【#映画感想文】 #2時間ドラマ 『#顔』――#松本清張 の古典を大胆に翻案した現代風刺、あるいは「#社会派」は死なない 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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第0章 年を取ると松本清張が響く――本格ミステリ少年の敗北宣言
0.1 少年時代、私は松本清張が好きではなかった
松本清張といえば社会派ミステリの巨匠である。いわゆる本格ミステリ好きだった少年時代、私は松本清張の作品を好まなかった。トリックが地味だ。密室もない。アリバイ崩しも物理的というより社会的だ。何より、犯人の動機が「金」とか「出世」とか「保身」とかで、少年の私には退屈だった。
少年の私が求めていたのは、もっと華やかなものだった。孤島の館。連続殺人。見立て。暗号。名探偵の推理ショー。エラリー・クイーンやアガサ・クリスティ、そして横溝正史や島田荘司——彼らが作り出す「パズル」としてのミステリに、私は夢中だった。
しかし不思議なことに年を取るとなんだか松本の描く世界がものすごく響く。なぜか。答えは簡単だ。社会を知ったからだ。組織の論理を知り、権力の暴力を知り、人間の保身を知り、そして何より、「生きるために嘘をつく」ことの切実さを知った。松本清張が描いていたのは、パズルではなく、現実だった。そして、現実は、密室よりもずっと恐ろしい。
文芸評論家江藤淳は、『成熟と喪失』で、戦後日本文学を「私小説的リアリズム」の系譜として分析した。江藤によれば、日本の作家は「社会」よりも「私」を描くことに執着してきた。しかし、松本清張は違う。松本は、徹底的に「社会」を描いた。組織、階級、権力、金——これらの「システム」が、個人をどう歪めるのか。松本清張のミステリは、その歪みの解剖図だった。
"The detective story is the only form of popular literature in which good triumphs and logic reigns supreme."
(探偵小説は、善が勝利し、論理が支配する唯一の大衆文学の形式である。)
―― レイモンド・チャンドラー
しかし、松本清張は、この「論理の支配」を裏切る。松本の世界では、論理は勝たない。社会が勝つ。
0.2 社会派ミステリの弱点――時代の変化がリアリティを奪う
ただ、社会派ミステリの弱点は社会をリアルに描きこむがゆえに、時代の変化とともにそれがありそうな話からありえない話になってしまうことだ。
松本清張の代表作『点と線』(1958年)は、時刻表トリックで有名だ。列車の発着時刻のわずかな隙間を利用して、アリバイを作る。しかし、現代の読者にとって、このトリックは「ありえない」。なぜなら、防犯カメラがあり、ICカードの履歴があり、スマートフォンの位置情報があるからだ。1958年には完璧だったトリックが、2026年には通用しない。
これは、社会派ミステリの宿命だ。本格ミステリは、時代を超越する。密室は、いつの時代でも密室だ。しかし、社会派ミステリは、時代に縛られる。社会が変われば、トリックも動機も、すべて変わる。
しかし、ここで重要な問いが浮上する。社会派ミステリは、時代とともに「死ぬ」のか。それとも、「生まれ変わる」のか。
0.3 2時間ドラマ『顔』という挑戦――翻案という名の再生
本作は、武井咲を主役に、松本清張の「顔」を大胆に翻案し、現代風にアレンジした物語だ。2019年1月12日、テレビ朝日系列で放送された。監督は田﨑竜太、脚本は旺季志ずか。
原作の松本清張『顔』は、1956年に発表された短編小説だ。主人公は男性で、交際相手の女性を妊娠させ、結婚を迫られたことから彼女を殺害する。やがて彼はスタートしてのキャリアの始まりを迎える——しかし、過去は彼を追いかける。
