見出し画像

【#映画感想文】 『#雪山の絆』――倫理を越えて命と未来を掴む 生きることの神聖さを問い直す2時間26分 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


【#映画感想文】『#雪山の絆』――倫理を越えて命と未来を掴む 生きることの神聖さを問い直す2時間26分 【#Podcast エピソード紹介】

第1章 "あの事件"を初めて知った日のこと――中学生の私が受け取った衝撃

1.1 教室では教えてくれない「事実」がある

あれは中学生の頃だったと思う。映画「生きてこそ」(1993年、フランク・マーシャル監督)を観て、私は初めて1972年のアンデス山脈での出来事を知った。ウルグアイの若いラグビー選手たちを乗せた飛行機が墜落し、氷と雪の中で72日間、彼らが生き延びたという話。その「生き延びた方法」の一部が、当時の私には衝撃だった。

正直に書く。「人肉食」という言葉が頭の中で引っかかって、うまく消化できなかった。13歳か14歳の私には、それを処理するための言語も、哲学も、倫理学の文脈も持ち合わせていなかった。だから長い間、その事件を「うまく考えられないもの」として棚の奥にしまっておいた。棚の中でそれは眠り続け、私は大人になった。

2024年、Netflixで配信されたスペイン映画『雪山の絆』(原題:La sociedad de la nieve、J・A・バヨナ監督)を観て、その棚の中身を全部ひっくり返された。しまっておいたものが、一気に床に散らばった。散らばったまま、私はしばらく画面の前に座っていた。

"In the middle of difficulty lies opportunity." (困難の真只中にこそ、機会がある。) ―― アルベルト・アインシュタイン

この言葉を、この映画に対してそのまま使うのは、少しキレイすぎる。彼らが直面したのは「困難」などという生やさしいものではなかった。それでも、あの雪山の中で彼らは何かを見つけた。その「何か」について、私はこの記事で正面から向き合いたい。

1.2 1993年版「生きてこそ」と2024年版「雪山の絆」――同じ事件、まったく違う映画

同じ事件を扱った映画でありながら、1993年版と2024年版は根本的に異なる映画だ。これだけははっきり言っておきたい。

1993年版「生きてこそ」は、ハリウッドが作ったサバイバル映画の文法に則っている。英雄的な個人が前景に出て、試練を乗り越え、帰還する。感動のドラマツルギーとして完成度は高いが、どこかに「物語としての整理」が先行している感触がある。観客にとっては「安全に感動できる映画」として機能した、と言っていいかもしれない。

2024年版『雪山の絆』は、違う。J・A・バヨナ(『パーン!ネバーランドの秘密』『怪物はどこにいる』の監督)が選んだのは、もっとずっと正直な語り口だ。英雄を一人に絞らない。感動を安易に整理しない。死を遠ざけない。生存者の一人、死者が語り手として機能し、彼の視点から物語が流れていくが、それは客観的なドキュメントでも、個人の英雄譚でもない。集団の記録として、あの72日間が再構成される。

1.3 なぜ今、この映画が必要だったのか

2023年にNetflixで世界同時配信されたこの作品は(日本では2024年公開・配信)、Netflixオリジナルのスペイン語映画として当時話題を集め、第81回ゴールデングローブ賞の外国語映画賞にノミネートされるなど、世界的な評価を受けた。だがそれよりも、私が注目したいのは「なぜ2023年という時代に、この映画が作られる必要があったのか」という問いだ。

コロナ禍を経験した私たちは、ある意味で「集団で極限状態を生き延びる」ことの意味を、以前より身近な言語で考えられるようになったかもしれない。もちろん、アンデスの遭難と感染症のパンデミックは、規模も性質もまったく異なる。だが「見えない死と隣り合わせで、他者とどう共同するか」というテーマは、どこかでつながっている。


