【#映画感想文】 #ディズニー アニメーション一気に批評 その21 『#きつねと猟犬』知名度低いのが納得いかない文句なしの名作 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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第1章 知名度、低すぎないか問題
1.1 「なにそれ?」と言われる覚悟を強いられる作品
**きつねと猟犬**について語ろうとするとき、まず避けられないのが、この一言である。
「なにそれ?」
ディズニーの話をしているはずなのに、会話が止まる。プリンセスも出てこない。魔法もない。ミュージカルナンバーで感情を押し切る展開もない。一般的に共有されている「ディズニーらしさ」から、本作は驚くほど外れた位置に置かれている。
日本での知名度が低い理由は、はっきりしている。まずタイトルが地味すぎる。「きつね」と「猟犬」。象徴的でも詩的でもなく、関係性をそのまま並べただけの言葉だ。絵面も地味だ。城もなければ、異国情緒もない。描かれるのは森と農場、そして狩りという、現実に近すぎる風景ばかりである。
さらに決定的なのは、この物語が「冒険譚」ではないことだ。世界を救わない。悪を倒さない。成長はするが、スケールは拡大しない。むしろ成長するほど、立場と役割によって世界が分断されていく。ディズニー作品としては、かなり異質で、かなり不親切だ。
1.2 なぜこの作品は「選ばれにくい」のか
多くの観客がディズニーに求めているのは、安心できる物語である。努力すれば報われ、正しければ救われ、最後には同じ場所で笑っていられる。そうした期待のフレームに照らしたとき、本作はあまりにも不穏だ。
ここで引用したいのが、19世紀イギリスの思想家ジョン・ラボックの言葉である。
What we see depends mainly on what we look for.
私たちが何を見るかは、何を探しているかに大きく左右される。
この言葉を借りるなら、多くの人はディズニー作品に「夢」を探しに行っている。だが本作が差し出してくるのは、夢ではない。予感である。それも、かなり嫌な予感だ。友情は続かないかもしれない。成長は関係を壊すかもしれない。正しい選択は、必ずしも幸福な結末を保証しないかもしれない。
こうした感触は、娯楽としてはあまりにも誠実すぎる。そのため本作は語られにくい。盛り上がらない。ランキングにも入りづらい。その結果、「知られていないディズニー作品」という立ち位置に追いやられてきた。
1.3 知名度の低さと完成度は無関係だ
だが、ここではっきり言っておきたい。知名度が低いことと、作品の完成度が低いことは、まったく別の話である。本作は派手に自己主張しない代わりに、観る側の人生に静かに入り込んでくるタイプの映画だ。
観ている最中に強烈なカタルシスを与えるわけではない。だが、観終わったあとに残り続ける。数年後、まったく別の文脈でふと思い出す。学生時代の友人と疎遠になったとき、仕事や立場の違いで会話が噛み合わなくなったとき、もう同じ場所には戻れないと悟った瞬間に、この物語が急に輪郭を持って立ち上がる。
本作は、そういう記憶の層に触れてくる映画である。流行らないのは当然だ。だがそれは欠点ではない。むしろ、人生のある局面においてだけ強烈な意味を持つよう、意図的に設計された作品だと言える。
だから私は断言する。本作の知名度が低いのは、作品が劣っているからではない。観る側が、この物語を必要とする地点に、まだ到達していないだけなのだ。
第2章 あらすじ
2.1 友情は最初から終わりを内包している
きつねと猟犬は、物語の始点からしてすでに不穏だ。
森で暮らす母ぎつねは、人間の狩りによって命を落とす。残された子ぎつねのトッドは、偶然にも人間の女性ツイード夫人に保護され、農場で育てられることになる。この時点で、本作ははっきりと線を引いている。自然と人間、野生と管理、守る側と狩る側。その境界線は、最初から揺るがない。