2019年版『顔』は、この物語を大胆に翻案した。主人公を女性にするとともに、覆面歌手として描く。昨今の動画配信文化とともに散見されるようになった顔出し無しの歌手。歌手なのだから歌唱力で勝負すればよいのだが、テレビ放送がつくりだした文化の中で、外見の比重が高まったものだが、現代は揺り戻しとも言えようか、外見の露出無くして音楽のセールスを記録する例が増えている。
また、主人公は性的暴力被害を受けており、殺害の動機もそれになっている。原案となった松本清張の「顔」においては、むしろ妊娠させて結婚を迫られたからという理由で交際相手を殺した男が主人公だ。性的関係性のあり方について議論が高まる現代において、この改変は非常に時代のうねりを感じさせる。また、作中ではリベンジポルノについても描かれた。
本作が証明したのは、時代が変われど社会派ドラマのもつ魅力は変わらないということだ。もちろん、細かな描写は改変の余地がある。ただ、如何に社会を映し出した作品といえど、根底に流れるのは、人間の動物的側面なのだ。それだけは時代が下れど変わることはない。
本稿では、この『顔』という翻案作品を通じて、社会派ミステリの「不変」と「可変」を問う。そして、松本清張という巨人が現代に残したものを、再確認する。
第1章 原作『顔』の構造――1956年の社会と男性の暴力
1.1 原作のあらすじ――妊娠、殺人、整形、そして追跡
まず、原作の松本清張『顔』(1956年)を確認しよう。主人公は、ある男性。彼は、交際していた女性を妊娠させてしまう。女性は結婚を迫るが、男性は結婚したくない。なぜなら、彼には野心があり、この女性との結婚は彼のキャリアにとってマイナスだからだ。
男性は、女性を殺害する——。
この物語の核心は、二つある。第一に、「顔」というアイデンティティ。顔を見られなければ、過去を消せるのか。第二に、「男性の身勝手さ」。妊娠させた女性を殺すという、極めて利己的な動機。
文学評論家中島河太郎は、松本清張を評して「社会の暗部を照らす作家」と呼んだ。中島によれば、松本清張の作品は、単なる犯罪物語ではなく、「社会システムが個人に強いる暴力」を描いている。『顔』もまた、その系譜に連なる。
1.2 1956年という時代――戦後復興と「新しい顔」への欲望
『顔』が発表された1956年は、どんな時代だったか。戦後11年。日本は、高度経済成長の入口に立っていた。1956年は、「もはや戦後ではない」という言葉が『経済白書』に記された年だ。
戦争で焼け野原になった日本は、「新しい顔」を求めていた。国家としての新しい顔。個人としての新しい顔。
社会学者見田宗介は、『現代社会の理論』で、戦後日本を「まなざしの地獄」と呼んだ。見田によれば、戦後日本は、他者の視線に過剰に敏感になった社会だ。「世間体」「外聞」「体裁」——これらの言葉が示すように、日本人は、自分がどう見られているかを極度に気にする。
『顔』の主人公もまた、この「まなざしの地獄」の住人だ。彼は、自分の「顔」が過去を暴露することを恐れる。しかし、「まなざし」は彼を追いかける。
1.3 男性の身勝手さ――1956年のジェンダー構造
原作『顔』のもう一つの核心は、男性の身勝手さだ。主人公は、女性を妊娠させ、結婚を迫られ、それが邪魔だから殺す。
歴史社会学者落合恵美子は、『21世紀家族へ』で、戦後日本の家族を「標準家族」という概念で分析した。落合によれば、戦後日本は、「男性が働き、女性が家を守る」という家族モデルを標準化した。そして、この標準から外れることは、社会的な死を意味した。
主人公にとって、交際相手の女性との結婚は、「標準から外れること」だった。なぜなら、彼女は彼の「キャリア」にふさわしくない女性だったからだ。だから、彼は彼女を殺した。この論理は、極めて男性中心的だ。女性の命よりも、男性のキャリアが優先される。
この論理は、人気商売である芸能界において「理解可能」だ。それが、社会の論理だからだ。松本清張は、この論理を批判しているのではなく、描写している。そして、その描写の冷徹さが、読者を戦慄させる。
"The personal is political."
