【#映画感想文】 北の国から(18〜24話) 蛍が「怖い日」と言った理由を考え続けている byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 宙ぶらりんの子ども
蛍は母に会いたかった。電話が通じるようになったとき、母のことを思った。母が富良野に来たとき、その存在に心が揺れた。甘えたい、触れたい、近くにいたい。子どもとして当たり前の感情が、蛍の中にはたしかにあった。
だが同時に、蛍はあの場面を見ている。母の浮気を、自分の目で見てしまった子どもである。見なければよかったものを見た。知らなければよかったことを知った。それでも母は母であり、嫌いになれるほど蛍は大人ではなかった。会いたいという気持ちと、許せないという気持ちが、どちらも本物のまま蛍の中に並んでいた。
この二つは決着がつかない。つけようがない。母が生きているあいだは、どちらかに傾きかけてはまた戻る、その繰り返しでよかった。会えばまた揺れる、離れればまた忘れかける。不安定だけれど、少なくともその揺れには時間があった。いつか気持ちの整理がつくかもしれないという猶予が、かろうじて蛍を支えていた。
母が死んだことで、その猶予は消えた。会いたかった相手はもういない。許せなかった相手も、もういない。気持ちの置き場がなくなった。怒りをぶつけることも、甘えることも、もうできない。蛍の中に残ったのは、答えの出ないまま止まった感情だけである。
蛍が「怖い日」と言ったのは、そういうことだ。母のことを思い出そうとすると、いい記憶のほうが先に出てくる。優しかった母、一緒にいた時間、あたたかかった感触。それは蛍にとって救いではない。むしろ怖い。なぜなら、いい思い出が浮かぶたびに、自分が母を拒んでいたことの重さが増すからだ。あのとき素直に甘えていればよかった。あのとき電話をかけていればよかった。そういう後悔が、いい記憶の裏側にべったりと貼りついている。思い出すことが、そのまま自分を責めることになる。だから怖い。
子どもは本来、親に対して怒りと愛情を同時に持つことを許されていい。だが蛍の場合、その両方を抱えたまま相手がいなくなった。解決の手段も、時間も、もう残っていない。宙ぶらりんという言葉がこれほど痛く響く状況はない。
五郎は蛍に「許そう」と言った。自分は妻を許していると。だがその言葉の続きに、「だけど、妻は自分を許してくれなかった」という一文がある。この言葉の意味は、次章でもう少し丁寧に見てみたい。
第1章 許すと言った男の沈黙
五郎は蛍に「許そう」と言った。母さんを許そう、と。そして、自分はもう許していると。この言葉だけを聞けば、五郎は寛大な父親に見える。妻の裏切りを受け入れ、子どもたちにもそうするよう促す、器の大きな男。だが、五郎のその言葉をそのまま受け取ることには、少し立ち止まる必要がある。
五郎が「許している」と言ったとき、それは本当に許しという感情の結果だったのか。あるいは、許すしかなかったのではないか。妻はもう死んでいる。怒りをぶつける相手がいない。恨みを言っても届かない。生きている人間に対してなら、許すという行為には選択の重みがある。だが死者に対して「許す」と言うとき、それは選択というよりも、そうしなければ自分が持たないという切実さに近い。五郎が許したのは、妻のためではなく、自分自身のためだったのかもしれない。許さないまま生きていくことの重さに、五郎のほうが耐えられなかった。
そしてもうひとつ、五郎はこう言っている。妻は自分を許してくれなかった、と。この言葉は重い。浮気をしたのは妻のほうである。家庭を壊す原因をつくったのは妻のほうである。それなのに、許してもらえなかったのは五郎のほうだと、五郎自身が認めている。ここに、この夫婦の関係の核がある。
五郎は東京での生活に背を向けた。都会の価値観に馴染めず、社会的な成功を追うことができず、北海道の原野に暮らしを移した。それは五郎にとっては誠実な選択だったのかもしれない。自分に嘘をつかない生き方を選んだという意味では、五郎は筋を通している。だが、妻の側から見れば、それは夫が自分たちの生活を一方的に降りたということでもある。妻が何を求め、何に苦しんでいたかを、五郎がどこまで見ていたのか。妻の浮気は結果であって、その手前に何があったのかを、五郎はどれだけ引き受けていたのか。
「許してくれなかった」という五郎の言葉は、そこに触れている。五郎は妻を責めない。だが同時に、自分が妻に与えた失望についても、はっきりとは語らない。許すという言葉の裏側に、自分もまた許されなかった人間であるという自覚がある。それを蛍に正直に伝えたことは、五郎なりの誠実さだろう。だがその誠実さは、蛍にとって救いになったかどうかはわからない。
蛍が必要としていたのは、母をどう思えばいいのかという答えである。好きでいていいのか、怒っていいのか、忘れていいのか。五郎の「許そう」は方向を示しているようでいて、実は五郎自身がたどり着いた場所を語っているにすぎない。蛍がそこに立てるかどうかは、別の話である。親の出した答えを、子どもがそのまま使えるとは限らない。