第2章 1972年の事実を整理する――映画を語る前に「あの72日間」を知っておく

2.1 ウルグアイ空軍571便の軌跡

1972年10月13日。ウルグアイのモンテビデオからチリのサンティアゴに向かう途中、アンデス山脈上空でウルグアイ空軍の571便が悪天候による判断ミスでコース変更に失敗し、標高4,600メートルの雪山に墜落した。乗客45名のうち、墜落時の生存者は33名。しかしその後も寒波、雪崩、負傷による死亡が続き、最終的に生き延びたのは16名だった。

生存者の大半は、ウルグアイのラグビーチーム「オールド・クリスチャンズ」の選手と関係者だった。平均年齢20代前半のカトリック教徒の若者たちが、文明から隔絶した雪山の中で72日間を生き抜いた。その過程で彼らが下した判断が、後に世界中で議論を呼ぶことになる。

遭難から16日目、ラジオから流れるニュースで彼らは知った。捜索は打ち切られた、と。誰も助けに来ない。自分たちの足で下山するか、そこで死を待つか。それが現実だった。

2.2 「選択」に至るまでの経緯

食料は墜落時に機内にあったものだけだ。チョコレート、ワイン、いくつかの缶詰。それらはすぐに底をついた。標高4,600メートルの雪山には、植物も動物もいない。あるのは雪と氷と、日に日に弱っていく仲間たちの身体だけだ。

生存者たちは後の証言で語っている。「その選択をするまでに、長い議論があった」と。宗教的に、人間として、それが許されることなのか。彼らはキリスト教の信仰を持っていた。カトリックの倫理では、食人は「大罪」に分類されうる。それを知っていながら、彼らは生きることを選んだ。

重要なのは、その選択が「冷静な合理的判断」から生まれたものではないことだ。極限の葛藤の末に、絞り出すようにして生き延びることを選んだ。「俺が死んだら、俺の身体を使って生き延びてほしい」と言って亡くなった仲間の言葉が、残された者たちの背中を押した場面もある。

2.3 12月22日の奇跡と帰還

10週間以上が経過した1972年12月12日、生存者の中でも体力のあるナンド・パラドとロベルト・カネッサの二人が、10日間かけてアンデスを徒歩で越え、チリ側の人里に辿り着いた。これにより、残り14名が12月22日に救出された。翌年、生存者たちは記者会見を開き、世界に向けて真実を告白した。そして予想通り、世界中で激しい議論が巻き起こった。

"Survival can be summed up in three words—never give up. That's the heart of it really. Just keep trying." (生存とは三つの言葉で要約できる――諦めるな。それが核心だ。ただ、試し続けること。) ―― ベア・グリルス

生き延びた者たちを責める声と、擁護する声。その議論は今も続いている。映画はその議論の「答え」を出さない。出す必要がないからだ。


第3章 映像と沈黙の倫理学――バヨナはどこに「カメラを向けなかったか」

3.1 「見せない」という演出の誠実さ

J・A・バヨナ監督の演出で最も印象に残るのは、「見せないこと」の意志だ。いわゆる「人肉食のシーン」を、この映画は一切グロテスクに描かない。行為そのものは画面の外に置かれ、観客に委ねられる。これは「配慮」ではなく「倫理的な選択」だと私は思う。

あの場面を派手に描けば、映画はセンセーショナルになれた。アカデミックな議論を生む映画ではなく、刺激的なエンターテインメントとして売り出せた。だがバヨナはその方向を選ばなかった。彼が見せたのは、選択に至る過程の苦悩と、選択の後の静寂だ。

映画批評家のロジャー・エバート(故人)はかつて「映画は何を見せるかではなく、何を感じさせるかだ」と言った。この映画が感じさせるのは、外部からの判断を押しつけてくる類の感情ではない。「自分がそこにいたとしたら」という、答えの出ない問いへの招待だ。

