【#映画感想文】モンスターハンター ひと狩りいけなかった by オーマ【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 B級映画という免罪符、そして期待してしまったオーマ
B級映画には、不思議な安心感がある。
見る前から、こちらの肩の力が抜けている。多少のご都合主義や、理不尽な展開、説明不足の飛躍があっても、「まあ、そういう世界だよね」と受け入れてしまえる。物語の完成度よりも、勢いとノリ、あるいは一瞬の快楽が優先される世界。観客もまた、厳密な評価者であることを一時的に放棄する。その暗黙の合意こそが、B級映画というジャンルの #免罪符 なのだと思う。
だからこそ、映画『モンスターハンター』に対しても、最初から過度な完成度を求めていたわけではなかった。むしろ、「多少荒くてもいい」「トンデモでもいい」と、自分に言い聞かせていた節すらある。理屈よりも映像、整合性よりも体感。そういう期待の置き方をしていた。
ただ、それでも完全に無垢な観客ではいられなかった。
なぜなら、この作品は「モンスターハンター」という名前を背負っているからだ。
自分はPSP時代に初めてモンハンに触れ、以降、プレイ時間こそ減りながらもシリーズの多くに触れてきた側の人間だ。効率周回を極めたわけでも、TA勢でもないが、この世界観に長く付き合ってきたという自覚はある。だからこそ、B級映画だと頭では分かっていながら、どこかで #期待 してしまった。
「もしかしたら、これは当たりかもしれない」
そんな淡い希望を、無意識に抱いてしまっていた。
特に、映画の冒頭で軍が登場した瞬間、その期待は一気に具体性を帯びる。
モンハンプレイヤーなら、一度は考えたことがあるはずだ。
「近代兵器があれば、飛竜種なんて余裕じゃないか」
「ラオシャンロンも、ミサイル一発で終わるのでは」
ゲームの制約を超えた世界で、あのモンスターたちはどうなるのか。その #妄想 が、ついに公式に映像化されるのではないか。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ高鳴った。
ここで重要なのは、映画がその妄想を“否定しなかった”という点だ。
少なくとも冒頭は、観客のその期待に応えるような構えを見せていた。軍事組織、異世界転移、未知の生物との遭遇。ジャンル的には、パニック映画や軍事SFとしても成立しうる布陣が整えられていた。観客はそこで、ある種の「約束」を受け取る。
この映画は、そういう物語を見せてくれるのではないか、という期待だ。
だが、B級映画の免罪符は万能ではない。
原作がある場合、とりわけ長年ファンに愛されてきたシリーズであれば、その免罪符には自然と限界が生じる。どこまでが許され、どこからが失望に変わるのか。その境界線は、明文化されていない分、かえって厄介だ。
この映画を観ながら、私は何度も自分に問いかけることになった。
これは、B級だから許されるのか。
それとも、モンスターハンターだからこそ、越えてはいけなかった線があったのか。
この問いは、作品そのものよりも、むしろ観ている #私たち の側に突き返されてくる。
期待してしまったのは、映画のせいなのか。
それとも、長年この世界に親しんできた観客の、どうしようもない欲望だったのか。
この文章は、その違和感を整理するための記録でもある。
第1章 プレイヤーの妄想が現実に
モンスターハンターというシリーズに長く触れてきた人間には、ある種の共通した空想がある。それは、ゲームの制約から一歩外に出たとき、この世界はどう見えるのか、という想像だ。剣と弓と罠に縛られた狩猟ではなく、もっと別の力を持ち込んだならどうなるのか。プレイヤーは皆、心のどこかで一度は考えている。
近代兵器を使えば、飛竜種は本当に脅威なのか。
あの巨大な古龍は、現代科学の前でも神話でいられるのか。
それは決して、原作を軽んじる発想ではない。むしろ逆だ。何百時間も同じモンスターと向き合い、倒され、倒し、装備を整え、再び挑む。その反復の中で、プレイヤーはモンスターを「攻略対象」として深く理解していく。理解が進めば進むほど、別の条件下ではどうなるのか、という思考実験が自然と生まれる。無双願望というより、世界設定への興味に近い。
だからこそ、映画の冒頭に軍が登場したとき、多くのプレイヤーは同じ方向に想像を膨らませたはずだ。これは、プレイヤーが長年頭の中で繰り返してきた思考実験を、映像として可視化する試みなのではないか、と。
ここで一度、立ち止まって考える必要がある。
私たちは映画を観る前から、すでに物語を半分作ってしまっていたのではないか、という点だ。
