディズニー存命期における、美術とアニメーションの最終防衛線
と言ってもいいかもしれない。


第2章 あらすじ

2.1 語ることは簡単だが、語り尽くせない物語

『眠れる森の美女』のあらすじ自体は、驚くほど簡潔だ。

王と王妃のもとに生まれた姫オーロラ。
誕生を祝う宴に招かれなかった魔女マレフィセントは、怒りに任せて呪いをかける。
「16歳の誕生日に糸車の針に触れ、死ぬだろう」。

三人の妖精は呪いを和らげ、
死ではなく「永遠の眠り」へと変更する。
姫を守るため、妖精たちはオーロラを森の奥に匿い、正体を明かさぬまま育てる。

やがて運命の日。
呪いは成就し、城は眠りにつく。
真実の愛のキスによって姫は目覚め、
王子はマレフィセントを打ち倒し、
物語は祝福の中で幕を閉じる。

……以上だ。

童話としては、これ以上削れないほど削ぎ落とされた構造。
だが、この作品が面白いのは、語られていることより、語られていないことの量にある。

“Fairy tales are not true because they tell us dragons exist, but because they tell us dragons can be beaten.”
「童話が真実なのは、竜がいると教えるからではなく、竜は倒せると教えるからだ」
――G.K.チェスタトン


2.2 オーロラは「何者かを知らない」プリンセス

本作最大の改変点は、間違いなくここだ。

原作童話において、呪いをかけられた姫は城の中で過保護に育てられる。
血統も身分も、すべては最初から与えられている。

だが、ディズニー版では違う。
オーロラは自分が王女であることを知らない。
森の中で、名もなき少女として育てられる。

この設定変更は、思っている以上に大胆だ。

なぜならそれは、
「プリンセスであること」を
属性ではなく、後から知る事実に変えているからだ。

彼女は肩書きの前に、一人の人間として存在している。
好奇心旺盛で、感情表現が豊かで、世界と素直に関わる。

“Identity is formed by what we do, not what we are told we are.”
「人のアイデンティティは、言い渡されるものではなく、行動によって形作られる」

このオーロラ像は、現代ディズニーに確実に引き継がれている。
とりわけ『塔の上のラプンツェル』のラプンツェルは、
この系譜の正当な後継者だろう。


2.3 感情移入できるプリンセスの誕生

結果として、この改変は見事に機能している。
オーロラは「記号としての姫」ではない。
恐怖も、戸惑いも、喜びも、きちんと生身の感情として描かれている。

ディズニーはここで、
「憧れの対象」としてのプリンセスから、
「感情移入の対象」としてのプリンセスへと、一歩踏み出している。

これは地味だが、決定的な変化だ。

“The most powerful stories are the ones where we see ourselves.”
「最も力のある物語は、自分自身をそこに見出せる物語だ」


2.4 それでも許せないものは、許せない

……とはいえ。
ここで一言、言わせてほしい。

妖精の喧嘩、しょうもなさすぎる。

あれだけ慎重に隠してきたオーロラの居場所が、
三人の妖精のしょうもない喧嘩によってバレる。

これはもう、観ていて普通に腹が立つ。
物語上の必然ではある。
あるのだが、感情的には納得しづらい。

妖精たち、君たちさあ……。

この「しょうもなさ」は、
後半で再び顔を出すことになる。
だが、その再来が、
結果的にこの映画を名作に押し上げるのだから、
物語というのは本当に皮肉だ。


第3章 人物描写の決定版

3.1 初期ディズニーが本気で「人間」を描いていた頃

初期ディズニー作品を見返してまず驚かされるのは、人物描写の異様なまでの完成度だ。
とりわけプリンセス作品において、キャラクターが「記号」に回収されることを徹底して拒んでいる。

可愛い、綺麗、愛らしい。
そうした評価は結果であって、目的ではない。
ディズニーがここで執着しているのは、人間としてどう動くかという一点だ。

歩く。
立ち止まる。
振り返る。
剣を振り下ろす。

それらの一つひとつに、体重移動と重心があり、ためらいがあり、意志がある。

“The human body is the best picture of the human soul.”
「人間の身体は、人間の魂を映す最良の絵である」
――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

『眠れる森の美女』における人物描写は、まさにこの言葉を映像化したものだ。


3.2 ロトスコープという狂気のリアリズム

この写実性を支えている技術が、ロトスコープである。
実写映像を撮影し、その動きを一コマずつトレースするこの手法は、すでに『白雪姫』の時代から使われていた。

重要なのは、この「非効率極まりない手法」を強く推し進めていたのが、
ウォルト・ディズニー本人だったという点だ。

アニメーションなのだから誇張していい、
省略していい、
子ども向けだからこの程度でいい。

ウォルトは、そうした逃げを一切許さなかった。

“Animation can explain whatever the mind of man can conceive.”
「アニメーションは、人間の想像力が思い描けるすべてを説明できる」
――ウォルト・ディズニー