同じ頃、猟犬の子犬コッパーもまた、人間の手によって育てられている。トッドとコッパーは、立場も役割も知らない幼い存在として出会い、ただ一緒に遊ぶことで友情を育んでいく。彼らにとって重要なのは、種族でも役割でもない。ただ楽しいかどうか、それだけだ。
だが観客は知っている。彼らが成長すれば、きつねと猟犬は敵対関係に置かれるという事実を。物語は、その避けられない未来を一切隠さないまま進んでいく。
2.2 成長とは、関係性の再編成である
時間が流れ、トッドとコッパーは成長する。成長とともに、彼らの世界は広がるのではなく、むしろ役割によって固定されていく。トッドは野生のきつねとして森に戻され、コッパーは猟犬として訓練を受ける。かつて無邪気に結ばれていた友情は、立場の違いによって徐々に引き裂かれていく。
ここで重要なのは、誰かが裏切ったわけではないという点だ。悪意はない。選択も、ある意味では正しい。トッドはきつねとして生きるしかなく、コッパーは猟犬として生きるしかない。これは倫理的な対立ではなく、構造的な対立である。
この構造は、人間社会にもそのまま当てはまる。成長とは、自由が増えることではない。多くの場合、役割が与えられ、期待が背負わされ、戻れない場所が増えていく過程である。本作は、その現実を一切ぼかさない。
2.3 観客だけが持たされる残酷な視点
この物語が残酷なのは、トッドとコッパーが未来を知らないまま友情を育んでいく点にある。彼らは、やがて来る断絶を知らない。知っているのは観客だけだ。
ここで思い出したいのが、哲学者スピノザの次の言葉である。
Homo liber de nulla re minus quam de morte cogitat.
自由な人間は、死について最も考えない。
未来を知らないからこそ、彼らは自由だ。しかし観客は自由ではない。結末を予感しながら、無邪気な時間を見つめ続けなければならない。この非対称な視点こそが、本作の感情的な核を形成している。
あらすじを追うだけなら、きわめてシンプルな物語だ。出会い、別れ、それぞれの道を歩む。ただそれだけである。だがその単純さの中に、成長と断絶、友情と役割、自由と不可避が、過不足なく詰め込まれている。
この作品は、物語を語るふりをしながら、人生の構造そのものを提示してくる。その冷静さと誠実さが、次章以降でよりはっきりと姿を現すことになる。
第3章 ラブストーリーにさよならを
3.1 ディズニーが一度、恋愛を主軸から外した瞬間
この作品を語るうえで、どうしても避けて通れないのが一点ある。
本作には、恋愛がほとんど存在しない。
正確に言えば、異性への好意やペアリング的な要素がまったくないわけではない。だがそれは物語の中心には置かれていない。ディズニーが長年磨き上げてきた「恋に落ちる → 試練 → 結ばれる」という黄金パターンは、ここでは意図的に脇へと追いやられている。
代わりに据えられたのが、友情だ。それも一時的な友情ではない。成長によって必ず破壊されることが最初からわかっている友情である。きつねと猟犬という組み合わせは、偶然の可愛さではない。彼らは、同じ世界に留まり続けることができない存在として設定されている。
ここで描かれる友情は、努力すれば守れるものではない。相手を思いやれば持続するものでもない。むしろ、何も悪いことをしていなくても壊れてしまう関係性として描かれている。この冷酷さは、ディズニー的でないどころか、かなり異例だ。
3.2 友情というテーマが持つ残酷さ
友情は、恋愛や家族関係と比べて、社会的な保証が極端に弱い。契約もなければ、制度的な裏付けもない。続くかどうかは、環境と時間と立場に大きく左右される。本作は、その不安定さを一切ロマン化しない。
倫理学者アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、友情について次のように述べている。
Friendship seems to hold cities together.