ゲーム原作映画において、原作体験は強力なフィルターとして作用する。キャラクターの選択や展開を、映画そのものではなく、自分のプレイ体験と照らし合わせて評価してしまう。モンハンの場合、その傾向はさらに強い。なぜなら、物語よりも体験が前面に出るシリーズだからだ。各プレイヤーが、それぞれ異なる狩猟史を持っている。
映画は、その無数の体験の上に、一本の物語を置こうとする。その時点で、すでに歪みは避けられない。
それでも、冒頭の設定は「妄想を肯定する」方向に舵を切っていた。軍事力とモンスターの衝突という構図は、プレイヤーの想像を裏切らないどころか、積極的に刺激する。
だが、その妄想は、どこまで映画の内部で引き受けられていただろうか。
近代兵器がモンスターに通用するかどうか、という問いは、単なる強さ比べではない。それは、この世界がどのような論理で成り立っているのか、という根本的な問いでもある。モンスターが単なる巨大生物なのか、それとも自然や神話の象徴なのか。その位置づけ次第で、物語の方向性は大きく変わる。
映画は、その問いに明確な答えを出さないまま、先へ進んでしまう。
結果として、観客は「妄想が叶った」という満足と、「何かが置き去りにされた」という違和感を同時に抱えることになる。
この違和感は、失望というより、戸惑いに近い。
なぜなら、私たちはこの映画に、自分たちの妄想を勝手に託してしまったからだ。映画が語ろうとした物語と、観客が見たかった光景。そのズレが、ここで静かに生まれている。
そして、このズレは後に、より大きな問題として表面化していく。
第2章 生きているモンスターたち
この映画において、まずはっきりと評価できる点がある。それは、モンスターたちが「生きている存在」として描かれていたことだ。これは決して小さな成果ではない。
モンスターハンターのゲーム体験を振り返ると、私たちはモンスターをよく知っているようで、実はほとんど知らない。行動パターンは覚えている。怒り状態の兆候も、攻撃の予備動作も、嫌というほど叩き込まれている。だがそれらはすべて、「狩るために必要な知識」だ。生物としての息遣いや、環境との関係性までは、ムービーや設定資料を除けば、意外なほど描かれない。
だからこそ、映画の中でモンスターたちが画面いっぱいに動き回る姿には、単純な感動があった。砂の中を泳ぐ動き、獲物を探す視線、周囲の環境を利用した捕食行動。そこには、ただのボスキャラクターではない、生態系の一部としての存在感があった。
この感覚は、モンハンプレイヤー特有のものかもしれない。
「この世界に行ってみたい」
「アイルーを撫でたい」
「この土地の食文化を見てみたい」
そうした妄想を、一度でも抱いたことのある人間にとって、モンスターが生き生きと動いているという事実そのものが、ご褒美になる。
特に印象的なのは、モンスターが単に暴れる存在としてではなく、「そこに棲んでいるもの」として配置されている点だ。人間が侵入者であり、モンスターが環境の主であるという構図が、少なくとも視覚的には成立している。これは原作の感覚に、かなり忠実だ。
ここで重要なのは、この映画が「世界を見せること」には成功している、という点だ。
物語を語る前に、まず環境を提示する。
生態を並べ、異物としての人間を置く。
その段階までは、映画は確かにモンスターハンターをしている。
しかし、同時に気づいてしまうこともある。
この感動が、どこまで持続するのか、という不安だ。
モンスターが生きている。
それは確かにすごい。
だが、それ以上でも、それ以下でもない。
生態描写は、あくまで「見せる」行為にとどまっている。それが物語や人物の選択に、どのような意味を持つのかまでは踏み込まれない。モンスターがどう生きているかは描かれるが、なぜ人はそれを狩るのか、狩った後に何が残るのか、という問いには接続されない。
言い換えれば、この映画は「世界を覗かせてくれる」が、「世界の中に住まわせてはくれない」。
本来、モンスターハンターの世界には、モンスターと人間のあいだに微妙な緊張関係がある。狩るが、滅ぼさない。利用するが、敬意は失わない。そのバランスの上に、村や里の生活が成り立っている。プレイヤーが乱獲しているという事実と、世界観としての倫理が、奇妙な二重構造をなしているのが、このシリーズの面白さでもある。
だが映画では、その二重構造が整理されないまま、映像だけが先行する。
結果として、モンスターは「よく動く標的」になってしまう危うさを孕む。
この章で強調したいのは、否定ではない。
むしろ逆だ。
もしこの映画が、もう一歩踏み込んでいたなら。
この生態描写を、物語の根幹に接続できていたなら。
そう思わせるだけの力が、モンスターたちの描写には確かにあった。
だからこそ、この成功は、同時に限界の始まりでもあった。
次に見えてくるのは、なぜその力が持続しなかったのか、という問題だ。
モンスターは豊富に用意されている。
だが、物語の軸は、どこにあったのだろうか。