五郎は不器用な男である。言葉が少なく、感情を表に出すことが得意ではない。だからこそ、この場面で蛍に語りかけたこと自体が、五郎にとっては精一杯の行為だったのだろう。ただ、精一杯であることと、それが届くことは同じではない。五郎の言葉が蛍の中でどう響いたのか、その答えはこの時点ではまだ出ていない。
第2章 帰る場所がふたつある子どもたち
母が死んだあと、蛍と純の前にふたたび東京という選択肢が浮上する。母方の祖父母や親族がいる東京。かつて自分たちが暮らしていた場所。北海道に来る前の、もうひとつの「帰る場所」である。
だが、蛍と純にとって東京はもう以前の東京ではない。かつてはそこに母がいた。母がいるから東京には意味があった。家があり、学校があり、友達がいたとしても、子どもにとって場所の意味を決めるのは、そこに誰がいるかである。母のいない東京は、蛍と純にとってどういう場所なのか。その問いに、二人はまだ答えを持っていない。
一方で、北海道での暮らしにも蛍と純はすでに根を下ろしかけている。富良野の学校、近所の人たち、自然のなかでの日々。何より五郎がいる。父親と暮らすということが、蛍と純にとって当たり前の時間になりつつある。だが、その当たり前は、母が東京にいるという前提のうえに成り立っていた。母はいつでも会える距離にいる。いつか関係を修復できるかもしれない。その可能性が、北海道で暮らすことの安心感を裏から支えていた。母の死は、その支えごと崩している。
蛍と純の揺れ方はおそらく違う。純はまだ幼く、感情を言葉にする力が十分ではない。母の死を悲しんではいても、それが自分の生活をどう変えるのかを、純はまだ実感しきれていないように見える。純にとっては、五郎がいて、蛍がいて、日々の暮らしが続いていること自体がひとつの安定である。場所の選択という問題を、純はまだ自分のものとして引き受けるには小さすぎる。
蛍は違う。蛍はもう少し先まで見えてしまう年齢にいる。母の浮気を目撃したことも、母への複雑な感情も、蛍は自分のなかに抱えたまま処理しきれていない。そのうえで、東京か北海道かという選択を迫られることは、蛍にとって単なる住む場所の問題ではない。東京を選ぶことは、母の記憶のそばにいることを意味する。母が暮らしていた空間、母を知っている人たちのあいだで生きることになる。それは蛍にとって救いにもなりうるし、苦しみにもなりうる。あの「怖い日」が、東京ではもっと頻繁にやってくるかもしれない。
北海道を選ぶことは、五郎とともに母から離れた場所で生きることを意味する。物理的な距離が感情の整理を助けてくれる可能性はある。だが同時に、母を遠ざけることへの罪悪感が、蛍のなかに生まれないとは限らない。母が生きていたときにも会いに行かなかった自分が、母が死んだあとにも離れた場所にいることを選ぶ。それを蛍自身がどう感じるのか。
結局のところ、蛍と純にとって帰る場所がふたつあるということは、どちらを選んでも何かを手放すということである。子どもがその重さを引き受けるには、まだ早い。だが、引き受けなければならない状況は、子どもの準備ができているかどうかとは無関係にやってくる。五郎はそのことを知っている。知っていて、自分からは選ばせようとしない。五郎の不器用な優しさは、子どもに判断を委ねるという形で現れるが、それが子どもにとって楽なことかどうかは、また別の問題である。
第3章 蛍が黙るとき
蛍は言葉の少ない子どもである。感情を表に出すことが得意ではなく、泣きわめいたり怒鳴ったりすることで気持ちを処理するタイプではない。蛍の感情は、沈黙のなかに沈んでいく。それは五郎に似ている。父親の不器用さを、蛍はそのまま受け継いでいるように見える。
だが、五郎の沈黙と蛍の沈黙は質が違う。五郎は大人である。言葉にしないことを自分で選んでいる。語らないという判断が、五郎の場合にはある程度意識的である。蛍は違う。蛍は言葉にできないのだ。感情が大きすぎて、どこから手をつけていいかわからない。何を言えば自分の気持ちに届くのかがわからないまま、口を閉じている。それは選択ではなく、手詰まりである。
母の浮気を見たときも、蛍は黙っていた。誰にも言わなかった。純にも、周囲の大人にも。子どもが親の性的な裏切りを目撃するという経験は、言語化の範囲を超えている。何を見たのか、それが何を意味するのか、自分はどう感じているのか。そのすべてを整理するには、蛍はあまりにも幼かった。言えないのではなく、言うための言葉がまだ自分の中に存在しなかった。だから蛍は黙った。黙ることでしか、あの経験を抱えていられなかった。
母が富良野に来たとき、蛍の態度には拒絶と渇望が同時に現れている。母に近づきたい気持ちと、近づくことへの抵抗が、ひとつひとつの仕草に表れる。母の顔を見ようとして目をそらす。話しかけられて返事をするが、声が硬い。甘えたい気持ちを出しかけて、すぐに引っ込める。蛍のこうした振る舞いは、計算ではない。自分でもどうしていいかわからないまま、体が勝手に反応しているのに近い。