(個人的なことは政治的である。)
―― キャロル・ハニッシュ
第2章 2019年版『顔』の翻案――ジェンダーの逆転と現代的暴力
2.1 主人公を女性に、覆面歌手に――時代が求める「顔の隠蔽」
2019年版『顔』は、主人公を女性にした。そして、覆面歌手という設定を与えた。この二つの改変は、極めて重要だ。
まず、覆面歌手という設定。2019年、日本の音楽シーンでは、「顔を出さない歌手」が増えていた。ボカロP、YouTubeで活動するシンガー、そしてAdoのような「顔出しNG」のアーティスト。彼らは、「歌」だけで勝負する。
これは、テレビ文化への反動だ。テレビは、「顔」を求める。アイドル歌手、美男美女のアーティスト——テレビは、「見た目」を重視する。しかし、インターネットは、「顔」を必要としない。声だけで、音楽だけで、勝負できる。
メディア研究者マーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と述べた。マクルーハンによれば、メディアの形式そのものが、伝達される内容を規定する。テレビは「顔」を強調するメディアだ。しかし、インターネットは、「匿名性」を可能にするメディアだ。
2019年版『顔』の主人公は、この「匿名性」を利用する。彼女は、覆面歌手として成功する。顔を出さないことが、彼女の「強み」になる。しかし、同時に、それは彼女の「秘密」を隠す手段でもある。
2.2 性的暴力被害という動機――#MeToo時代の翻案
また、主人公は性的暴力被害を受けており、殺害の動機となっている。
2017年、#MeToo運動が世界を席巻した。ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性的暴行が告発され、世界中の女性たちが「私も(Me Too)」と声を上げた。日本でも、2018年に伊藤詩織氏が性暴力被害を公表し、社会に衝撃を与えた。
2019年版『顔』は、この時代の空気を吸っている。主人公は、性的暴力の被害者だ。そして、加害者を殺害する。これは、原作の「加害者である男性が、責任を逃れるために女性を殺す」という構造の完全な逆転だ。
フェミニズム理論家スーザン・ブラウンミラーは、『レイプ・踏みにじられた意思』で、性暴力を「権力の行使」として分析した。ブラウンミラーによれば、レイプは性欲の問題ではなく、支配の問題だ。男性が女性を支配するための手段だ。
2019年版『顔』の主人公は、この「支配」に抵抗する。彼女は、加害者を殺すことで、支配から逃れようとする。しかし、その「逃れ方」は、法的には許されない。彼女は、殺人者だ。この両義性が、ドラマに深みを与える。
2.3 リベンジポルノの描写――デジタル時代の暴力
また、作中ではリベンジポルノについても描かれた。リベンジポルノとは、元交際相手や元配偶者が、復讐のために相手の性的な画像や動画をインターネット上に公開する行為だ。
日本では、2014年に「私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律」(リベンジポルノ防止法)が施行された。しかし、法律ができても、被害は減らない。警察庁の統計によれば、リベンジポルノの相談件数は年々増加している。
リベンジポルノは、デジタル時代特有の暴力だ。かつて、性的な画像は「現物」だった。写真や動画は、物理的に存在し、破棄できた。しかし、デジタルデータは、コピーが可能で、拡散が容易で、完全な削除が困難だ。
法哲学者ジェフリー・レシグは、『CODE』で、「コードは法である」と述べた。レシグによれば、デジタル空間における「ルール」は、法律ではなく、プログラムのコード(仕様)によって規定される。リベンジポルノの拡散を防ぐには、法律だけでは不十分で、プラットフォームの設計が重要だ。
2019年版『顔』は、このリベンジポルノを描くことで、現代的な暴力を可視化する。主人公は、性的暴力を受け、さらにその画像を拡散される。二重の暴力だ。そして、この暴力から逃れるために、彼女は顔を隠す。
"Violence against women is perhaps the most shameful human rights violation."
(女性に対する暴力は、おそらく最も恥ずべき人権侵害である。)
―― コフィー・アナン
第3章 「顔」というメタファー――アイデンティティと社会的承認
3.1 顔とアイデンティティ――哲学的考察
「顔」とは何か。それは、単なる身体の一部ではない。顔は、アイデンティティの象徴だ。私たちは、顔によって他者を認識し、顔によって自己を表現する。
哲学者エマニュエル・レヴィナスは、『全体性と無限』で、「顔」を倫理の起点として論じた。レヴィナスによれば、他者の顔と向き合うとき、私たちは倫理的責任を負う。顔は、「殺すなかれ」と命じる。顔は、他者の脆弱性を示し、同時に、その尊厳を示す。
『顔』の主人公たちは、この「顔」を隠す。彼らは、なぜ顔を隠すのか。それは、過去から逃れるためだ。顔を隠せば、過去も隠せる——彼らはそう信じる。
しかし、顔を隱しても、過去は消えない。なぜなら、アイデンティティは、顔だけではないからだ。声、仕草、記憶、そして何より、「他者の記憶」。他者が覚えている限り、過去は存在し続ける。
3.2 覆面歌手という逆説――顔を隠すことで得られる自由
2019年版『顔』の主人公は、覆面歌手だ。彼女は、顔を隠すことで、自由を得る。顔を出さないからこそ、彼女は歌に集中できる。外見で判断されることなく、声だけで評価される。
しかし、これは逆説だ。彼女は、顔を隠すことで「自由」を得ているが、同時に、顔を隠さなければならない「不自由」も抱えている。彼女は、過去の暴力から逃れるために、顔を隠している。つまり、彼女の「自由」は、暴力によって強制されたものだ。