3.2 死の描写の「真摯さ」――誰もが平等に死んでいく

この映画は人が死ぬ。それも、かなりの頻度で、容赦なく。英雄的な死ではない。物語上の重要人物も、名前が覚えられる前に死ぬ。突然の雪崩で複数名が一気に失われる場面は、「映画的な死」の文法を意図的に破壊している。

通常、映画の中では「主要キャラクター」の死には特別な重みを与え、「モブキャラクター」の死は流れていく。だが『雪山の絆』では、その区別が徹底的に壊されている。すべての死が等価で、すべての死が痛い。観客は誰かの死に「特別に悲しむ」ことを許されない。なぜなら、次の死がすぐそこにあるからだ。

これは残酷な演出ではなく、最も正確な演出だ。あの場所では、すべての死が等しく重かった。映画はその事実を嘘なく映像に刻んでいる。

"The only way to make sense out of change is to plunge into it, move with it, and join the dance." (変化を意味あるものにする唯一の方法は、その中に飛び込み、共に動き、踊りに加わることだ。) ―― アラン・ワッツ

3.3 語り手カルリトスの選択が示すもの

本作の語り手はヌマ・トゥルカッティだ。彼は友人に誘われて飛行機に搭乗する。力になりたい。けれど傷を負った足は日に日に動かなくなる。

バヨナがヌマを語り手に選んだことには、明確な意図がある。「生き残らなかった者の視点」を選んだのだ。強い者の物語として語れば、あの事件は「特別な人間だから生き延びられた」という結論に収斂しがちだ。だがヌマの視点から語ることで、映画は「普通の人間が普通でない状況に置かれたとき、何が起きるか」という問いを保ち続ける。そして何より、命を失ったものの中にも確かに英雄が存在していたという事実が表に出てくる。圧倒的に重要な視点だ。


第4章 外から批評するな、という私の立場について――筏の絵画と世論の暴力

4.1 「メデューサ号の筏」が描いた生存の倫理

1818年、フランスの画家テオドール・ジェリコーは「メデューサ号の筏」という絵画を発表した。1816年にフランスの軍艦メデューサ号が難破し、乗組員・乗客の一部が筏で漂流した際の実話をもとにした作品だ。この事件でも、生存のために「倫理的に許されない行為」が行われたとされており、当時のフランス社会に衝撃を与えた。ジェリコーはその絵の中に、遭難者たちの絶望と生への渇望を凝縮した。

画面の中の人々に向かって、私たちは何を言う資格があるのか。温かい部屋で美術館に立って、あの絵の中の人々を批判できるか。答えは明らかだ。

1972年のアンデスの生存者たちへの批判も、構造的には同じだ。食べるものがあり、暖かい場所があり、助けを求めることができる状況にいる人間が、そのすべてを奪われた状況の人間の選択を「倫理的に間違っている」と断ずることの傲慢さは計り知れない。

4.2 当時のマスコミ報道と「人肉食議論」の暴力性

1973年の記者会見は、生存者たちにとって二度目の試練だったと言われている。彼らは世界に向けて真実を告白した。そして予想通りというべきか、一部のメディアと大衆は「食人族」という言葉で彼らを語り始めた。

これは批評ではない。暴力だ。極限状態で生き延びた人間に、安全な場所から石を投げる行為だ。社会心理学者スタンレー・ミルグラムが「権威への服従」実験(1963年)で示したように、人間は集団的な同調圧力に非常に脆い。「世論」という名の圧力が向いた方向に、思考停止して参加する人間がどれだけいるか。あの時代の報道は、その最悪の例のひとつだったと私は思う。

映画がその議論を大きく取り上げず、むしろ生存者たちの帰還後の様子を最小限の描写に留めたことを、私は高く評価する。彼らの「その後の人生」に対する好奇心を、映画は刺激しない。それがどれほど大人の判断か、考えてほしい。