第3章 ごった煮の狩猟と失われた物語の軸
モンスターハンターというシリーズの強みは、疑いようもなくモンスターの多様さにある。古参から最新作までを振り返れば、印象に残るモンスターを挙げ始めるだけで、簡単に時間が溶けていく。空の王者として君臨し続けるリオレウス、異形性で記憶に焼き付くゴアマガラ、理不尽なまでの力でプレイヤーをねじ伏せてきたラージャンなどなど。それぞれが、プレイヤーの中に異なる記憶を残している。
だからこそ、映画制作の段階で「どのモンスターを出すか」は、相当に難しい判断だったはずだ。ファンの数だけ正解がある。誰かの推しを採用すれば、別の誰かの推しは切り捨てられる。その葛藤は、想像に難くない。
ただ、映画が選んだ解決策は、「できるだけ多く出す」という方向だったように見える。
結果として画面は賑やかになり、映像的な変化も保たれる。だが、その代償として、物語の軸が曖昧になっていく。
本来、狩猟には理由がある。
村を守るため。
生態系の均衡を崩す個体を止めるため。
あるいは、人の生活圏と衝突した結果として。
ゲームでは、その理由がクエスト文やNPCの会話といった、控えめな形で提示される(第三王女とかよくわからん奴もいるけど)。プレイヤーはそれを深く意識しないまま狩りに出るが、世界観としては確かに存在している。狩猟は、完全な暴力ではない、という前提が共有されている。
しかし映画では、モンスターが次々と現れ、次々と倒されていく。
その一つ一つに、明確な意味づけが与えられる前に、次の脅威が投入される。観客は、いま何を解決しようとしているのか、どこに向かって進んでいるのかを整理する暇を持てない。
これはテンポの問題というより、焦点の問題だ。
物語が一つのモンスター、一つの脅威、一つの衝突に腰を据えないまま進行していくため、狩りが連続するアクション以上のものにならない。
モンスターが豊富であることは、モンハンの魅力である。
だが、映画というフォーマットにおいては、その豊富さは刃にもなる。
観客はプレイヤーではない。装備更新や周回の文脈を共有していない。だからこそ、「今回はこれを狩る」という明確な軸が必要になる。
ごった煮の構成は、世界を広く見せる代わりに、深く掘り下げる余地を奪ってしまう。
結果として、モンスター一体一体が「印象的な存在」になる前に、次の存在へと置き換えられていく。
ここで生じるのは、奇妙な空虚さだ。
確かに狩っている。
確かに戦っている。
だが、その行為が、物語の中でどんな意味を持っているのかが、積み上がらない。
この感覚は、アクションが悪いから生まれるのではない。
むしろ逆で、アクションが成立しているからこそ、物語の不在が際立つ。
もし主軸となるモンスターが明確に定められていたならどうだっただろう。
一体の存在が、世界を揺るがし、人の暮らしを変え、狩られる必然を持っていたなら。
そこに至る過程で、他のモンスターが背景として配置されていたなら。
そうした構成であれば、生態描写は単なる見せ場ではなく、物語を支える要素になり得たはずだ。
だが映画は、その選択をしなかった。
結果として、狩りは連なるが、狩猟にはならない。
観客は、次の展開を追いながらも、心のどこかで迷子になっていく。
この迷子感は、やがて別の違和感へと形を変える。
それは、「倒されたモンスターは、その後どうなったのか」という、素朴だが無視できない問いだ。
第4章 狩猟か虐殺か
モンスターハンターというシリーズには、表立って語られることは少ないが、確かに存在している倫理がある。それは「モンスターを倒すこと」と「生命を無意味に奪わないこと」が、ぎりぎりのバランスで共存しているという感覚だ。
ゲームの中で、プレイヤーは無数のモンスターを狩る。素材を集め、装備を作り、また狩る。その行為だけを切り取れば、乱獲以外の何ものでもない。だが世界観としては、そこに言い訳のような文脈が用意されている。生態系を乱す個体、村に被害を与える存在、人の生活圏と衝突してしまった結果としての狩猟。プレイヤーがそれを意識しているかどうかは別として、「ただ殺しているわけではない」という建前が、世界の底に敷かれている。
この建前は、非常に重要だ。
それがあるからこそ、モンハンの世界は、単なる暴力の肯定にならずに済んでいる。
だが映画では、この部分がほとんど語られない。
モンスターは現れ、脅威となり、倒される。その一連の流れは分かりやすいが、なぜそれを倒す必要があるのか、倒した後にどう扱われるのかといった部分が、極端に省略されている。
印象的なのは、倒したモンスターが「資源」として扱われる場面がほとんどないことだ。狩猟である以上、本来は素材として利用され、生活の中に還元されるはずの存在が、映画の中ではほぼそのまま放置される。例外的に、あるモンスターのみが「利用される存在」として描かれるが、それも断片的で、世界観全体を支えるには至らない。