社会学者アーヴィング・ゴフマンは、『行為と演技』で、人間の社会的行動を「演技」として分析した。ゴフマンによれば、私たちは「前舞台(front stage)」と「後舞台(back stage)」を使い分ける。前舞台では、社会的な役割を演じる。後舞台では、素の自分に戻る。
覆面歌手は、この構造を極端化している。彼女の「前舞台」は、覆面をした歌手だ。しかし、彼女の「後舞台」——素顔——は、誰にも見せられない。なぜなら、それは彼女の過去を暴露するからだ。
3.3 顔認証技術の時代――2019年という時代背景
2019年は、顔認証技術が急速に普及した年でもある。iPhoneのFace ID、空港の入国審査、防犯カメラの顔認識——私たちの「顔」は、常に記録され、照合され、監視されている。
技術哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』で、「パノプティコン(一望監視施設)」の概念を提唱した。パノプティコンとは、中央の監視塔から、すべての囚人を監視できる刑務所の設計だ。フーコーによれば、現代社会は、このパノプティコンの原理で動いている。私たちは、常に監視されている——あるいは、監視されているかもしれないと感じている——から、自己規律する。
顔認証技術は、このパノプティコンを完成させる。私たちの顔は、データベースに登録され、どこにいても照合される。『顔』の主人公たちが恐れていたもの——顔によって過去が暴露されること——は、2019年には、技術的に可能になっている。
2019年版『顔』は、この時代の恐怖を描いている。主人公は、顔を隠す。しかし、顔認証技術の時代には、顔を隠すことすら、十分ではないかもしれない。DNA、虹彩、指紋——生体情報は、変更不可能だ。そして何より街を歩く一人ひとりが片手に高性能カメラを握りしめているのだから。
"We are what we pretend to be, so we must be careful about what we pretend to be."
(私たちは、自分が演じているものになる。だから、何を演じるかには注意しなければならない。)
―― カート・ヴォネガット
第4章 社会派ミステリの不変性――人間の動物的側面
4.1 時代が変わっても変わらないもの――暴力、欲望、保身
本作が証明したのは、時代が変われど社会派ドラマのもつ魅力は変わらないということだ。もちろん、細かな描写は改変の余地がある。ただ、如何に社会を映し出した作品といえど、根底に流れるのは、人間の動物的側面なのだ。それだけは時代が下れど変わることはない。
原作『顔』の主人公は、男性で、動機は「結婚したくない」だった。2019年版『顔』の主人公は、女性で、動機は「性暴力から逃れたい」だった。設定は真逆だ。しかし、根底にあるものは同じだ。それは、暴力から逃れたい、過去を消したい、新しい人生を始めたいという欲望だ。
進化心理学者ロバート・トリヴァースは、『利己的な遺伝子』の概念を発展させ、人間の行動を「遺伝子の利益」という観点から分析した。トリヴァースによれば、人間の多くの行動——愛、嫉妬、復讐、保身——は、遺伝子の生存と繁殖を最大化するための戦略だ。
『顔』の主人公たちの行動も、この枠組みで理解できる。原作の男性は、「不利な結婚」を避けるために殺人を犯す。これは、自分の社会的地位を守るための戦略だ。2019年版の女性は、「性暴力の記憶」を消すために殺人を犯す。これは、心理的な生存のための戦略だ。
どちらも、倫理的には許されない。しかし、動機は「理解可能」だ。それが、松本清張の、そして社会派ミステリの強さだ。
4.2 社会が変われば、暴力の形も変わる――しかし暴力は消えない
時代が変われば、社会の構造も変わる。1956年の日本と2019年の日本は、まったく違う社会だ。しかし、暴力は消えない。形を変えて、存在し続ける。
1956年の暴力は、「家父長制」だった。男性が女性を支配し、女性は従うことを強制された。2019年の暴力は、「デジタル化」された。性的な画像がインターネットで拡散され、被害者は永遠に傷つけられる。
社会学者ピエール・ブルデューは、『男性支配』で、ジェンダーによる暴力を「象徴的暴力」として分析した。ブルデューによれば、象徴的暴力とは、物理的な力を使わずに、社会の構造そのものが人々を支配する暴力だ。「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という規範が、人々を縛る。
松本清張は、この象徴的暴力を描いた。原作『顔』の主人公は、「出世のためには結婚できない」という社会の規範に縛られている。2019年版『顔』の主人公は、「性暴力の被害者は恥ずべき」という社会の規範に縛られている。
形は違うが、構造は同じだ。社会が個人を縛り、個人がその縛りから逃れようとし、そして悲劇が起きる。
4.3 翻案の意義――古典を現代に蘇らせる技術
翻案とは、単なる「設定変更」ではない。翻案とは、「古典の核心を抽出し、現代の文脈に埋め込む」技術だ。2019年版『顔』は、この技術の成功例だ。
文学理論家T・S・エリオットは、『伝統と個人の才能』で、「過去の作品は、現在の作品によって意味を与えられる」と述べた。エリオットによれば、古典は固定されたものではなく、現代の作家が古典を読み直すことで、新しい意味が生まれる。
2019年版『顔』は、松本清張の原作を「読み直した」。そして、新しい意味を与えた。原作は、「男性の身勝手さ」を描いていた。しかし、翻案は、「女性の抵抗」を描いた。この転換によって、『顔』は、2019年の観客に響く物語になった。
"The past is never dead. It's not even past."