4.3 「当事者でない人間が批評すること」の限界と必要性

しかし私自身の矛盾も認めなければならない。この記事を書いている私は、完全に当事者の外側にいる。Netflixの画面をソファに座って眺め、「感動した」「考えさせられた」と言っている。その立場から何かを語ることは、本質的には「蚊帳の外からの発言」だ。

だが、だからといって黙ることが正解だとも思わない。映画を観て、考え、語ることは、それが誠実な姿勢に基づくなら、意味がある。大切なのは「自分がどこに立っているか」を常に意識しながら語ることだ。私は彼らの経験を知らない。知る方法がない。だからこそ、知ろうとする姿勢を持ちながら、それでも届かない距離を正直に認めながら、語る。その謙虚さだけは、手放したくない。

"The important thing is not to stop questioning." (大切なことは、問い続けることをやめないことだ。) ―― アルベルト・アインシュタイン


第5章 キリスト教と生存の神学――彼らが選んだものの「聖性」について

5.1 カトリック教徒として生きることの意味

生存者たちはカトリック教徒だった。それもかなり敬虔な信者が多かった。その彼らが「人肉食」という選択に至るまでの葛藤は、単なる倫理的ジレンマではなく、信仰の根幹を問う問いだったはずだ。

カトリックの教義において、死者の身体は尊重されなければならない。それは神が創造した命の器であり、復活の時に必要なものとして扱われる。その前提に立てば、死者の身体を食べることは、その神聖さを冒涜する行為に映る。

だが生存者の一人、ホセ・ルイス・インシアルテは後の証言でこう言っている。「私たちは聖体拝領を思った。キリストの身体と血を受け取るように、仲間の身体が私たちの中に生き続けると思った」と。これは後付けの合理化ではないと私は思う。信仰を持つ人間が極限状態で見つけた、信仰の中の答えだ。

5.2 「生きることの神性」という逆転の論理

神学的に言えば、生命は神の賜物だ。その命を守ることは、神の意志に従うことでもある。生存者たちは、「生きることへの意志」と「禁忌を犯すことへの罪悪感」の間で引き裂かれながら、最終的に「生きることが最も神に近い行為だ」という結論を選んだ。

私がこの選択を「生きて命をつないでいこうとするための最も重要で神聖な行為」と呼ぶのは、この意味においてだ。それは宗教的な言葉を使った美化ではない。むしろ、生命の価値を最上位に置いた時、そこから演繹的に導き出される論理だ。哲学者エマニュエル・カントは「定言命法」(義務の倫理学)を唱えたが(『道徳の形而上学の基礎づけ』1785年)、カントの倫理学でさえ「生命の保全」は最基本の義務のひとつとして位置づけられている。

5.3 「仲間の死を無駄にしない」という誓い

映画の中で最も胸に刺さる場面のひとつは、死んでいった仲間たちへの誓いとも言える言葉だ。「お前たちが残してくれたものを、俺たちは生きることに使う」という意志が、行動の根幹にある。

これは冷酷な合理主義ではない。むしろ逆で、仲間の死を「無駄にしないために生きる」という義務感が、生存者たちを突き動かした。社会学的に言えば、これはデュルケームが「集合的感情」と呼んだもの——個人を超えた連帯の感覚が、個人を支える力——の極限型だ(エミール・デュルケーム『自殺論』1897年)。集団の絆が、個人の生存意志を強化する。

"He who has a why to live can bear almost any how." (生きる「なぜ」を持つ者は、ほぼあらゆる「いかに」に耐えられる。) ―― フリードリヒ・ニーチェ

精神科医のヴィクトール・フランクルがアウシュヴィッツの経験から書いた『夜と霧』(1946年)は、ニーチェのこの言葉を軸に書かれている。生存者たちが生き延びられたのも、「生きる理由」を見つけ続けたからだ。家族に会いたい。帰りたい。仲間の死を無駄にしたくない。それが「なぜ」だった。