友情は都市を結びつけているように見える。
だが同時に、友情は同じ徳や生のあり方を共有している場合にしか持続しないとも述べている。つまり、生き方が変われば、友情は自然に解体される。本作で起きているのは、まさにそれだ。トッドとコッパーは敵になったわけではない。ただ、生き方が分岐しただけなのである。
この視点に立つと、本作の物語は決して悲劇ではない。むしろ極端なまでに現実的だ。友情は尊いが、万能ではない。人生のすべてを背負わせるには、あまりにも脆い。その事実を、ディズニーが真正面から描いたという点に、この作品の異様さがある。
3.3 なぜこの選択はここまで胸に刺さるのか
本作が多くの観客にとって説明しがたい痛みを残すのは、友情が否定されていないからだ。友情は確かに存在した。意味もあった。嘘ではなかった。だからこそ、それが終わることがつらい。
ここで思い出したいのが、作家で神学者でもあったC・S・ルイスの言葉である。
Friendship is unnecessary, like philosophy, like art.
It has no survival value.
友情は、哲学や芸術と同じように、生存には不要なものだ。
生き延びるためには不要だが、生を豊かにするためには不可欠なもの。それが友情である。本作は、その不要だが確かに存在したものを、最後まで否定しない。壊れたからといって、無意味だったことにはしない。この態度が、本作を単なる苦い話では終わらせていない。
恋愛を描かないという選択は、ディズニーにとって大きな賭けだったはずだ。だがその結果、この作品は、成長と別れを真正面から描くことに成功している。甘さを削ぎ落とした分だけ、残った感情は鋭く、長く心に残る。
友情にさよならを告げる物語ではない。
友情だけでは生きていけない世界を、静かに肯定する物語なのだ。
第4章 オープニングのつかみがすごい
4.1 冒頭で親を殺すという覚悟
この作品は、開始早々こちらの襟首を掴んでくる。主人公トッドの両親が猟に襲われる場面が、ほとんど前置きなしに投下されるからだ。残酷だと言ってしまえばそれまでだが、ここで重要なのは、ただショッキングな絵を見せたいわけではないという点である。冒頭でこの出来事を置くことで、本作は自分がシリアスな物語であることを観客に宣言している。笑って観る作品ではない。心のどこかが痛むことを前提に観る作品だ、と。
同じ「猟による死」というモチーフなら、どうしてもバンビが引き合いに出される。ただ、バンビの場合はそこに至るまでの助走が長く、観客の集中力が分散しやすい。対して本作は、開始直後に核心の一部を見せることで、物語の重心を最初に固定してしまう。トッドという存在は、最初から「喪失」を背負っている。そのことを、映像で一撃で理解させる。これは構成としてかなり巧い。
倫理学的に言えば、これは観客の道徳的無関心を許さない手法でもある。何も考えずに消費することを拒む。自分は今、可愛い動物の話を観ているのではなく、暴力が支配する世界を観ているのだ、と否応なく理解させられる。つまり、この導入は残酷なのではなく、誠実なのだ。
4.2 冒頭の一撃が物語の読み方を決めてしまう
冒頭の衝撃がもたらす効果は、単にテンションを上げることではない。この先の何気ない場面が、すべて違う意味を帯びるようになる。なぜなら観客は、最初に「この世界では死ぬ」と学習してしまうからだ。言い換えれば、これ以降の朗らかなシーンはすべて、終わりを知っている人間が見る幸福になる。
宗教学の領域では、こうした「先に終末を知ってしまった視点」を扱う議論がある。終わりを知る者は、現在を無垢に享受できない。これは宗教的な終末論だけではなく、人間の経験そのものに当てはまる。失う可能性を知った瞬間から、幸福は同時に恐怖を孕む。だから本作は、序盤の可愛らしい友情の場面でさえ、どこか胸が締め付けられる。
この効果は、単純なストーリーテリングの技術というより、観客の感情を倫理的な場所に連れていく技術だと思う。気持ちよく泣かせるのではない。気持ちよく笑わせるのでもない。こちらの感情を「それでいいのか」と問い直す方向に持っていく。そういう意味で、この冒頭は単なるつかみではなく、本作の思想そのものだ。
ここで、文学の言葉を借りるなら、アーネスト・ヘミングウェイの有名な一節がしっくりくる。
The world breaks everyone, and afterward, many are strong at the broken places.