(過去は決して死なない。過去ですらない。)
―— ウィリアム・フォークナー
第5章 2時間ドラマというフォーマット――制約と可能性
5.1 2時間という時間制約――凝縮された物語
2時間ドラマというフォーマットには、独特の制約がある。映画よりも短く、連続ドラマよりも長い。この「中途半端な長さ」が、実は強みになる。
映画監督ロベール・ブレッソンは、『シネマトグラフ覚書』で、「映画は、削ぎ落とすことで強くなる」と述べた。ブレッソンによれば、映画は、余計なものを削除し、本質だけを残すべきだ。
2時間ドラマは、まさにこの「削ぎ落とし」を強制される。原作の松本清張『顔』は、短編とはいえ、様々なエピソードを含んでいる。しかし、2時間ドラマは、それらをすべて描く時間がない。だから、核心だけを抽出する。
2019年版『顔』は、以下の要素に集中した。
性暴力被害
リベンジポルノ
覆面歌手としての成功
過去の追跡
顔を隠すという決断
これらの要素は、すべて「現代的」だ。そして、すべて「視覚的」だ。2時間ドラマは、説明よりも、映像で語る。この制約が、物語を強くする。
5.2 武井咲という配役――顔の演技
主演の武井咲は、この役に適任だった。なぜなら、彼女は「顔」を演じることができるからだ。
演技論の古典、スタニスラフスキー・システムでは、俳優は「内面から演じる」ことを求められる。しかし、映画やドラマでは、「顔で演じる」ことも重要だ。カメラは、俳優の顔をクローズアップする。そして、観客は、その顔から感情を読み取る。
武井咲は、微細な表情の変化で、感情を表現できる女優だ。恐怖、怒り、悲しみ、そして何より、「隠そうとする感情」——これらを、彼女は顔だけで演じる。セリフこそぎこちなく感じたが、顔の演技はなかなかのものだった。
『顔』というタイトルの作品において、主演女優の「顔」が重要なのは、当然だ。そして、武井咲は、その期待に応えた。
5.3 テレビ朝日土曜ワイド劇場の系譜――社会派ドラマの伝統
この作品は、テレビ朝日の土曜ワイド劇場(後の土曜プライム)で放送された。土曜ワイド劇場は、1977年から2017年まで続いた長寿番組で、2時間ドラマの代名詞だった。
土曜ワイド劇場の特徴は、「社会派」だったことだ。単なる娯楽ではなく、社会問題を扱うドラマが多かった。警察の腐敗、企業の不正、家族の崩壊——これらのテーマが、繰り返し描かれた。
2019年版『顔』も、この伝統を受け継いでいる。性暴力、リベンジポルノ——これらは、2019年の日本社会が直面している問題だ。ドラマは、これらの問題を「娯楽」の形で提示する。そして、観客は、楽しみながら、同時に考える。
これが、社会派ドラマの力だ。
"Art should comfort the disturbed and disturb the comfortable."