だからこそ彼は、
想像力を支えるために、
身体のリアリティを極限まで突き詰めた。


3.3 王子がイバラを切り進む場面の異様さ

本作を象徴するシークエンスの一つが、
王子がイバラを切り払いながら城へ向かう場面だ。

ここには、

  • 剣の重さ

  • 腕の疲労

  • 足場の不安定さ

  • 前へ進む意志

そのすべてが描き込まれている。

一太刀ごとに体勢を立て直し、
次の一歩を選び直す。

これはもはや「アニメの動き」ではない。
身体がそこに存在している

“Action expresses priorities.”
「行動は、その人の価値観を表す」

王子は多くを語らない。
だが、身体の動きだけで、
彼が何を恐れ、何を選び、何を取り戻そうとしているのかが伝わってくる。


3.4 なぜこの人物描写は失われていったのか

皮肉なことに、
このレベルの写実的人物描写は、
ウォルト・ディズニーの死後、徐々に姿を消していく。

理由は現実的だ。

  • 制作コストが高すぎる

  • 工程が重すぎる

  • 大衆がそこまで求めなくなった

  • キャラクター性重視の時代に移行した

どれも間違ってはいない。
だが、その結果として、
身体を信じる描写は後景に退いていった。

現代ディズニーのキャラクターが劣っているわけではない。
むしろ親しみやすさ、記号性、拡張性においては圧倒的だ。

それでもなお、
『眠れる森の美女』が放つ異様な気配は、
この人物描写の思想に由来している。


3.5 これは技術論ではなく、思想の話だ

ロトスコープがすごい、
作画がすごい、
という話で終わらせるのは簡単だ。

だが、本質はそこではない。

ここで問われているのは、
**「人間をどう信じていたか」**という思想だ。

アニメーションであっても、
人間を描くなら人間として描く。

その信念が、
この作品の隅々にまで行き渡っている。

そしてその思想こそが、
『眠れる森の美女』を
単なるプリンセス映画ではなく、
芸術作品の領域へ押し上げた最大の理由なのだ。


第4章 アートワークの徹底

4.1 背景が主役になってしまった瞬間

『眠れる森の美女』の芸術面を語るとき、まず正直に言っておきたい。
この映画、下手をすると「キャラクター」よりも「背景」のほうが記憶に残る。

いや、正確には、キャラクターが背景に飲まれているわけではない。
背景が、背景という職務範囲を超えて、画面そのものの思想になっている。
この時点で、もう普通の長編アニメーションの作り方じゃない。

“Art is not what you see, but what you make others see.”
「芸術とは、あなたが見たものではなく、他者に見せたものだ」
――エドガー・ドガ

この作品は、観客に「眠れる森」を見せるのではなく、
観客の目そのものを“眠れる森仕様”に作り替えてくる。


4.2 アイヴァンド・アールという、美術の独裁者

ここで避けられないのが、背景アーティストのアイヴァンド・アールだ。
彼は本作で色彩設計と美術監督の両輪を担い、作品世界のイメージ構築をほぼ一手に引き受けたと言っていい。

この人の仕事を一言で言うなら、
「背景を描く」ではなく、世界を設計する

森の線が鋭い。
城の形が異様に整っている。
木も岩も雲も、自然物のはずなのにどこか幾何学的で、むしろ建築のようだ。

その結果、画面には独特の緊張感が生まれる。
童話のはずなのに、夢ではなく“構築物”としての世界が立ち上がっている。
ここが本作の恐ろしさだ。


4.3 世界中の美術を混ぜて、ひとつの「ディズニー中世」を作る

アールがやっていることは、文化のコラージュだ。
北欧美術、ゴシック建築、さらには日本の浮世絵的な平面性や装飾性。
いろんな要素を持ち込んで、それを一枚の画面に統合している。

これがなぜ効くかというと、芸術というもの自体が、そもそも純血ではないからだ。
文化は交わり、変形し、引用し合いながら更新されていく。
美術史は、だいたいその繰り返しでできている。

本作の背景は、その歴史の縮図みたいな顔をしている。
「現実世界が積み上げてきた造形の粋を、アニメの画面に圧縮してやった」みたいな圧がある。
見ていて気持ちいいというより、目が追いつかない