世界は誰もを壊す。そのあとで、多くの人は壊れた場所から強くなる。
トッドは最初から壊されている。そして、その壊れた場所を抱えたまま、生きるしかない。この作品は、その現実を冒頭で一瞬にして観客に渡してくる。だからこそ、ここから先の物語の一つひとつが、ただ可愛いだけでは済まなくなる。
第4章 オープニングのつかみがすごい
4.1 冒頭で親を殺すという覚悟
この作品は、開始早々こちらの襟首を掴んでくる。主人公トッドの両親が猟に襲われる場面が、ほとんど前置きなしに描かれるからだ。ショッキングではあるが、ここで重要なのは、観客を驚かせること自体が目的ではないという点である。この一撃によって、本作は自分がシリアスな物語であることを明確に宣言する。これは可愛い動物映画ではない。生きるという行為が暴力と隣り合わせである世界の話なのだ、と。
同じく猟による死を描いた作品として、どうしてもバンビが想起される。ただし、バンビの場合はそこに至るまでの助走が長く、物語のトーンが定まるまでに時間を要する。一方で本作は、冒頭で核心の一部を提示し、物語の重心を一気に固定してしまう。トッドという存在は、最初から喪失を背負っている。その前提を、説明ではなく映像で叩き込む。この構成判断は、非常に冷静で、そして残酷なほど誠実だ。
倫理学の観点から見れば、これは観客の無関心を許さない手法でもある。かわいい、楽しい、で消費させない。自分はいま、暴力が世界を規定している現実を見ているのだと、否応なく理解させる。ここで描かれる残酷さは、煽情ではなく、世界の構造そのものなのである。
4.2 冒頭の一撃が感情の読み方を決めてしまう
冒頭の出来事が持つ最大の効果は、この先のすべての場面の意味を変えてしまう点にある。観客は最初に「この世界では死が起こる」と学習してしまう。その結果、以降に描かれる朗らかな友情の場面は、無垢な幸福としては受け取れなくなる。楽しいからこそ、失われることが予感されてしまう。
宗教学では、終末を知ってしまった者の視点がしばしば論じられる。終わりを知る者は、現在を完全には享受できない。これは宗教的終末論に限らず、人間の経験一般に当てはまる構造だ。失う可能性を知った瞬間から、幸福は同時に恐怖を内包する。本作は、その状態を観客に強制する。
ここで思い出されるのが、アーネスト・ヘミングウェイの言葉である。
The world breaks everyone, and afterward, many are strong at the broken places.
世界は誰もを壊す。そのあとで、多くの人は壊れた場所から強くなる。
トッドは物語の開始時点ですでに壊されている。そして、その壊れた状態を抱えたまま、生きていくしかない。本作は、その事実を一切の猶予なく観客に手渡す。だからこそ、この後に描かれるどんな穏やかな場面も、ただ可愛いだけでは終わらない。すべてが、壊れた世界の上に成立している幸福として立ち上がってくる。
第5章 朗らかなシーンに悲しみを感じさせる妙
5.1 可愛らしさが成立してしまうアニメーションの完成度
物語の序盤、トッドとコッパーが無邪気に遊び回るシーンは、率直に言ってとても良い。動物の身体の動き、跳ね方、転び方、視線の配り方。そのすべてが過剰なデフォルメに逃げず、それでいて生き物としての躍動を失っていない。ディズニーが長年積み上げてきた動物アニメーションの技術が、ここで極めて高い精度で発揮されている。
重要なのは、これらの描写が単なる癒やしとして機能していない点だ。観客は自然と笑顔になる。親の目線で、子ども同士の遊びを見守るような感覚になる。だが同時に、どこかで引っかかりを覚える。可愛い。楽しい。でも、この関係は長く続かない。その予感が、映像の隅々にまで染み込んでいる。
ここで描かれる朗らかさは、未来を知らない者だけが享受できる幸福だ。トッドもコッパーも、自分たちがどのような存在になるのかを知らない。ただ一緒にいることが楽しい。それだけで十分な時間を生きている。この無知は愚かさではない。むしろ、生きることに必要な条件だ。
5.2 タイトルが幸福を破壊してくる構造