第6章 集団の力学と個人の葛藤――誰が英雄で、誰が普通で、誰が弱かったか

6.1 英雄なき英雄譚の構造

先にも触れたが、この映画は意図的に「英雄を一人に絞らない」構造を持っている。ナンド・パラドとロベルト・カネッサが最終的にアンデスを徒歩で越えた事実は歴史的に重大だが、映画はその「英雄的行為」を「特別な一人の才能」として描かない。

心理学者マーティン・セリグマンが「ポジティブ心理学」の中で論じた「レジリエンス(回復力)」は、個人の特性であると同時に集団の特性でもある(マーティン・セリグマン『フローリッシュ』2011年)。集団のレジリエンスが高ければ、個人は一人では持てない力を発揮できる。16人が生き延びた理由は、「特別な英雄がいたから」ではなく、「集団としての絆と役割分担があったから」だ。

映画はその集団のダイナミクスを丁寧に描く。医学的な知識を持つ者が負傷者を看護する。体力のある者が雪の中で作業する。精神的に弱った者を励ます者がいる。そして「これは正しいことなのか」と問い続ける者が、集団の良心として機能する。誰もが「英雄」であり、誰もが「普通の人間」だった。

6.2 弱さを「持ち込む」ことの許された場所

私がこの映画で最も心を動かされたのは、弱さを見せることが許された場面の数々だ。泣く。祈る。諦めそうになる。怒る。それを責める仲間は、映画の中に出てこない。

サバイバル映画の文法では、「弱さを見せる者は足を引っ張る者」として描かれがちだ。だがこの映画の登場人物たちは、弱さを持ちながらそれでも「ここにいる」ことを許されている。心理療法家のブレネー・ブラウンが「脆弱性こそが勇気の源泉だ」と論じたが(ブレネー・ブラウン『立て直す力』2022年)、この映画はその命題を雪山の極限状態の中で体現している。

弱さを見せることができる集団は、強い。それは歴史上の軍隊の記録でも、現代の組織論でも繰り返し証明されてきたことだ。「強がり続けることへの強制」が集団を壊し、「弱さへの許容」が集団を生かす。

6.3 終わらない会話としての信仰

72日間の極限状態において、生存者たちが繰り返したのが「祈り」だった。ロザリオを握り、神に問い、神に怒り、それでも神に話しかけ続けた。この「信仰との格闘」は、単なる宗教的行為ではなく、「自分の内側にある何かとの対話」として機能していたと私は思う。

哲学者ポール・ティリッヒは「信仰とは究極的なものへの関わりだ」と定義した(ポール・ティリッヒ『信仰の力学』1957年)。宗教的な神学の言葉ではなく、人間が「自分の限界を超えたもの」と向き合う姿勢として。あの雪山の中で彼らが関わり続けた「究極的なもの」は、生死の境界線だった。その境界線と向き合い続けたことが、彼らに「なぜ生きるか」を問い続けさせた。

"Not everything that is faced can be changed, but nothing can be changed until it is faced." (直面したすべてが変えられるわけではないが、直面しなければ何も変えられない。) ―― ジェームズ・ボールドウィン


第7章 映像表現の話をする――バヨナは「冷たさ」をどう撮ったか

7.1 白と青の世界が持つ「感触移入」の力

J・A・バヨナの映像は、この映画において「感触を移植する」ために設計されている。アンデスの雪山の白は、ただ美しくない。冷たい。痛い。そこにいることが困難だ、という感触が、画面から伝わってくる。

美術監督とカメラワークが協力して作り出した「白と青の世界」には、人間が快適に存在できる余地がない。地平線がどこまでも広がり、その広大さが「いかに孤立しているか」を視覚的に叩き込む。心理学で言う「環境によるプレゼンス」——そこにいる感覚——が、画面を通じて観客に注入される仕組みだ。

これは計算された演出だ。観客が「気持ちは分かる」ではなく「そこにいる感覚に近いもの」を持てるように、バヨナはカメラの角度、光の温度、音の質を極限まで統制した。完全には届かないが、その「届けようとする誠実さ」が映像に宿っている。