この結果、何が起きるか。
狩猟は、いつの間にか虐殺に近づいていく。
もちろん、映画の中の人々が意図的に残酷である、という話ではない。問題はむしろ逆で、そこに倫理を配置しなかったこと自体が、結果として暴力をむき出しにしてしまっている点にある。モンスターをどう扱うかを描かないという選択は、「どうでもいい存在」として扱うことと、ほぼ同義になってしまう。
さらに言えば、人の生活が見えないことも、この問題を加速させている。
村がない。
里がない。
日常がない。
生活が描かれなければ、守るものも見えない。
守るものが見えなければ、狩る理由も希薄になる。
結果として、モンスターは「出てきたから倒す対象」へと単純化される。これは、モンスターハンターという世界が、最も慎重に避けてきた地点ではなかったか。
ここで不思議なのは、映画がモンスターの生態を丁寧に描いていた点だ。
生き物としてのリアリティを与えながら、その命の扱いについては沈黙する。このねじれが、観客に説明しづらい違和感を残す。
私たちは、知らず知らずのうちに問いを突きつけられている。
この世界では、狩ることは正義なのか。
それとも、排除しているだけなのか。
映画はその問いに答えない。
だが、答えないという選択そのものが、観客を少し居心地の悪い場所に立たせる。
そしてこの居心地の悪さは、単なる演出上の問題ではない。
それは、「この世界に住んでいる人々が見えない」という、より根本的な欠落へとつながっていく。
終章 もしこの世界に「住めていたら」
ここまで書いてきて、改めて思うのは、この映画が決定的に描かなかったものは「物語」以前に「生活」だった、ということだ。
モンスターハンターの世界には、常に人が暮らしている。
村があり、里があり、商人がいて、職人がいて、子どもがいて、食卓がある。モンスターはその外側に存在する脅威であり、同時に資源でもあり、世界の一部でもある。だからこそ狩猟は、暴力でありながら、必要悪として成立してきた。
だが映画の世界には、その土台となる日常がほとんど見えない。
人々は移動し、戦い、耐え、次の場所へ向かう。調査団という設定上、描きにくかった事情は理解できる。それでも、驚くほど「そこで生きている感覚」が希薄だった。
もし、この映画に村があったならどうだっただろう。
小さくてもいい。ポッケでも、ユクモでも、名前のない集落でもいい。そこに人の営みがあり、モンスターと距離を取りながら暮らしている様子が描かれていたなら、狩りは違った意味を持ったはずだ。守るものが可視化されれば、暴力は理由を持つ。
あるいは、別の選択肢もあったかもしれない。
この映画が採用した「現代世界からの転移」という設定を、もっと突き詰める道だ。もし現代にモンスターが流入してきたら、人類はどう対処するのか。軍事力、政治、メディア、倫理。そうした現実側の構造とモンスターを真正面から衝突させる物語も、成立し得たはずだ。
どちらの方向にせよ、重要なのは「どの世界を描くのか」を明確にすることだったように思う。
本作は、その選択を曖昧なまま進んでしまった。結果として、映像は豊かだが、世界は定まらない。モンスターはいるが、暮らしはない。狩りはあるが、理由は弱い。
それでも、この映画を完全に切り捨てたいわけではない。
なぜなら、モンスターたちが生きていたことだけは、確かだったからだ。あの一瞬一瞬の迫力や、生態のリアリティは、本物だった。その点において、この映画は確かに「モンスターハンター」をしていた。
だからこそ、惜しい。
もし、もう一歩踏み込んでいたら。
もし、狩る理由や、命の扱いや、人の暮らしに目を向けていたら。
この映画は、誰のためのモンスターハンターだったのだろうか。
原作ファンの妄想をなぞろうとしたのか。
初見の観客に分かりやすいアクションを届けたかったのか。
そして、観ていた私たちは、何を期待してしまったのだろう。
無双する快感か。
世界に住む感覚か。
それとも、自分が長年親しんできたあの世界が、正当化される瞬間だったのか。
この映画は、多くを語らない。
だが、その沈黙の中で、観客の側に問いだけを残していく。
モンスターを狩るという行為を、私たちはどんな物語として見たかったのか。
もしかすると、その答えは、この映画の外側、私たち自身の中にあるのかもしれない。
……いろいろ書いてきたけれど、今になって思うと、一番残念だったのは、モンスターハンターのメインテーマが使われなかったことかもしれない。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
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