だが、観客は違う。観客はタイトルを知っている。きつねと猟犬。この二語が並んだ瞬間に、関係性の行き着く先が想像できてしまう。だからこそ、彼らの幸福な時間を、心から祝福することができない。
ここで効いてくるのが、あまりにも説明的で、あまりにも完成されたタイトルだ。比喩も装飾もない。ただ関係性を提示するだけの言葉。それが、物語全体に影を落とす。楽しげな場面であるほど、観客の胸は締め付けられる。笑顔の奥に、終わりが見えてしまうからだ。
宗教学の文脈で言えば、これは楽園追放以前の時間に近い。罪を知らない存在は幸福でいられるが、外部の視点を持った者は、もはやその幸福に完全には同化できない。観客は、最初から蛇を見てしまった立場に置かれている。だから、この朗らかさはそのまま悲しみに変換される。
5.3 幸福と悲劇を同時に成立させるという凄み
この作品の凄みは、幸福なシーンと悲劇的な予感を、同時に成立させている点にある。どちらか一方に傾かない。可愛いからといって安心させないし、悲しいからといって突き放しもしない。その両立が、観る側に複雑な感情を残す。
ここで思い出されるのが、哲学者セーレン・キルケゴールの言葉である。
Life can only be understood backwards; but it must be lived forwards.
人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない。
トッドとコッパーは、前を向いて生きている。だが観客は、後ろ向きの理解を強制されている。この視点のズレこそが、本作の感情的な強度を生み出している。幸福は確かに存在した。だが、それは後から振り返ったとき、必ず痛みを伴う。そういう幸福を、この作品は一切のごまかしなく描いている。
朗らかなシーンがあるからこそ、この物語は残酷になる。そして、その残酷さを引き受ける覚悟があるからこそ、本作は子供向けという枠を静かに超えていく。
第6章 コテコテのハッピーエンドにはしないという選択
6.1 それぞれの道を選ぶという結末
きつねと猟犬の終盤は、いかにもディズニー的な「奇跡の和解」へは進まない。観客としては、どうしても期待してしまう。成長して敵同士になった二匹が、最後の最後で理解し合い、再び同じ場所に戻るのではないか、と。だが本作は、その期待を意図的に裏切る。
結末で描かれるのは、決裂の完全な修復ではない。トッドは森へ戻り、野生の狐として生きていく道を選ぶ。コッパーは猟犬として、人間とともに生きる道を選ぶ。二匹は互いの存在を否定しない。友情が嘘だったとも言わない。だが、同じ場所で生きることはできないと、静かに受け入れる。
ここで重要なのは、この選択が「妥協」や「敗北」として描かれていない点だ。どちらも、自分に与えられた役割を引き受けた結果であり、その意味では誠実な決断である。本作は、友情を優先すれば生が壊れる場合もある、という現実を正面から描いている。
6.2 幸せは一つではないという倫理
この結末は、ディズニー作品としてはかなり異例だ。なぜなら、幸福の形を一つに回収しないからである。普通なら、皆が同じ場所に集まり、同じ価値を共有することが「幸せ」として提示される。だが本作は、幸せの形が複数存在することを認める。
ここで参照したいのが、アリストテレスの倫理学である。彼は『ニコマコス倫理学』の中で、人間の善は単一の行為ではなく、生全体のあり方として成立すると論じた。善く生きるとは、同じ行動を選ぶことではなく、それぞれの条件の中で最善を尽くすことだと。
この視点に立てば、トッドとコッパーの選択は、どちらも善である。片方が正しく、片方が間違っているわけではない。ただ、生の条件が違うだけだ。本作は、この倫理的多元性を一切説明せず、物語として提示する。その態度が、驚くほど成熟している。
6.3 一緒にいないことを肯定する勇気
友情を描く物語の多くは、「それでも一緒にいる」ことを価値として置く。だが本作が選んだのは、「一緒にいない」ことを肯定する道だった。友情は残る。記憶も残る。だが生活は交わらない。この距離感は、現実の人生にあまりにも近い。
社会学者ジグムント・バウマンは、近代以降の人間関係を「流動的」なものとして捉えた。関係は固定されず、役割や環境の変化によって容易に形を変える。その中で重要なのは、関係を無理に固定しようとしないことだ。本作の結末は、まさにそれを体現している。