4.4 色彩は装飾ではなく、権力である

『眠れる森の美女』の色は、美しい。
だが、それだけじゃない。
色彩が「雰囲気」ではなく、支配力として機能している。

森は森で、ただ緑にしない。
城は城で、ただ荘厳にしない。
マレフィセント側の色が出てくると、画面が明確に毒を持ち始める。

これは、色が感情を誘導しているというより、
色が観客の呼吸を変えている感じに近い。
つまり「美術が演出を兼ねている」。

“Color is a power which directly influences the soul.”
「色彩は、魂に直接作用する力である」
――ワシリー・カンディンスキー

この作品は、その言葉を疑う余地なく証明してしまう。


4.5 しょうもない喧嘩が、奇跡の美に化ける

そして忘れられないのが、終盤の一連の美しさだ。
特に、踊るオーロラのドレスの色が次々に変化する場面。
あれはもう、説明を拒むタイプの美。

皮肉なのは、その起点が例の「妖精のしょうもない喧嘩」であることだ。
しょうもない小競り合いが、結果として芸術的クライマックスを生み出す。
物語としては腹立つのに、画面としては浄化される。

この矛盾を成立させられるのが、本作の美術の暴力だ。
観客は「しょうもない」と思いながらも、
次の瞬間には「……まあ美しいから許すか」と言わされる。
悔しいが、負ける。


第5章 お見事。

5.1 「プリンセス映画だから観ない」は、最大の見落としだった

正直に告白しておくと、私は長いこと『眠れる森の美女』を避けてきた。
理由は単純で、「プリンセスストーリーに興味がなかった」からだ。

剣と魔法は好きだが、
ドレスと恋愛にはどうにも食指が動かない。
そういう偏見を、私もまたきっちり持っていた。

だが、大人になってからこの映画を観て、はっきり思い知ることになる。
これは「プリンセス映画」ではない。
ディズニーというスタジオが、何を積み上げてきたかの総決算だ。

“Prejudice is ignorance.”
「偏見とは無知である」
――ヴォルテール


5.2 物語よりも、思想が前に出てくる映画

『眠れる森の美女』は、ストーリーそのものを語ろうとすると拍子抜けする。
展開はシンプルで、ひねりも少ない。
現代的な意味でのドラマ性は、正直そこまで高くない。

だがこの映画は、物語で殴ってこない。
代わりに、
思想と美意識で殴ってくる。

  • 人物は身体として存在するべきだ

  • 世界は美術によって構築されるべきだ

  • アニメーションは妥協の産物ではない

そうした主張が、セリフではなく画面そのもので提示される。

これはもう、映画というより「態度表明」に近い。


5.3 初期ディズニーの最高到達点として

白雪姫、ピノキオ、ファンタジア、ダンボ、バンビ。
初期ディズニーには、狂気じみた名作が並んでいる。

その中で『眠れる森の美女』は、
派手さでは一歩引いた位置にいる。
だが完成度という一点では、
間違いなく最も整っている

暴力的な実験精神は影を潜め、
その代わりに、
技術・思想・美術が高いレベルで均衡している。

“Perfection is achieved, not when there is nothing more to add, but when there is nothing left to take away.”
「完璧とは、付け足すものがなくなったときではなく、削るものがなくなったときに達成される」
――アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

この言葉が、やけにしっくりくる。


5.4 ディズニーが「変わっていく直前」の音

本作を境に、ディズニーは少しずつ変わっていく。
効率、再利用、記号化、量産性。
それらが悪いわけではない。
だが、方向は確実に変わった。

『眠れる森の美女』には、
その変化の足音が、まだ遠くで鳴っている

完全に失われてはいないが、
次第に遠ざかっていくものへの名残がある。

だからこそ、この作品は、
ノスタルジーではなく、
「分岐点」として語られるべきなのだと思う。


5.5 だから、未視聴なら今観てほしい

もしあなたが、

  • プリンセス映画は苦手

  • 古いディズニーは退屈そう

  • 子ども向けでしょ

そう思っているなら、
この映画はたぶん、あなたの予想を裏切る。

これは「可愛い」の映画ではない。
ディズニーが、芸術になろうと本気で足掻いた映画だ。

観終わったあと、
好きか嫌いかは分かれていい。
だが、
「すごかったか?」と聞かれたら、
答えは一つしかない。

お見事。


podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


ご感想は是非 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ #リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。

いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。

テーマトーク投稿フォームはこちら↓

直接のメッセージを送る場合はこちらまで↓

⁠⁠yomoyamakobanashi@gmail.com⁠⁠


これからも番組をよろしくお願いします。


いいなと思ったら応援しよう!