そして母が死んだあと、蛍の沈黙はさらに深くなる。「怖い日」という言葉を蛍が口にしたこと自体が、実はかなり珍しい瞬間だったのではないか。蛍が自分の感情に名前をつけて、それを誰かに伝えた。あの一言には、蛍が普段どれだけ多くのことを飲み込んでいるかが透けて見える。怖い日、と言えたのは、そのときだけだったのかもしれない。普段の蛍は、怖いとも悲しいとも寂しいとも言わない。ただ黙って、日々を過ごしている。
蛍のこの沈黙は、周囲の大人たちにとって扱いが難しい。泣いてくれれば抱きしめられる。怒ってくれれば受け止められる。だが黙っている子どもに対して、大人は手の出しようがない。五郎もまたそうだろう。五郎自身が言葉で感情を扱うことが苦手な人間だから、蛍の沈黙の奥にあるものを感じ取っていたとしても、それを引き出す術を持っていない。父と娘は同じ不器用さを共有しているがゆえに、互いの痛みに触れられないまま並んでいる。
蛍が黙っている時間のなかで、感情は消えているわけではない。むしろ沈殿している。処理されないまま底に溜まっていく。母への怒り、母への愛情、自分が素直になれなかったことへの後悔、それらが混ざり合ったまま、蛍の内側に積もっていく。それがいつか何かの形で表に出るのか、それとも蛍という人間の一部として静かに組み込まれていくのか。この時点では誰にもわからない。蛍自身にも、わかっていない。
終章 許されないまま続く暮らし
五郎は妻を許したと言った。だが妻は五郎を許してくれなかったと言った。蛍は母を許したいのか許せないのかもわからないまま、母を失った。純はまだその問いの入り口にも立てていない。この家族には、許しという感情がきれいに成立した瞬間がひとつもない。
許すとは何か。相手の過ちを認めたうえで、それでも関係を続けると決めること。あるいは、怒りを手放すこと。そのどちらであっても、許しには相手が必要である。相手がいて、相手との関係がこれからも続くという前提があって、はじめて許しは意味を持つ。だが令子は死んでしまった。五郎が許しても、その許しを受け取る相手がいない。蛍が許そうとしても、許した先に母はいない。許しという行為が、宛先を失っている。
五郎の「許している」という言葉には、ある種の諦めが混じっている。怒り続けることに疲れた、というのとも少し違う。五郎はおそらく、妻がなぜ自分から離れたのかを、どこかで理解している。東京を離れ、文明的な暮らしを捨て、北海道の原野で一から始めるという五郎の選択は、五郎にとっては正しかった。だがその正しさは、妻にとっては別の意味を持っていた。妻は五郎の正しさについていけなかった。あるいは、ついていきたくなかった。五郎の誠実さは、妻の望んだ誠実さとは形が違っていた。そのことを五郎は知っている。知っていて、それでも自分の選んだ生き方を変えなかった。だから「許してくれなかった」という言葉が出てくる。自分には非がないとは、五郎は言っていないのである。
この五郎の自覚は、見過ごされやすい。五郎はしばしば、愚直で不器用だが根は正しい父親として語られる。だがこの場面での五郎は、自分もまた妻を失望させた人間であることを認めている。許す側であると同時に、許されなかった側でもある。その両方を背負ったまま、五郎は富良野で薪を割り、水を汲み、子どもたちと暮らしている。許しが完成しないまま、日常は続く。
蛍にとっては、もっと過酷である。蛍は母の過ちを知っている。知ったうえで、母を愛していた。その矛盾を抱えたまま、整理する時間を与えられなかった。母が生きていれば、蛍はいつか自分なりの答えにたどり着いたかもしれない。大人になって、母の弱さを理解できるようになったかもしれない。だがその機会は永久に失われた。蛍は子どものままの理解力で、大人の過ちを抱え続けなければならない。
「怖い日」と蛍が言ったとき、蛍は自分の中にある矛盾に最も近づいた瞬間だった。いい思い出が浮かんでくることが怖い。それは、母を好きだった自分を認めることが怖いということである。好きだったと認めてしまえば、母を拒んだ自分が許せなくなる。かといって、母を嫌いだったとも言えない。嫌いではなかったのだから。蛍の恐怖は、自分自身の感情のどこにも安全な場所がないという恐怖である。
この家族は、許しを完成させられないまま暮らしを続けていく。五郎は妻を許したと言いながら、許されなかった自分を抱えている。蛍は母を許すことも恨むこともできないまま、黙って日々を送っている。純はまだ幼くて、そのすべてをぼんやりとしか感じ取れていない。誰も楽になっていない。誰の感情にも決着がついていない。それでも朝は来て、飯を食い、学校に行き、薪を割る。北の国からが描いているのは、そういう家族である。解決ではなく、解決しないまま続いていく時間。許しが届かないまま積もっていく日常。その重さと、その中にかすかに残る温かさの両方を、この作品は手放さずに抱えている。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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