ここで描かれる別れは、断絶ではない。持続可能な距離の設定だ。無理に一緒にいれば、どちらかが壊れる。そのことを理解したうえで、距離を取る。この判断は、大人になって初めて理解できる種類の優しさだろう。
甘いハッピーエンドを拒否したからこそ、この物語は嘘をつかない。すべてが丸く収まらなくても、生は続く。その続き方は、人それぞれ違っていい。その当たり前の事実を、ディズニーがこの時代に真正面から描いていたこと自体が、いま振り返ると少し信じがたいほどだ。
第7章 大人になってこそ見返したい一作
7.1 これは成長の物語ではなく、分岐の物語だ
この作品は、成長を祝福する物語ではない。正確に言えば、成長そのものを肯定も否定もしない。ただ、成長がもたらす不可逆的な分岐を、淡々と描いている。幼い頃に共有していた時間や感情は確かに真実だったが、それが将来を保証するわけではない。成長とは、可能性が広がることではなく、選ばれなかった道が確定していく過程でもある。
多くの物語は、成長を直線として描く。努力すれば高みに至り、かつての関係は形を変えながらも保存される。本作は、その幻想を静かに切り捨てる。関係は保存されないことがある。むしろ、保存されない方が自然な場合もある。その現実を、誰かを悪者にすることなく描いた点で、この作品は異様なまでに成熟している。
ここで引用したいのは、哲学者ハンナ・アーレントの言葉だ。
Forgiveness is the key to action and freedom.
許しは、行為と自由への鍵である。
この物語における許しとは、相手を許すことではない。過去を許すことでもない。変わってしまった関係性を、そのまま受け入れることへの許しである。本作の終盤で描かれる静かな距離感は、まさにその態度を体現している。
7.2 子どもの頃には見えなかったもの
子どもの頃にこの作品を観た場合、多くの要素は素通りされる。可愛い動物たちが遊び、やがて離れていく話として、どこか曖昧な印象だけが残るかもしれない。それは決して誤読ではない。ただ、まだ必要ではなかっただけだ。
大人になると、この物語は急に具体性を帯びる。進学、就職、結婚、転居。人生の節目ごとに、かつて近くにいた人間が、少しずつ遠くなる。その距離が、誰かの裏切りや怠慢ではなく、単なる選択の結果であることを、私たちは後から理解する。本作は、その理解に言葉を与えてくれる。
社会学者ピエール・ブルデューは、人間の選択が個人の意思だけでなく、置かれた構造によって大きく規定されることを示した。どれだけ誠実であっても、同じ場所に留まり続けることはできない場合がある。本作が描いているのは、まさにその構造的な別れだ。
7.3 今こそ観返す価値がある理由
この作品は、観る人を慰めない。だが、裏切りもしない。甘い希望を与えない代わりに、現実と折り合いをつけるための視点を差し出してくる。友情は尊い。だが、それだけでは生きていけない。それでも、友情が嘘だったわけではない。この二つを同時に成立させる物語は、実はとても少ない。
詩人アルフレッド・テニスンは、かつて次のように書いた。
’Tis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
愛して失ったほうが、最初から愛さなかったよりもよい。
本作が描いているのは、この言葉の感傷的な側面ではない。愛したこと、友情を結んだことが、その後の人生を静かに支え続けるという事実だ。たとえ一緒にいなくなっても、その時間が無意味になることはない。思い出としてではなく、生き方の一部として残り続ける。
派手さはない。語り継がれる名シーンも少ない。だがこの作品は、人生のある地点に立ったとき、確実に意味を持つ。だからこそ言いたい。これは子ども向けの隠れた名作ではない。大人になってからこそ、ようやく正面から受け取れる、静かで誠実な一本なのだ。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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