7.2 音響設計の「静寂」が持つ意味

もうひとつ特筆すべきは音響だ。この映画には、いわゆる「盛り上がり場面の音楽」がほとんどない。感動を誘導するオーケストラが控えめで、代わりに「沈黙」と「環境音」が支配する。

吹きすさぶ風の音。雪が踏みしめられる音。息を切らす音。それだけだ。感情を操作する音楽を排除することで、映画は「観客自身の感情で反応する余地」を残している。この設計は、「映画が答えを出しにいかない」という姿勢と完全に一致している。

映像音響研究者のミシェル・シオンが論じた「聴取の契約」——観客は音から映像の意味を補完する——の理論(ミシェル・シオン『映画の音楽』1994年)に照らすなら、この映画は音楽による意味補完を意図的に避けることで、意味の解釈を観客に委ねている。高度な映画的選択だ。

7.3 実際のロケ地とVFXの融合――「本物らしさ」の追求

この映画は、実際のアンデスのロケ地(アルゼンチン側)でロケを行いながら、VFXで当時の環境を再現・補強している。制作陣は生存者たちへのインタビューを徹底的に行い、事故現場の詳細な記録を収集したとされる。

なぜこれが重要か。それは「本物らしさへの誠実さ」が映像の説得力を生むからだ。フィクションとして美化するのではなく、「あの場所に近づこうとする」制作姿勢が、画面から滲み出る。白雪姫の頬に紅を刺した「細部への執念」と、本質的には同じ話だ。観客が信じるまでやる。その誠実さが傑作を生む。


第8章 下山後の沈黙について、そして私たちへの問いかけ

8.1 映画が「帰還後の物語」を多く語らない理由

この映画が下山後のドラマを大きく取り上げていないことを、私は印象が良かったと感じる。

下山後の物語を大きく描くことは、映画的には可能だった。世論の批判、家族との再会、記者会見の緊張、生存者たちがその後の人生でどう折り合いをつけたか——それは感動的なドラマになれた。なぜバヨナはそれを選ばなかったのか。

答えは単純だ。それは「あの72日間」とは別の物語だからだ。下山後の物語を加えることで、映画は「外の世界からの視線」を持ち込む。その視線は必然的に、観客が「判断する立場」に立つことを促す。バヨナはその視線を最小限に留め、映画を「あの山の中にいた者たちの内側の話」として完結させることを選んだ。

8.2 生存者は今も生きている——「実話」が持つ固有の重み

この映画が特別なのは、描かれた人物たちが今も生きているという事実だ。ナンド・パラドは2006年に自伝『奇跡:アンデスの生存者の実話』を発表し、現在も講演活動を続けている。ロベルト・カネッサは医師になった。カルリトス・パエスは画家として活動している。

「実話」を映画化することの重みは、ここにある。映画の登場人物は実在する人間であり、その人間たちは自分の人生を「正しく描かれたか」という観点から映画を評価する権利を持っている。バヨナはその重みを明らかに意識した。生存者たちが制作に協力し、内容の正確さを確認したという事実が、映画の「信頼性」を担保している。

"We are what we repeatedly do. Excellence, then, is not an act, but a habit." (私たちは繰り返すことで作られる。卓越とは行為ではなく、習慣だ。) ―― アリストテレス(ウィル・デュラントによる解釈として広く知られる)

生存者たちが下山後も「生きることを続けた」事実は、あの72日間の選択の正しさを証明している。証明というよりも、肯定している、と言うべきかもしれない。

8.3 「批評の対象にすべき事象とそうでないもの」の話

下書きに、こんな文章を書いた。「批評を前提にすべき事象とそうでないものが確かに存在するのではないか」と。この問いに、私なりの答えを出しておきたい。

批評というのは本来、「外部の視点から対象を評価・分析する行為」だ。映画の批評、文学の批評、芸術の批評——それらは「対象との距離」を保つことで成立する。距離があるから、客観性が生まれる。