(芸術は、乱れた者を慰め、安穏とした者を乱すべきである。)
―— セザール・A・クルーズ
第6章 松本清張という遺産――なぜ彼の作品は翻案され続けるのか
6.1 松本清張作品の翻案の系譜――映画、ドラマ、舞台
松本清張の作品は、繰り返し翻案されてきた。映画、テレビドラマ、舞台——あらゆるメディアで、松本清張は「再生」されてきた。
代表的な例を挙げよう。
『砂の器』:1974年の映画(野村芳太郎監督)、2004年のテレビドラマ
『点と線』:1958年の映画、2007年のテレビドラマ
『ゼロの焦点』:1961年の映画、2009年の映画(犬童一心監督)
『黒革の手帖』:2004年、2017年のテレビドラマ
なぜ、松本清張の作品は、これほど翻案されるのか。
6.2 普遍的なテーマ――権力、欲望、そして人間の弱さ
答えは、松本清張が描いたテーマが「普遍的」だからだ。権力、欲望、保身、裏切り——これらは、時代を超えて存在する。
文芸評論家平野謙は、松本清張を評して「日本の近代を描いた作家」と呼んだ。平野によれば、松本清張は、明治以降の日本が抱えてきた矛盾——近代化と伝統、個人と社会、都市と地方——を作品の中に織り込んだ。
そして、これらの矛盾は、2020年代の日本にも存在する。形は変わったが、構造は同じだ。だから、松本清張の作品は、翻案され続ける。
6.3 「社会派」という方法論――リアリズムの強度
松本清張のもう一つの強みは、「リアリズム」だ。松本清張の作品は、徹底的に「現実」を描く。警察の組織、企業の論理、地方の風習——これらは、すべて綿密な取材に基づいている。
ジャーナリスト本多勝一は、『日本語の作文技術』で、「具体性」の重要性を説いた。本多によれば、抽象的な言葉ではなく、具体的な描写こそが、読者に「現実感」を与える。
松本清張は、この具体性の達人だった。彼の作品には、固有名詞が溢れている。駅の名前、列車の時刻、会社の名前、役職の名前——これらの具体性が、物語に「現実感」を与える。
そして、この現実感こそが、翻案を可能にする。なぜなら、具体的なディテールを「現代版」に置き換えれば、物語は現代に蘇るからだ。
終章 社会派は死なない――翻案という名の継承
終.1 結論――『顔』は成功した翻案である
2019年版『顔』は、成功した翻案だ。それは、以下の理由による。
第一に、時代性。 原作の「男性の身勝手さ」を、「女性への性暴力」に置き換えることで、#MeToo時代の観客に響く物語にした。
第二に、技術性。 覆面歌手、リベンジポルノ、顔認証技術——2019年の現実を反映した設定を導入した。
第三に、普遍性。 しかし、根底にあるテーマ——過去から逃れたい、新しい人生を始めたい——は、原作と同じだ。
この三つのバランスが、翻案を成功させた。
終.2 社会派ミステリの未来――時代とともに変わり、時代を超えて残る
社会派ミステリは、時代とともに変わる。しかし、同時に、時代を超えて残る。なぜなら、社会派ミステリが描くのは、「社会」だけではなく、「人間」だからだ。
本稿の冒頭で、私は「年を取ると松本清張が響く」と述べた。それは、社会を知ったからだ。しかし、同時に、人間を知ったからでもある。人間は、時代が変わっても、暴力を振るい、欲望に駆られ、保身に走る。
松本清張は、この「人間の動物的側面」を描いた。そして、その描写は、2020年代にも有効だ。
終.3 翻案という継承――古典を殺さずに、生かす方法
最後に、翻案という行為について考えよう。翻案は、古典への「冒涜」だろうか。それとも、「敬意」だろうか。
私は、翻案は「継承」だと考える。古典を博物館に飾るのではなく、現代の文脈に埋め込むことで、古典は生き続ける。そして、新しい世代に届く。
2019年版『顔』を見た若い観客は、おそらく原作の松本清張『顔』を知らないだろう。しかし、このドラマを通じて、松本清張の「視点」——社会が個人をどう歪めるか——を受け取る。それは、立派な継承だ。
本作が証明したのは、時代が変われど社会派ドラマのもつ魅力は変わらないということだ。もちろん、細かな描写は改変の余地がある。ただ、如何に社会を映し出した作品といえど、根底に流れるのは、人間の動物的側面なのだ。それだけは時代が下れど変わることはない。
社会派は死なない。形を変えて、生き続ける。そして、私たちに問い続ける。「あなたは、どんな社会に生きているのか」と。
"To be a writer is to throw away a great deal, not to be satisfied, to type again, and then again and again, making due allowance for human error."
(作家であるとは、多くを捨て去り、満足せず、何度も何度も打ち直し、人間の誤りを考慮に入れることである。)
―― ジョン・ハーシー
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podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
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