だが、ある種の事象には「距離を保つことの傲慢さ」が伴う。アンデスの生存者たちの選択は、その典型だ。批評の言葉で「正しかった」「間違っていた」を論じることは、まず距離の問題をクリアしなければ始まらない。そして私たちには、その距離を縮める方法がない。

これは「批評するな」という意味ではない。「批評する前に、その距離を認識せよ」ということだ。認識した上で、謙虚に、問いとして語る。それが誠実な姿勢だと私は思う。

8.4 終わりに――「生きることの神聖さ」を問い直す2時間26分

映画『雪山の絆』は、2時間26分の長さを持つ。長い。だが体感では、その長さを感じさせない。なぜか。それは映画が「外側から観察する映画」ではなく、「中にいる映画」だからだ。画面の中の寒さ、孤独、恐怖、連帯、悲しみ。それが積み重なって、観客は「あの山にいた72日間」のほんの欠片を自分の中に持ち帰る。

「生きることの神聖さ」という言葉を、私はこの映画を観た後に使いたいと思った。日常の中で、私たちは生きることを当たり前だと思っている。食事があり、暖かさがあり、眠れる場所がある。それが「神聖」だとは思わない。だが彼らはその当たり前を一切奪われた状況で、それでも生きることを選んだ。その選択の重さが、私が思っていた「生きることの当たり前さ」を揺さぶる。

揺さぶられた後、日常に戻る。また何気なく食事をして、何気なく眠る。だが、少しだけ違う感触が残る。この映画を観た後、その感触は消えない。それがこの映画の力だ。

レコードの針が溝を走るように、記憶は繰り返し蘇る。あの16人の顔が、選択の重さが、雪山の白と青が。それが消えないのは、映画が誠実だったからだ。誠実な映画は、観客の中に何かを残す。残ったものが、その映画の本当の価値だ。

私はこの映画を、何度も観返すと思う。観るたびに、「生きることとは何か」という問いが、少しずつ形を変えながら帰ってくる。答えは出ない。でも、問い続けることが大切なのだ、と——この映画は最後にそう言っている気がする。


#雪山の絆 #LaSociedaddeLaNieve #SocietyOfTheSnow #映画感想文 #映画レビュー #実話映画 #JA・バヨナ #JABayona #Netflix #ネットフリックス #アンデス #生きてこそ #Alive #ウルグアイ #1972 #アンデスの奇跡 #生命倫理 #サバイバル #Survival #実話 #TrueStory #カトリック #キリスト教 #信仰 #生存 #ラグビー #ナンドパラド #NandoParrado #ロベルトカネッサ #RobertoCannessa #カルリトスパエス #Podcast #ポッドキャスト #映画批評 #映画分析 #倫理学 #哲学 #社会学 #心理学 #集団心理 #レジリエンス #ヴィクトールフランクル #夜と霧 #生きる意味 #人肉食 #タブー #倫理的ジレンマ #EthicalDilemma #BioEthics #ゴールデングローブ賞 #外国語映画 #スペイン映画 #スペイン語映画 #世界映画 #バックカントリー #雪山 #極限状態 #生命 #命 #感動映画 #考えさせられる映画 #メデューサ号の筏 #ジェリコー #歴史映画 #集団の絆 #仲間 #連帯 #生存倫理 #カルチュラルスタディーズ #note #noteブログ #コラム #批評 #深読み #文化考察 #人間とは何か #アンデス山脈 #飛行機事故 #遭難 #72日間 #2023年映画 #NetflixOriginal

podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


ご感想は是非 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ #リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。

いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。

テーマトーク投稿フォームはこちら↓

直接のメッセージを送る場合はこちらまで↓

⁠⁠yomoyamakobanashi@gmail.com⁠⁠


これからも番組をよろしくお願いします。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集